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小島正子と会うのは、彼女が○✕支店を辞めてから初めてのことだ。私達はすぐ近くにあったコーヒーショップに入り、壁際の席に腰を落ち着けた。
「会ってびっくりしたでしょう? 産後太りで中々体型が戻らなくて」
たしかに全体的に肉付きがよくなったが、見苦しい程ではない。
彼女は四年前に結婚していた。ずいぶん前に電話で話した時、相手は年下の幼馴染みで、大型スーパーの店員と聞いて驚いたのを覚えている。
今は彼女は西原に姓が変わり、二児の母親だ。
「相田さんはあまり変わらないわね。ちょっと痩せた?」
「そんなことないですよ。今日はお子さんは?」
「母に預けてきてるから大丈夫よ」
「お母さん、お元気になられたんですね」
彼女が○✕支店を辞めたのは、彼女の母親が身体を悪くしたことが理由だった。
西原正子はコーヒーを一口飲んで、こくんと頷いた。
「おかげさまでなんとかね。母が入院した時はどうしようって思ったけど」
「あの時は、あんまりゆっくりとメールも電話も出来なかったですもんね」
ふふふ。と彼女は穏やかに笑い声をあげた。
「母が入院することになって、一ヶ月くらいの間は、ほぼ毎日家と病院を往復する生活だったから」
「看病はずっと一人でしてたんですか」
「まあね。親戚は皆遠い所に住んでるからね」
まだ結婚する前の旦那が車で送り迎えをしてくれていた、と以前の電話で彼女が言っていたことを思い出した。
「旦那さんがいてくれてよかったですね」
「そうなの。今となっては感謝、感謝よ、ホント」
「たしか旦那さんて幼馴染みなんですよね?」
「まぁ、腐れ縁というか」
そう言って彼女は困ったような顔をして笑った。
「でもなんだろう。母が倒れてやっぱり私も色々と不安で。旦那とはお互いに家が近かったから、旦那の仕事が早く終われば帰りに病院に車で迎えにきてもらって、家まで送ってくれたり、夕飯を一緒に食べて帰ったり。それだけでもだいぶ気が紛れたの」
腐れ縁とは言ったものの、当時を思い出しながら話す彼女はどことなく嬉しそうだ。
「幼馴染みと再会して結婚ってドラマみたいですよね」
私がそう言うと、彼女は先程よりも一際大きく、あははっ。と楽しそうに笑い声をあげた。
「そうかしら。ドラマみたいなことなんて何にも起きなかったわよ」
「そうなんですか」
「そうよー。でもそうね。旦那と結婚することになるとは、その時は全く考えてなかったかしら」
彼女はそう言ってコーヒーカップに口をつけた。
「人の気持ちって変わりますからね」
私の言葉に彼女は、うん、とはにかんだような表情で頷いた。
「相田さんと一緒に合コンに出てた頃なら絶対なかったと思う。その時の自分が今の自分を見たらびっくりすると思うわ。だって、エリート商社マンと付き合ってた自分が結婚したのは、普通のどこにでもあるスーパーの店員なんだから」
彼女は視線を遠くに向けて自虐的に言うが、彼女の顔に後悔や不満といった感情は見当たらない。
「まぁ、そのエリート商社マンは既婚者だったけどねー」
「そう言えばそんなことありましたね。カマをかけたら実は既婚者だったっていう話」
よく覚えてるわね。と彼女はちんまりとした目を丸くした。
「付き合ってる相手の携帯電話は見ない方がいいってよく言うけど、あの時は見て正解。いや、見たというか、ロックがかかってたわけだけど」
「それが切っ掛けで、既婚者だったことがわかったんですから。気付かないで付き合ってたら、もっと大変なことになってたかもしれないですよ」
「うん。知らなかったとは言っても、やってたことは不倫だからね。もし知らないうちに相手の奥さんにバレて、裁判沙汰にでもなってたら、今こうしていられなかったかもしれない」
不倫がバレて多大な慰謝料を払わされた、なんていうのはよく聞く話だ。
「お子さんは何歳になったんですか?」
「上の子が三歳になったばかりで、下がもう少しで二歳になるの。二人とも男の子だから、もう家の中はいつもしっちゃかめっちゃかよ」
そう言って、ふふふ。と彼女はまた笑った。よく見ると、彼女の目尻に笑い皺がうっすらと走っている。
「だから、あまり長い時間預けると母がぐったりしちゃうから、悪いけどあまりゆっくり出来ないの」
「それは気にしないで下さい、大丈夫ですから」
そう? と彼女はにっこりと笑った。
「私の話ばかりしてるけど、相田さんはどうなの」
