39
後半に不快な描写があります。ご注意下さい。
まだ昼間の明るい太陽光が柔らかに差し込むホテルのラウンジは、私にとって非日常的な空間だ。
一人で読書したりノートパソコンに向かっていたり、待ち合わせらしき様子の人々や商談中のビジネスマンも何組かいる。思っていたよりも人がいる印象だが、絶妙な席の配置のおかげで話し声は気にならない。ラウンジは穏やかな曲調のピアノの音が静かに流れていて、それが非日常さを更に増しているようだ。
「今日はありがとうございます」
向かいの席の男が先に口を開き、私は緊張しながら慌てて答えた。
「いえ、こちらこそありがとうございます」
結婚が大前提にあるお見合いは、合コンとはまた違うのは当然のこと。
お見合い相手は永沼という男だった。今年で三十五歳になるという彼は弁護士をしているらしく、見た目も悪くない。ダークなトーンでまとめているジャケットにスラックス姿は落ち着いた感じで好印象だ。趣味でゴルフをしているせいか、日焼けしていてがたいも良さそうだ。
このお見合いは、帰省した時に母が言っていた隣の家の奥さんの紹介ではない。何日間かかけて近場にいくつかある結婚相談所を色々と調べて、その中の一つに自分で登録したのだ。
正直なところ、自分が結婚相談所に登録するなんて微塵も思っていなかった。お見合いするようになったら負け、みたいに心のどこかで思っていたからだ。因みに、私が結婚相談所に登録したことは家族には内緒だ。
早速紹介してもらえた永沼という男に、私は満足だった。こんなに簡単に希望しているような男と出会うことが出来たことに、純粋な驚きもある。
いや、簡単と言うのは語弊があるだろうか。
簡単と言えば簡単なのだが、結婚相談所に支払ったお金は思わず躊躇したくなるくらいには自分にとって安いものではなかった。
それでも安くはないお金を支払ってまで結婚相談所の登録に踏みきったのは、実家で味わわされた惨めな思いからだ。
それに、どんな男でもいいわけではない。私が結婚する相手は、それなりの男でなくてはならない。理想が高すぎると言ったその口を思わず黙らせるような、見た瞬間ほんの少し悔しくなってしまうような、そんな男だ。
お見合いは三十分程で終わった。まだ初対面だからか踏み込んだ話はしなかったが、話した感じも悪くない印象だ。不快になる要素はない。
後日、また会いたいと向こうの方から結婚相談所を通して伝えられた。もちろんこちらとしても異存はなく、お見合い後の初デートはわりと普通に楽しめた。連絡先を交換し、帰り際に二回目のデートの約束も交わされた。
きっかけはお見合いだけど、もしかしたらこの男を好きになれるかもしれない。三十は過ぎたけど、やっと望みが叶うのかもしれない。
婚活の久し振りの好感触に、私は華やいだ気分になっていた。これならもっと早く結婚相談所を利用するんだったとさえ思った。
やっと惨めな思いとおさらばできると思っていたところに、冷や水を浴びせられたのは何回目のデートだっただろうか。
「結婚したら家事育児は完璧にこなしてもらいたい」
そう言った永沼の日焼けした顔を、私はじっと正面から見詰めた。
「弁護士にはどうしても必要な仕事上の付き合いがある。それも妻として完璧にこなしてもらいたい。自分の両親とも、出来れば完璧に上手くやっていって欲しい」
冗談を言っている雰囲気ではない。最後にもう一度見きわめようとするかのように、最後の判断を下そうとしているかのように、彼の目は怖いくらいに真剣そのものだった。
つまるところ、完璧に、を連呼されて怖じ気づいたのだと思う。
自分でもわかるくらい永沼との結婚に腰がひけていき、結局、結婚相談所を通してお断りをさせてもらったのだった。
その翌日、私は初めて仕事をずる休みした。
魂が抜けていったかのように何もやる気が起こらなかった。
「紗英ちゃん、どうしてここにいるの?」
私は思わず大きな声をあげた。全く予想外の人に急に声をかけられたからだ。
「うふふ。びっくりしたでしょ。少しの間だけど、また帰ってきてるのよ」
今は十一月だ。
「……そうなんだ」
そう言いながら、さりげなく紗英の足元から頭の先までさっと視線を滑らせる。途中、紗英が肩から提げているショルダーバッグで一瞬目が留まった。有名な高級ブランドのものだ。
彼女の手はベビーカーの取っ手を握っており、ベビーカーには赤ちゃんが収まっている。
「絵里はこんなとこでどうしたのよ。なんだかぼうっとしているみたいだけど」
「買い物して疲れたから、ちょっと休んでたの」
私は実家の近くのショッピングセンターに来ていた。買い物して長椅子に座っていたところを、紗英に声をかけられたのだ。
ベビーカーの中を覗くと、赤ちゃんはすやすやと眠っている。
「うふふ。もう少しで一歳になるの」
「もうそんなに経つんだ……」
「そうなのよぉ。あ、ねぇ、まだここにいる?」
「もうちょっとしたら行こうかしら」
「お願いがあるの。丁度寝てるから、ちょっとの間この子見ててくれないかしら」
「え」
