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「絵里!」
ハッと我に返り、顔を上げた。両親と姉夫婦の視線が自分に集まっている。
「ごめん、何?」
「どうしたのよ、さっきから何回も呼んでるのにぼーっとしちゃって」
姉の夏美が怪訝な表情を浮かべて言った。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
よく見ると、姉の子供である優衣も姉と義兄に挟まれて座っており、きょとんとした顔でこちらを見ている。
お盆期間に入り、一日だけ帰省していた。この頃には私は一つ歳をとり、三十一になっていた。
「優衣が来年から小学校だから、そのタイミングでこの家に移ろうと思ってるっていう話をしてたの」
姉夫婦は今は近くのアパートに住んでいるが、いずれ両親と同居することが決まっていた。
「あ、そうなんだ」
「それでね、絵里が使ってた部屋を子供部屋にしたいと思ってるの。来年の話だからまだいいけど、絵里の物がまだ置いてあるでしょう? だから、もし良かったら私が片付けるけど」
「それはやだ」
即答した。
「あはは。そう言うと思った。なら暇な時でいいからお願いね」
はぁい。と返答し、目の前の丸い寿司桶の中のサーモンに箸を伸ばした。昔からある近所の寿司屋でとったのだろう。一口で食べるにはネタが大きく、それでも醤油をちょっとだけつけてから、なんとか口に詰め込み咀嚼する。脂ののったサーモンの味と酢の香りで口の中が一杯になった。
それを缶ビールで流し込んだ。ビールでも悪くはないが、久しぶりに日本酒が欲しい。そう思いながら、更にぐいぐいと缶ビールを傾けた。
「絵里」
父の声に顔を向けると、こちらを向いていた父の視線とぶつかった。
「何」
「仕事は順調か」
「順調っていうか、別に嫌なこともないし不満もないわ。いたって普通よ」
「そうか」
母の手料理の肉巻きに箸を伸ばそうとした。
「誰かお付き合いしている人はいないの」
すぐに反対側から飛んできた母の声に、思わず箸を持つ手を引っ込めた。母の顔はいかにも言いたいことがあると言いたげだ。
「なんでそんなこと聞くのよ」
「だってあんたもう三十一でしょう? そろそろ結婚のことを真面目に考えてもいいと思うの」
もうとっくの昔に嫌と言うほど考えて行動した結果、玉砕している。
「いつになったら彼氏を連れてくるのかと思ってたけど、全然そんな様子がないんだもの」
「それは悪かったわね」
小皿に肉巻きを一つ取り、口に運ぶ。
「それで、絵里がもし良かったらなんだけど」
口の中のものを咀嚼して飲み込んだ。
「何」
「あんたよりも二つくらい年上でいい人がいるんだけど、どうか――――」
「やめてよ」
母の言葉を遮るように言った。最後まで聞くのが嫌だった。
「じゃあ、誰かお付き合いしている人がいるっていうの?」
「それは、いないけど」
「それなら会うだけでもいいじゃない。会うだけ会ってみない?」
「そういうのは気がすすまないの。だから、いい」
いい。というのは、いらないという意味だ。
あらそう? でも、と母がぶつぶつと言っているのを無視して私はビールを飲んだ。
「まぁいいじゃないか。今は昔とは違うんだ。三十一だからといって、まだ行き遅れというわけじゃないさ」
父が言った。
「でも、子供産むなら早い方が……ねぇ?」
母が助けを求めるように姉に視線を送る。
「そりゃお母さんの気持ちもわかるけど、こういうことは本人の気持ちが一番だから」
姉がそう言うと、自分の賛同者が誰もいないのがわかったのか、母は諦めたように口を閉じた。
寿司と母の手料理で満腹になり、一休みした後、二階に上がった。上がってすぐの部屋に入り、閉ざされていたカーテンを開ける。
部屋の中が明るく照らし出され、数々の懐かしい物が昔と変わらない場所でその存在を浮き上がらせた。
私の両親はこの部屋を物置部屋にすることなく、そのままにしてくれていたのだ。
少し埃っぽいのが気になり、窓も全開にする。外の新鮮な空気が流れ込むのを感じて、私は新鮮な空気を胸に取り込むように大きく息を吸い込んだ。
ここ数年、帰ってきても日帰りだった。かつて自分が使っていたこの部屋に入るのは何年振りになるだろうか。
高校時代までのものはほとんどこの部屋に残してある。学生の頃に使っていた教科書や参考書、辞典もそのまま本棚に並べられている。本棚の下の方には、学生の頃におこづかいで買い集めた漫画があった。
本棚の前に座り込み、古い漫画の懐かしさに思わず一冊を手に取った。少しだけのつもりで読んでいると、誰かが階段を上ってくる足音が聞こえてきた。ノックをする音が二回鳴ってからドアが開いた。
「入っていい?」
声の主は姉だ。
漫画から目を離さずに、うん、と返事をする。
姉が部屋の中をぐるりと見て回る気配を感じつつ漫画を読みふけっていると、姉は私の横にきて座った。
「部屋を空けてもらうことになって悪いわね」