急に視線を向けられ、私は前のめり気味だった身体を真っ直ぐにした。それまで流れていた空気が一瞬にして変えられたみたいだ。
「何にも。西原さんが期待するような話はなーんにも無いですよ?」
「そんな悲しいこと言わないでよー」
「本当ですから。もう合コンって歳でもないですし、ここんとこずぅっと益々出会いも減っちゃって。私って縁が無いんですかね」
「そんなことないでしょ」
そうですかねーと返答して、私は目の前のコーヒーカップに目を落とした。
「……でも、私ぐらいの年代の独身の人って、どうやって恋愛してるんだろうとか、たまに思うんですよね」
「あぁ、それ、ちょっとわかる」
「私と同じくらいの歳の男の人だって、多分もう結婚している人の方が多いわけじゃないですか。自分の選択肢が確実に狭まっているのは、ちゃんとわかってるんです。わかっているけど、出会いがあっても、前ほどすぐ恋愛に飛び込めなくなっちゃったというか。違うと思ったら次に行けばいいっていうのもわかるけど、それもどうなんだろうって思ったり」
視線を上げると、難しい顔をして聞いている彼女と目が合った。
彼女を見て、それに、と私は再び口を開いた。
「私、この歳になってわかったことがあるんです」
彼女は目をぱちくりとさせ、上目遣いになる。
「何を?」
「自分がたいした頑張らなくても、男の人から声を掛けてもらえるのは若い子とキレイな人ばかりで、私みたいな普通の三十女はもっとガツガツしないと見向きもされないんです」
キレイな人、のところで紗英の顔が眼裏に浮かんだ。が、すぐにそれを抹殺する。
「そんな、別にガツガツはしなくてもいいと思うけど」
「いえいえ。それが現実なんです。だから、西原さんが昔言ってた良い男と結婚したいなら三十までっていうのは、本当にそうだなって思います」
いや、でも、と言ったきり適切な返答が見つからないのか、彼女は困ったように、うーん、と唸っている。
実はこれまでに何度か、婚活パーティーや結婚相談所が頭を過ったことがある。だがその都度、その考えは頭の中で打ち消された。理由は簡単だ。
出来れば私はやはり恋愛をして結婚したかったからだ。そう。出来れば、八木のような――――。
「西原さんみたいに仲の良い幼馴染みも男友達もいないですし。もちろんそんな人がいたとしても、付き合うような関係になるとは限らないんですけどね」
一息ついて、コーヒーを一口飲んだ。そして、今も困った顔のままコーヒーを啜っている彼女をチラリと見る。彼女がコーヒーカップを置くのを待ってから、私は口を開いた。
「西原さんは、幼馴染みだった旦那さんとどうしてお付き合いして、結婚しようと思ったんですか?」
「え?」
顔を上げて、彼女は目をぱちぱちとしばたたかせた。
「だって、さっき旦那さんと結婚することになるとは全く考えてなかったって言ってたじゃないですか」
彼女は口には出さないが、スーパー勤めの年下男との結婚は、少なくともかつて彼女が熱く語った結婚論からは逸脱しているはずだ。彼女はエリート商社マンのようないい男との結婚を、おそらくずっと夢見ていたのだから。
そんな結婚を夢見てあんなに婚活に励んでいたのに、彼女が落ち着いたのは何故近場にいた幼馴染みなのか。
「あ、あーそうね。そっか」
束の間の時間を経て、西原正子は言いづらそうに口を開いた。
「…………言ってなかったけど、実は出来婚なの」
薄々、ひょっとしたらという予感があった。それでも、彼女にはおよそ似つかわしくない出来婚という言葉に、私は固まってしまった。
そんな私が可笑しかったのか、彼女はクスッと小さく笑う。
「お酒のいきおいでそうなっちゃった結果、出来ちゃったの。別に付き合ってたわけじゃないし、ああ、やっちゃったなーってその時は思ったけど。でもね、妊娠したことを言ったらすぐに、俺と一緒にならないかって言ってくれて。その時は私もう二十九だったから、ここいらが潮時かなって思って決めたの」
今度は私の方が言うべき言葉が見つからない。それどころか、胸に嫌なものが渦巻き始める。
そんな私をよそに、彼女は更に続けた。
「お互い子供の頃から知ってたけど、不安が無かったわけじゃないのよ? こんなんで大丈夫かな、上手くいくのかなって。だけど、将来性とかエリート商社マンとかよりももっと大事なことがあるんだ、っていうことが、旦那と結婚してやっとわかったの。今は結婚して良かったって思ってる」