「あっちの方の店で買いたいものがあるんだけど、通路が狭くてベビーカーが邪魔になっちゃうのよ。ね、お願い」
彼女はそう言って、片方の手だけを顔の前で祈るように広げた。
久し振りに会ったばかりの人に子供を預けるのかと疑問に思わなくもないが、細かいことを考えるのが面倒だった。
「少しの間なら」
「ありがとう、助かるわ! 五分で戻ってくる!」
彼女は目的の店がある方へ小走りに歩いて行った。
ベビーカーの中の赤ちゃんはそんなことなど知らずに気持ち良さそうに眠っている。寝顔しかわからないが、顔つきはどことなく紗英に似ていなくもない。
目が覚めないうちに紗英が戻ってくることを祈りつつ、彼女がついでに置いていったトートバッグに視線を移した。
おそらく赤ちゃん用品が入っているのだろう。大きく膨らんでいるトートバッグも、三十代の女性ならだいたいの人は知っているようなブランド品だ。
素敵な旦那様がいて、東京ではタワーマンションに住み、こうして時々里帰りもさせてもらえて、紗英は文句なしの勝ち組の人生を送っていると言えるだろう。
それに、結婚して子供を産んでも「所帯じみた」という揶揄など知らないかのように、紗英はまだまだ綺麗だ。しっかりとファンデーションをつけて口紅もきちんと引いている。長かった自慢の髪は肩上の長さになっていたが、艶々としていて美しい。体型もスラリとしていて、二十代の頃と大差ない。
荒い息が口から漏れていった。気がつくと、両手の拳を固く握りしめていた。
脳内では勝手に記憶が刺激され、今さっき見たばかりの彼女の綺麗な顔が徐々に歪んでいく。やがて、それはあの時の顔になった。男に多額のお金を貢ぐ女を「バカな女」と言った時の、侮蔑の顔だ。
そこから芋づる式に八木の顔が浮かび、河村の顔が浮かび、西原正子の顔が浮かんで消えていった。
唇をぎゅっと噛んだ。
何度も味わっているこの猛烈な苛立ちは、おそらくちょっとやそっとのことでは収まらないだろう。ここが家ならお酒を飲んでやり過ごすところだが、今自分がいるのはショッピングセンターの隅にある長椅子だ。
久し振りに一人で飲みにでも行こうか。だが居酒屋が開くにはまだまだ早い時間だ。
ベビーカーの中の赤ちゃんに目がいった。それは、見ようと思って目がいったわけではなく、何気なく視線を投げた方向に赤ちゃんがいたから見た、というだけだ。赤ちゃんは相変わらず気持ち良さそうな寝顔を見せている。
正直、少しも可愛いと思わなかった。
更に視線を少しずらした目と鼻の先には、上の階と下の階へ続く階段が見えている。
このショッピングセンターでの上下の階への移動手段は、エスカレーターとエレベーターがメインだ。その為、隅の方にある階段付近は人が少なく、こちらに注意を向ける人はいない。
ベビーカーと階段が脳内で交互に点滅した。
もしこのベビーカーを強く押して手を放したら、ベビーカーは階段の方までやはり届いてしまうだろうか。
いや、軽く押しただけで案外すぅっと行ってしまうかもしれない。止まらずに行ってしまったら、ベビーカーは階段から落ちてしまうかもしれない。
もしそうなったら、ベビーカーの中のどことなく紗英に似たこの赤ちゃんは、一体どうなってしまうのだろう。もちろん、ただではすまないはずだ。
だけど、どれだけ胸のすく思いがすることだろうか。紗英の泣く姿が、もしかしたら見られるかもしれないのだ。
紗英がかけていった車輪のストッパーに手を伸ばす。ストッパーは簡単にはずれた。赤ちゃんを起こさないように、ベビーカーを階段の方に向け、前後に軽く動かした。
何も知らない人が見れば、赤ちゃんをあやしているように見えるだけだろう。おそらくどこかに防犯カメラが設置されていて、この様子がうつっているはずだ。
要は、不慮の事故のように見せかければいいだけなのだ。
何度かゆらゆらと前後に動かした後、私はそのままひと思いに力を入れて、手を放した。
「お待たせ!」
ハッと顔を上げた。紗英が戻ってきたのだ。
「混んでてちょっと遅くなっちゃった。見ててくれてありがとね」
「あぁ、うん……」
「うふふ。よかったー、まだおとなしく眠ってくれてる」
「え……」
ベビーカーは元の位置のままそこにあった。赤ちゃんの姿にも変化はない。
一体何がどうなっているのか。
今の状況を把握しようと、私は必死に頭の中を回転させた。
「大丈夫?」
訝しげに紗英が尋ねてきた。
「え?」
「もしかして、半分寝てた?」
「あ、あははっ、ちょっと、寝不足で……」
つい話を合わせたが、寝不足なのは本当だ。それに、たしかにうとうとしていたような感覚があった。
「もしよかったら、この後一緒にコーヒーでもと思ったんだけど」
「あぁ……ごめん、寝不足でちょっと調子悪いみたい。せっかくだけど、もう帰るわ」
「そうね。残念だけど無理しない方がいいわ」
紗英とはそこですぐ別れた。
帰り道、自分が脳内でしでかしたことを反芻した。
自分があんな恐ろしいことを考えていたのが、我ながら信じられなかった。
あれが現実ではなく夢の中の出来事で良かった、と心底思った。