「全然。前々から決まってたことだし、いつかこういう日が来るのはわかってたから」
「大丈夫?」
姉の唐突な一言に、顔を上げて姉の方を向いた。
私の心の中を読み取ろうとするかのような強い眼差しだ。
「何が」
「何がって、色々?」
姉の言葉の意味するところを察する。
「大丈夫よ。この部屋のものは処分するなりアパートに持っていくなりして、ちゃんと空けるから」
「そういうことじゃなくて」
「わかってるって。自分の部屋がなくたって、今まで通りお盆と正月にはちゃんと帰ってくるし、何も変わらないわよ」
だからもうそれ以上は訊くなと言外に匂わせると、それが伝わったのか、強い眼差しは和らいだ。
読んでいた漫画を棚に戻すと、あ、と姉の声が横から聞こえた。
「卒業アルバムだ」
そう言い、姉は漫画が並んでる棚の端にあった卒業アルバムを取り出した。
「どれ、絵里のクラスは?」
姉が取り出したのは高校の卒業アルバムだ。私がクラスを言うと、姉はアルバムを開いて探し始めた。
「見たって別に面白くないわよ」
「いいじゃない。あ、あった」
姉の声につられて覗くと、クラス一人一人の顔写真が並んでいる。
姉は、えーと、と言いながら視線を動かす。
「いたいた。ふふふ。懐かしいね」
姉の視線の先では、垢抜けない女子高生がぎこちなく白い歯を出して笑っている。もちろん私の顔写真だ。
「私その写真あまり好きじゃないのよね」
「なんで?」
「素っぴんだし、上手く笑えてないから」
「そう? まぁ卒業写真は皆そんなものよ。あ、ねぇこれって紗英ちゃんでしょ?」
私の顔写真のすぐ横を指さして、姉が言った。
うん、と私が答えると、姉は小首を傾げてじっくりと紗英の顔写真を見詰める。その顔写真は私とは違い、雑誌に載っているモデルのような自然な笑顔だ。
こうして改めて見てみると、この顔写真といい届いたハガキにプリントされていた写真といい、紗英は自分の顔の筋肉をどう動かせば自分がより魅力的に見えるのかを、よく知り尽くしているように思える。
「本当、フランス人形みたいよね、この子。紗英ちゃんって今どうしてるの?」
「まだ東京にいるわよ。春に結婚したってハガキが届いたわ」
姉は、ふぅん、と感慨深げに呟いた。
「お姉ちゃんて、紗英ちゃんのこと覚えてたんだね」
「絵里がまだ高校生で私が大学に通ってた時に二、三回くらい会ったと思うわ。たしか、私がたまたま家にいる時に遊びにきたのよ」
「そうだったかしら」
「絵里の友達だからあんまり悪く言いたくないけど、どこかいけ好かない子だなって思ったもの」
珍しく不快そうに口を歪める姉の顔をまじまじと見詰めた。姉が紗英に良い感情を抱いていなかったのが、私には意外だったのだ。
「お姉ちゃんも?」
姉は目を丸くした。
「どういうこと」
「まさか、お姉ちゃんも紗英ちゃんに……嫉妬したりしてたの?」
高校時代に彼女を嫌っていた女子達のように。
「……嫉妬?」
姉は丸くしている目をぱちぱちと瞬かせた後、あっはっは、とお腹をかかえて笑い出した。
「いやいや、たしかに紗英ちゃんはフランス人形みたいに可愛い顔してるけど、さすがに五歳も年下の子にそんなことで嫉妬なんか沸いてこないわよ」
「じゃあ、いけ好かないって、なんで」
姉はアルバムのページを手でもて遊びながら、少し考えて口を開いた。
「高慢な感じが鼻についたの。絵里は仲良くしてたからその時は黙ってたけど」
結婚披露宴で会った館山知子を思い出した。たしか、彼女も同じようなことを言っていた。
「絵里は今まで彼女のそういうところを感じたことはないの?」
有るとも無いとも言えず、今までのことが頭の中を怒涛のように駆け巡った。
「……あぁ、そう言われてみれば紗英ちゃんてね、私と何人かの友達以外の女子とはあまり上手くいってなかったわ。紗英ちゃんはキレイだったから、高校の時は嫉妬とか嫌がらせとか色々あったのよ」
姉は合点がいったように、だから嫉妬かー、と言った。
「女は嫉妬する生き物だからねー。まぁわからないでもないけど」
姉はぱたんと卒業アルバムを閉じた。
「いくら可愛い顔してても、あの高慢な感じは私は苦手だったなー。にこにこしてても、ふとした瞬間の顔つきがすごく引っ掛かるのよ。わざとなのか無意識なのかわからないけど、女にしかわからない、女を不快にさせる何かを持ってる子よね」
二、三回しか会ったことがないのに、姉の観察眼には驚かされる。
だが姉の紗英という人間分析に、つい私は興味深く聞き入った。今までどれだけ頭を捻っても答えが出せない難問が、初めて明快に解けたような爽快感が胸に広がっていた。
「これだけ可愛い顔してれば、多分自分でもわかってると思うわよ。そのせいで嫌な思いもしてるとなれば、まわりと上手く関係を築いていこうと何かと気を遣ったりするじゃない、普通は。でも彼女はそういう気持ちは、きっとあんまりないんだろうね」
「私には気を遣ってくれてたのかしら」
「さぁ、それはわからないけど。とにかく私は苦手だわ」
そう言って、姉はもうこの話は終わりと言わんばかりに、卒業アルバムを棚にしまった。




