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それから程なく、思わぬところで紗英が結婚した男がどういう人物であるのかを知ることになった。
美容院でのことだった。ちょっとした待ち時間で読んでいた週刊誌に、彼女の夫が載っていたのだ。注目の青年実業家という見出しのインタビュー記事だった。
周囲を気にもせず食い入るように彼女の夫が載っているページを見ながら、私は思ったものだ。
女には今一つ好かれなくても男には苦労しない女。
そんな紗英は、かつて私が望んでいたようないい男をつかまえて、私が出来なかったことを簡単に成し遂げたのだ。
彼女は持ち前の美貌のおかげで、私みたいな努力をしなくても、さほど苦労せずにすんだだろう。元々の与えられているものが違うと、人生においてここまで差が出るものなのか。
神様はなんて不公平なのだろう。
それから更に数日後、紗英からメールが届いた。いつもならお盆前には帰省を知らせるメールが届いていたのに、今年は届いていなかったのだ。
おそらく結婚を機に家庭を優先させることにしたのだろう。
そう私は勝手に都合よく思い込み、ようやく自分にとって風物詩となっていた憂鬱な行事がなくなったのだと、安堵の息を漏らしていた。憂鬱な行事とは、帰省した時に会おうという紗英の誘いを断わることだ。
だから私は、まさか今年もやはり帰省してくるのかと、届いたメールを恐々と開いたのだった。だがそれは、例年のような帰省を知らせる内容ではなかった。
彼女は今妊娠していて、十一月に子供が生まれるらしい。大事をとって今年は帰省しないことを伝えるものだった。
結婚したのだから、遅かれ早かれ子供が生まれるのは当然のことだろう。
「こんなことまで律儀にメールしてこなくてもいいのに」
面倒で憂鬱な行事が無くなったにも拘らず、何故か針でも刺されたかのように胃がきりきりと痛んだ。
十一月には無事生まれたことを知らせるメールが届き、翌年に届いた年賀状は紗英が子供を抱いている写真がプリントされていた。
更に季節は移り、お盆前に紗英からまたメールが届いた。帰省した時に会おうという誘いに加え、生まれた我が子を見にこないかという内容が追加された。
もちろん仕事を理由にして断わったのだが、同時に、私は呆れたような根負けしたような奇妙な気持ちになった。
彼女は私に毎年断わられるのに、気分を害したり気持ちがへし折られたりして、誘うのはもういいか、とはならないのだろうか。
この年のお盆も私は帰省した。
この春から姉一家が実家に移り住んでいる。その為、それまで無かった子供のものが家のいたるところで目に入った。居間の隅には、まだ新しいピンクのランドセルが転がっている。
小さな女の子がいる賑やかな雰囲気が新たに加わり、家の空気感は微妙に変わっていた。
「優衣ちゃん、ご飯はもういいの?」
「おなかいっぱい」
小さな口がそう返答し、優衣は誕生日に買ってもらったというゲームを手に、ソファーで一人楽しんでいる。
そんな孫の姿を見ながら、しょうがないわねぇ、と母は呆れた声を出す。が、言葉に反してその顔はすこぶる上機嫌といった感じだ。同居がよほど嬉しいのだろう。
「もう、お母さんが甘やかしてゲームなんか買い与えちゃうから……」
姉が口を尖らせる。
「あら、ゲームくらいどうってことないわよ。ちゃあんと時間を決めてやってるもの、ねぇ? 優衣ちゃん」
「そうよ、きめてやってるわよ」
小さな口が今度は生意気に動く。おそらく母か姉の口調を真似たのだろう。その瞬間、居間にどっと笑いが沸き起こった。姉も、もうこの子ったら、と言いながら可笑しそうに笑っている。
両親と姉夫婦とで囲んでいるテーブルには、去年と同じように寿司と美味しい手料理と缶ビールが並んでいる。料理は粗方手がつけられ、皿の底が見えていた。
「そういえば、紗英ちゃんて結婚した後も東京にいるんだって?」
母が突然紗英の名前を口にしたのを訝りながらも、そうだけど、と私は答えた。
「一昨日だったかしら。里帰りしてる紗英ちゃんを見かけたわよ」
「へー」
「声は掛けなかったの。ショッピングセンターの駐車場で、多分旦那さんだと思うけど、背の高い男の人とベビーカーを押して歩いてたのよ」
