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目の前が真っ赤に染まった。
――――どうして。どうして、どうして、どうして、どうして?
そればかりが頭の中を飛び交っている。
だが、西原正子のどの言葉に対しての「どうして」なのか、自分でもよくわからない。只、怒りがマグマのように煮えくり返り、とどまることなく胸を押し上げてくる。
酷い裏切りにあったような気分だ。
梅酒の酎ハイを思い切り呷り、自宅アパートのテーブルに缶の底を叩きつけた。
――――お酒のいきおいで。
――――出来ちゃったの。
――――俺と一緒にならないかって言ってくれて。
どうして? にとって代わり、今度はこれらの言葉が幾重にもなって頭の中を行ったり来たりしていく。西原正子が幸せそうな笑顔で吐いたこれらの言葉が、とてつもなく私を苛立たせた。
そして、私が何よりも我慢ならないのは、その後の彼女の言葉だ。
握っていた酎ハイを一気に飲み干し、二本目になる酎ハイに手を伸ばした。プルタブを開ける。プシュッと音が鳴り、中身が少量飛び散った。それがほんの少し指に付いた。
指に付いた水滴を不快に思いながらも、拭いもせずに酎ハイを一口二口と喉に流し、ふぅっと息を吐く。何も食べずに飲んだので、さすがに酔いがまわる感覚に頭がくらりとした。
――――哀れな女。
そう耳元で囁かれたような気がして、くらくらする感覚に堪えながら振り向くが誰もいない。いつもと変わりない自宅アパートの部屋には自分一人だけだ。
再び前を向くと、私は身体を丸くしてだらりとテーブルの上に上半身を乗せた。数センチ先にあるテーブルの表面の木目を見詰めながら、西原正子の言葉の続きを反芻する。
――――だけど、将来性とかエリート商社マンとかよりももっと大事なことがあるんだ、っていうことが、旦那と結婚してやっとわかったの。
ごくんと唾を飲み込んだ。
今更そんなこと聞きたくなかった。どうして今更そんなこと言うのだろう。まるで、自分が哀れな三十女だと言われているみたいではないか。まるで、身のほどを知れと言われているみたいではないか。それがどれほど私の心をえぐることになるのか、彼女はわかっているのだろうか。
涙でじわりと目が熱くなった。堪えきれずに抑えていた感情が溢れ出す。
今まで自分が頑張ってきたことはなんだったのだろう。やり直しはきかない。時間は戻らない。もう何もかもが面倒で憂鬱だ。
そう思うと、もう止まらなかった。
私を自分の結婚論に引き入れ、そのくせその結婚論をあっさりと手放して、出来婚で棚ぼたみたいに幸せを手に入れた西原正子が憎くて腹立たしい。
私を好きだと向こうの方から言い寄ってきたのに、結局最後には私を捨てて、違う人と幸せを手に入れた河村と八木も腹立たしい。
彼らだけではない。その後に出会い、私に見向きもしなかった男達も腹立たしいし、私を馬鹿にした紗英も皆、皆腹立たしい。
だけど、その何十倍も何百倍も自分が腹立たしい。
男の将来性よりも大事なことがある。そんなことくらい、本当はずっと前からわかっていた。それなのに、どうして。悔しくて悔しくて、のたうちまわりたいくらいに自分が腹立たしくてしょうがない。
涙で木目がぼやける。その夜、私は久方ぶりに声をあげて泣いた。
自分の気持ちなんか関係無しに、規則正しく毎日は過ぎていく。仕事もそうだ。
「最近顔色があまり良くないみたいだけど、大丈夫?」
横で化粧直しをしていた同僚が、目の前の鏡越しに尋ねてきた。彼女は結婚していて、私と同年代だ。
「顔色、良くないかしら」
そう言いながら片手を頬に添えて、鏡を覗き込んだ。目の下にうっすらとクマが出来ている。よく見ると頬や口の周りが所々カサカサしており、ファンデーションが上手く乗っていない。頬の肉も少し取れたのか、以前には無かった影がついている。
たしかに最近あまり食欲が無く、化粧も肌の手入れもついおざなりになっていたのだ。
「最近ずっと疲れてる感じだから、なんか気になっちゃって。ストレスたまってるとか?」
