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河村から着信が入ったのは、紗英と電話で話してから二日たった日の夜だった。電話の向こうの彼の声は、なぜか酷く掠れていた。
「俺のこと覚えてる?」
「ハイ、覚えてます」
私は記憶がおぼろ気になっていたことを黙っていた。
というのは、あれから再び小島正子と二人で話す機会があり、その時に色々情報を耳にすることが出来たからである。
どうやら小島正子は、合コンでの私と河村の会話に、始終耳をそばだてていたらしい。会話の内容を細部にまで記憶し、それを詳細に語る小島正子に若干思うことがあるのだが、私はあえてそれを無視した。
私が今勤めている会社は、地元ではわりと人気のある、菓子製造販売の会社である。そこの○×支店でケーキと和菓子を売るのが、私の日々の仕事だ。
小島正子の話では、河村は同じ会社の社員だったらしいのだ。彼は、隣町にある本店で、菓子企画製造を担当する部署に配属されているという。
何かの用事で○×支店へ来た時に、私を見かけたことがあると言っていたそうだ。
「小島さん。合コンで河村さんと何を話したのか、酔ってて本当にあまり覚えてないんですけど、私、何か失礼なことは言ってませんでした?」
「いや~、失礼なことは何も言ってなかったと思うわよ」
それよりもね。と彼女は、秘密を打ち明けるかのように声のトーンを落とした。
「彼、実家は京都でね。老舗の和菓子屋の跡取りだって言ってたわよ」
「京都の人なんですか。……老舗の和菓子屋って、もしかして有名な和菓子を作っていたりするんでしょうか」
「なんとかっていう和菓子を作っているって言ってたけど、ごめん、そこはよく聞こえなかったわ」
私は少々不快になる。
合コンで知り合ったばかりの女に自分の実家の家業を自慢気に話し、自分はそこの跡取りであるということまで恥ずかしげもなく言うところがいけ好かない男だ。自分はそんなものに釣られるような女だと思われたのだろうか。
「なんか凄いお家の人なんですね。私みたいな極々普通の家庭で育った人間とは合わなさそうですね」
小島正子は少し考えて、そうかしら。と呟いた。
「じゃあ、相田さんはどんな人がいいの?」
「えーと、それは……優しい人ですかね……」
小島正子の単刀直入な問いに極めて無難な答えを返すと、彼女は一瞬ぽかんとした顔で私を見た後、徐に笑いだした。
「そういえば、相田さんて、ついこないだまで学生だったんだもんねぇ。相田さんみたいに若い子は、まだ結婚のことなんか頭に無いかぁ」
「結婚……ですか? 小島さんていくつなんですか?」
「今年で二十六よ」
「小島さんだってまだ若いじゃないですか」
小島正子は首を横に振りながら大袈裟に掌をパタパタとさせ、そんなことないわよ。と強い口調で否定した。
「あのね、女ってね、二十五を過ぎたあたりから色々と衰え始めるの。だからね、いい男と結婚したければ今のうちから探してしっかり捕まえとかないと。男はいい男から売れていくものなのよ」
小島正子は、まるで世の中の決まりごとを教え諭すかのように言い、そして、こう続けた。
「男にとって、二十代の女と三十代の女とでは恐ろしいくらいの差があるんですって。だからね、いい男と結婚するなら、やっぱり三十までだと思うのよ」
「そうなんですか? 三十過ぎても結婚する人はしてますよ」
「それは、色々妥協したり運が良かったりしただけよ」
小気味良い程に言い切る彼女に返す言葉が見つからず、私は思わず黙り込む。
「だからね、結婚を視野に入れたお付き合いをしたいなら、彼は優良物件だと思うわよ。もし連絡がきたら会うだけ会ってみたら?」
優良物件という言葉に、私は思わずぴくりと反応した。
優良物件とは、もちろん河村の実家の家業と、彼がそこの跡取りであることを言っているのだろう。
つい先程は、そんなもので自分を釣ろうとしているのかと私は不快になっていたはずなのだ。
だが、小島正子がそれを優良物件と表現したことで、これが不思議なことに、これを簡単に切り捨ててしまうのは非常にもったいないのではないのだろうかと思えてきたのである。もし彼から連絡がきたら、迷わずにまずは会ってみるべきなのではないかと思えてきたのだ。
小島正子から言い当てられたように、結婚など露ほども頭に無く、自分にはまだまだ遠い未来のものであると漠然と考えていた。ただ普通に彼氏ができて付き合いを重ねていき、その先にあるものが「結婚」だと思っていたのだ。
だが、小島正子が力説した持論により、「結婚」という単語は、自分が思っていたよりも深く深く私の脳に刻まれていったのだった。
「そういえば、彼が実家の店を継ぐ時まで、今のところで勉強してるんだって。だから、いずれ会社を辞めて京都へ帰るからとか言って、相田さんに出身は、とか、兄弟は、とか色々訊いてたわよ」