「あぁ、去年の十一月に生まれたって。たしか女の子だったと思うわ」
あらそうだったの、と母は感慨深げに頷いた。
「東京の方のナンバーの車が停まってたから、多分紗英ちゃんとこの車だったんじゃないかしら。きっと東京から車で来たのね。ちょっと見ただけだけど、ピシッとした男前で立派な感じの旦那さんだったわよ。東京の人って、皆ああなのかしらねぇ」
「さぁ。紗英ちゃんの旦那さんがそういう人なだけじゃないかしら」
彼女の夫が実業家として週刊誌のインタビュー記事に載っていたことを、私はつい言いそびれた。言った途端、自分の中に巣食っている醜い感情が抑えきれずに外に出てしまうような気がしたからだ。醜い感情を抑える自信が無かったのだ。
残っている料理を適当に摘まみながら、ごくごくとビールを飲む。私のそんな様子を母はじっと見ていたかと思うと、ため息混じりに口を開いた。
「隣の家の奥さんがね、あんたと歳の頃合いの合ういい人がいるんだけど、どうかって言ってるの」
またか、とつい出そうになったため息を呑み込んだ。
「断わっといて」
「断わっていいの?」
「いいの。別にそれで隣の家とこじれるわけじゃないんでしょ」
「そうだけど」
「焦って変な人と結婚したくないし。友達の紹介ならわかるけど、隣の家の奥さんの紹介なんてどんな人が来るかわからないじゃない。そういうよくわからない人の為に使ってる時間は、私には無いの」
「変な人かどうかは会ってみないとわからないじゃないの。あと二、三年したら、こういう話すらこなくなるわよ。そうなってから後悔したって遅いのよ?」
思わずビールの缶を乱暴に置いた。
「んもう、私のことはもういいから放っといてよ。自分の結婚相手くらい、自分でちゃんと見つけますから」
声が大きかったらしい。居間はしんとなり、優衣の呑気なゲーム音だけが微かに聞こえた。
最初に声を発したのは母だ。
「そんなにイライラしなくてもいいじゃない」
「別にイライラしてないわよ」
ここでずっと成り行きを見守っていた姉が横から口を出してきた。
「じゃあ、誰かいるの?」
横目で姉をチラリと見てから、仕方なく黙って首を横に振る。両親と姉夫婦の注目を浴びてることに、私は居たたまれなくなった。
「あぁもう、こういうのは私の気持ちだけじゃどうにもならないことなんだからさぁ……」
「そうだぞ」
見かねた父が加勢してくれるようだ。
「お前も夏美も、そうやってあんまり絵里を追いつめるようなことを言うんじゃない」
「あら、自分だって本当は心配しているくせに」
母が言い返すと、父はばつが悪そうに小さく唸った。
「それとこれとは別だ。病気一つせず、こうして毎年ちゃんと帰ってきてくれるんだ。それだけでも結構なことじゃないか」
「そんなこと言ってたら、女の三十代はあっという間ですよ」
母がそう言った途端、蚊帳の外だと思ってた所から思わず凍りつく一言が飛んできた。
「りそうがたかすぎなんじゃないかしら」
居間中が息を止めたかのように静まり返った。
声がしてきた方を見ると、ソファーでゲームをしていた優衣が、いつの間にかゲームをやめてこちらの方を向いていた。大人達の注意がいっせいに自分に向いたのが嬉しいのか、つぶらな目をくりくりと動かしている。
「や、やだ、この子ったら何を言ってるの」
いち早く我に返った姉は慌ててそう言い、逃げるように優衣の隣に移動していった。残された面々は笑うに笑えないといった様子だ。
「優衣ちゃんはね、私や夏美の会話をよく聞いてるみたいで、最近真似をするのよ。多分、意味わからないで言ってるだけだから」
母が少し焦ったようにフォローする。
「ふふふ」
とりあえず声に出して笑ってみたが、上手く笑えているだろうか。
「そうなんだ。でも、さすがにびっくりしちゃったわ」
子供のことだ。悪気がないのはわかっている。だが、私のいないところで日々展開されている会話がどんなものか、想像せずにはいられなかった。
理想が高すぎなんじゃないかしら。
こんなことを言いそうなのは母しかいない。母がどんな顔でどんな風にそれを言うのか、その様子まで、まるで目に浮かぶようだ。
再びソファーの方から楽しそうなゲーム音が聞こえてきた。
衝動的に、私は優衣の柔らかそうな頬肉をきゅっとつねりたくなった。