「そういえば、最近寝つきが悪くて。多分そのせいかも」
「ストレスと寝不足は女の肌の大敵よー」
彼女は最後に口紅をつけてから、お先に、と言って出て行った。
誰もいなくなったお手洗いで、再び鏡を見る。
よく考えてみると、化粧する時以外にこんなふうに自分の顔を見るのは、ここ最近すっかり無くなっていた。その化粧する時間でさえ、以前は二十分ほどかけていたのに五分で済ますような手抜き具合だ。
「酷い顔……」
同僚が心配するのも当然だった。それほどに鏡の中の自分は、思わずぞっとするようなうつろな目でこちらを見詰めている。
ここ数週間、仕事で小さなミスが続いている。今日もミスをした。大事には至らない程度とはいえ、上司の目は厳しく私を責めた。
「どうした。最近少したるんでるんじゃないのか」
厳しい叱責に、私はひたすら下を向いて謝罪を口にするしかなかった。
職場にいるのは優しく声をかけてくれる同僚ばかりではない。私の様子を遠巻きに見ている同僚がいるのも、なんとなく肌で感じている。
このままではいけない、とは思う。いま一つ意欲が湧かないからと言って、仕事を手放すことは出来ない。そんなことはわかっている。
だが、身体が動かないのだ。頭もよくまわらない。人の声がまるで水の中で聞いているみたいに遠い。
仕事から帰り、夕飯をそこそこにして酎ハイを飲んだ。
今の自分にはこれが必要なことだった。飲まないと、やってられないからだ。
今だから思える貴重な二十代の大半を恋愛に捧げてきた自分は、身を削るほど仕事に打ち込んできたわけではないし、これといった趣味もない。恋愛に捧げてきたのに、結局今も一人だ。
自分の何がそんなにダメだったのだろう。全く自信が湧いてこない。
これから先、自分は恋愛出来るのだろうか。恋愛して、こんな自分と結婚してくれる男は現れるのだろうか。もしかしたらずっと結婚できないまま、一人で寂しく歳をとっていくことになるのではないだろうか。
考えたくない。何も考えたくない。酔って頭を空っぽにさせたい。
そう思って飲んで飲んで酔ってある程度までいくと、おそらく本当に空っぽになっているのだと思う。理由もなく笑ったりして、くらくら、ふわふわと開放的になれる時間が訪れる。
このまま眠ってしまえばいいのだが、そんな特効薬のような役割は今は果たさないようだ。
それまで何処かに隠れていた冷静な部分が、むくむくと顔を出してくる。そして、また同じことをぐるぐると何度も頭の中を巡らせて、結局最後に行きつく先は「これ以上考えてもしょうがない」に辿り着く。
お酒を飲むたび、流れにまかせてその終着点に辿り着くのを、私はいつも待っている。
どこを歩いているのか定まらないような空虚な日々を過ごし、幾らか心は持ち直すものの、気分は晴れない。
仕事が休みの日はほとんど外に出ず、部屋着のまま自堕落に過ごした。
携帯電話をいじったり、テレビを見ている時間がほとんどだ。ただし、テレビは見たくて見ているというよりは、画面を眺めているだけという方がしっくりくるだろうか。
時には顔も洗わず歯も磨かず、昼過ぎまで布団の中にいることもある。そんなふうに、ぼうっとした自堕落な時間は過ぎていった。
ファッション雑誌は三十代に入る手前で読まなくなった。読んでいた雑誌が年齢に見合わなくなったのもあるが、そこまでして流行を追いかけようとは思わなくなったのが大きな理由だ。
一時期好んで読んでいた週刊誌は、それよりももっと前に自然と読まなくなっていた。
不意に、救世主が現れてくれたら、と思った。こんな時こそ白馬の王子様でもなんでもいいから、現れて自分を拾いあげてくれたらいいのに。
ずっと前からあなたのことが好きでした。ずっと前からあなたのことを見てました。今こんなことを言われたら、それだけで世界はひっくり返るのに。
こんなことを口に出せば、いい歳して何を夢みたいなことを言ってるんだ、と指をさして笑われるだろう。だが、本当にそんなことが起こってくれたなら、全てをひっくり返すことが出来るのだ。