「兄弟なら姉が一人いますけど……そんなこと訊いてどうするんでしょうね」
私の五つ上の姉は、一年前にお堅い公務員である市役所勤めの義兄と結婚し、今は実家の近くにアパートを借りて住んでいるのだが、将来は両親の面倒をみる為に、一軒家である実家で同居することが決まっている。義兄は三男である為、義実家とはその辺の話はついているらしい。
この話が決まった時の母の喜びようは物凄かった。毎回義兄が実家に来るたび、下へも置かないおもてなし振りだ。
「少しは新婚生活を楽しみなさい」
と、何年かは別々に住むことを言い出したのも母だった。それも、姉の為というよりは、義兄に対する母の気遣いだと私は思っている。
だが、姉がいるということが、河村と一体何の関係があるというのだろう。
小島正子は、まるで恋愛話をする十代の少女のように楽しげに目を輝かせ、益々彼女の舌は滑らかに動いた。
「それは、彼も結婚を視野に入れた付き合いを望んでいるということよ。やっぱり跡継ぎが必要な家に生まれた人って、そういうとこ気にするのねぇ」
小島正子は何か納得するように頷き、だからね。とその後に続けた。
「多分、相田さんは彼にとって、結婚を考えることが出来る女性だということになると思うの」
わかる? と言うように、小島正子は視線をピタリと合わせてきた。それは、真剣にも揶揄しているようにも見え、私は思わず視線を逸らした。
「……あの、どういうことなんでしょうか……?」
最後が尻すぼみ気味になってしまった私を見て、小島正子は呆れたように目を丸くした。
「嫌だ、相田さんて意外と鈍いのねぇ。だって、相田さんの上にはお姉さんがいるんでしょ? 彼はいつか京都に帰ることが決まっているんだから、もしそうなった場合、相田さんの実家のことはお姉さんにまかせて、なんの障害もなく相田さんを一緒に連れて行けるじゃないのぉ」
ここにきて、漸く胸につかえていた何かがストンと落ちたような気がした。
つまり、こういうことだ。もし私が一人っ子だったとするならば、実家を継ぐのは私しかいない。だが、他に兄弟がいて、それが男兄弟や姉であるならば、やはり普通に考えてその家の長男や長女が家を継ぐことになるであろう。
それに比べ、比較的自由な身である次女であるならば、ここから飛行機の距離である遠い京都へ連れて行きやすい。
おそらく河村は、自分の実家を継がなければならないという事情があるからこそ、相手の家の事情も考えてくれているということなのだ。
もちろん先に述べたように、私の実家は、跡継ぎが必要な立派な家柄でもなんでもないのだが。
「もちろん相田さんのことを、いいと思ったから声をかけたんだと思うけど、やっぱりそこは確認したかったんだろうねぇ……」
うっとりとした顔をして、最後は独り言のようにしみじみと呟くと、小島正子は再び目をキラキラと輝かせ、おそらく一番訊きたかったであろうことを口にした。
「で、もし携帯にかかってきたらどうするの?」
「どうって……どうもしませんよ」
「じゃあ携帯にでないの?」
「いやぁ、とりあえずはでますけど……」
「けど?」
身体を段々と前のめりにさせてくる彼女に気圧されるように、私は身体を仰け反らせていく。
何て言えばこの場をそつがなく乗り切ることが出来るだろうかと考えを巡らせたが、何も思い浮かばず、私は素直な心情を吐露した。
「……正直、あまり深く考えてないんです。まず、電話で話してみて、感じが良かったらまた会ってみてもいいかな~くらいにしか……そもそも電話がくるかどうかもわかりませんし……」
小島正子は納得したように、まぁそうよね。と頷いた。
私は姿勢を正し、視線を宙に漂わせながら、意味もなく手元のカフェオレをストローでくるくるとかき混ぜる。
小島正子の話は、社会人になりたての私には刺激的に思えた。
自分と年齢が三つしか違わないのに、こんなにも考えていることに差があるのかと、自分がいかに女としてまだまだ半人前であったのかを、まざまざと思い知らされたようだった。
そして、彼女が熱く語った結婚に対する持論により、この頃から私も結婚というものを真面目に考え始め、丁度そこに小島正子が優良物件と称した河村という男がいたのだった。
ろくに期待していなかった合コンに参加し、そこで彼に会い、彼の顔つきや身なりなど、ろくに記憶に残らなかったというのに、今自分の目の前には、これ以上ないくらいのいい男が、選択肢として並んでいるのではないかと私は思ってしまったのである。
結果、河村からの携帯への着信を心待ちにしている私がいるのだった。そして、着信音が鳴り響き、ディスプレイに河村の文字が浮かんでいるのを目にするなり、私は舞い上がる心を抑えながらも迷わずそれに出たのである。