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あれから五年経った。
八木との関係が終わった後、そこそこの出会いはあった。が、ほとんどは結婚に結びつくものではなかった。
紗英とは距離を置いている。あの時の彼女の顔がどうしても頭から消えず、彼女に対して良い感情を持てなくなったからだ。
毎年紗英が帰省してくる時期になると、ああ、またか。と憂鬱になる。
彼女は帰省する度、必ず私にも連絡をして会おうと誘ってくるのだが、あれからずっと仕事を理由に断っている。彼女の誘いを断るという行為は、私にとってエネルギーを要することなのだ。
つい先程五年振りに偶然にも紗英と再会し、会ったついでに彼女は結婚報告までして笑顔で街に消えていった。
せっかくエネルギーを振り絞って会わないようにしていたのに、この広い街中でどうして彼女に出くわしてしまったのだろう。
自分の運の悪さを呪いながら、私は職場へと足を動かした。
この五年の間に私は○✕支店を離れ、本店に移っていた。しかも菓子企画製造を担当する部署だ。かつて優良物件と称した、あの河村がいる職場だった。
彼の姿形は既に記憶の彼方だったが、本人を目にするとすぐにもろもろの記憶を甦らせることが出来た。
本店に移った初日のことだった。新しい同僚として私が紹介された時、他の社員の中に混ざっていた河村の顔が一瞬目を剥いたのを、私は見逃さなかった。
だがその一瞬だけで、その後河村は同僚としての一般的な態度で私と接してくれた。まるで二人が付き合っていた過去など最初から無かったかのように。
そこに彼の狡猾さが現れているような気がして、心の中で彼を嫌悪しながらも、私もわざわざ自分から過去に触れるようなことはしなかった。
仲良くなった他の同僚の話では、河村は私が本店に移る一月程前に結婚したらしかった。相手は京都の茶道教室の先生だとか。
私と河村が別れる原因の一つになった「ゆき乃」とは違う女のようだった。しばらくして河村は京都で家業を継ぐ為に退職していった。
「お願いしまーす」
紗英との再会で気分を害し、むしゃくしゃして一人歩いていると、突然目の前にチラシが差し出された。
思わず受け取り、ハァと大きくため息を吐く。いつものようにどこかのゴミ箱に捨てようと、私はチラシを折りたたもうとして手を止めた。
「八木」の文字が目に入った。
前にもこんなことがあったが、まさか。と思いながらチラシの文字を最初から目で追う。目で追うにつれて、冷たいものが背中を這い上がってくるような感覚に、つい足が止まっていた。よろけて歩道の端でしゃがみこみそうになるのをぐっと堪える。
新進気鋭の若手油絵画家、八木――――
「――――隆文」
乾いた声が口から出ていく。
私は今年で三十になっていた。
無機質な壁を背に、お祝いの花のアレンジメントが華々しく並んでいる。個展会場の出入口横には、八木隆文○○絵画コンクール入選記念個展と書かれた立て札が置かれていた。
人の入りは少なくない。私は人に紛れながら出入口の方へ進み、中を覗く。少しでもそれらしき人影があれば、すぐに帰るつもりだ。
素早く会場に視線を行き渡らせ、該当する人物がいないことを確認すると、私はようやく会場に足を踏み入れた。
結構広い会場を借りているのだろう。まずそのことに私は息を呑んだ。広い会場に適切な距離をあけて、何枚もの絵が飾られていた。まだ個展が開かれてから何日も経っていないというのに、売約済みを示す札がぽつんぽつんと貼られている。
飾られている絵を一つ一つ見ていく。記憶の中の八木からは想像できないような世界観を持った絵に、すぐに目がクギ付けになった。
思えば、八木の絵を見るのはこれが初めてだ。彼はこういう絵を描く人なのか。と自分が知らなかった彼の一面を初めて知ったような感覚に、私は何故かショックを受けていた。
「この絵が気に入りマシタカ?」
つい考えこんでいると、突然声をかけられ振り向いた。たどたどしい日本語だった。
いつの間にか私は一枚の絵の前で立ち止まっていたのだ。そんな私に笑みを浮かべて声をかけてきたのは、茶色がかった黒髪を後ろでまとめている大柄な外国人女性だった。おそらくここのスタッフなのだろう。
「はい。どれも素敵で……」
その後の言葉が続かない。元々アートに造詣が深いわけではないのだ。私は誤魔化すように、目の前にある薔薇の花の絵に視線を移した。
心の中で舌打ちした。あまり長居するつもりはないし、目立ちたくもない。
私のことはいいから早くどこかへ行ってくれればいいのに。そう祈るが、彼女はまだその場から動かない。仕方なく再び彼女の方を向いた。
ふと彼女が首からさげているカメラに目が留まった。何かを思い出しそうになったが、私は咄嗟にそれを振り払った。
「素敵な薔薇の絵ですけど、他の絵も見てみます」
彼女は笑みを深めて一つ頷いた。
「ドウゾごゆっくり御覧クダサイ」
軽く会釈をし、彼女に見守られながらその場を離れる。どくどくと心臓が音をたてている。さっさと見てここを出ようと、私は歩を早めた。
全てを見終わると、会場を出てすぐのロビーに人だかりがいるのが目に入った。その中にもしや、と思いながら足早に通り過ぎて、さっと振り返る。思った人物はいなかった。
このままこの建物を出れば、彼と会わずに帰ることが出来る。ホッとするのと僅かな寂しさがない交ぜになる。だがすぐにそれらは満足感で埋め尽くされた。私はくるりと身をひるがえして玄関へ向かった。
これでいい。こっそりとここに来たことは自分だけの思い出。それで十分だ。
私は晴れ晴れとした気分で自動ドアの前へ進んだ。自動ドアが機械音と共に開く。そこに現れたのは、こちらを凝視し信じられないといった顔をして佇む八木の姿だった。
お互いの視線がぶつかり合う。私はすぐに身体をずらして彼の横を通り抜けた。
「待って!」
八木の制止する声に足を止める。後ろの自動ドアが閉じる音が聞こえた。ロビーの人々のざわめきや雑音が消え、静かになった。
「来てくれたんだ」
後ろから懐かしい声が響いた。
目の前のもう一枚の自動ドアをくぐれば外に出られる。二枚の自動ドアに挟まれた空間には二人しかいない。
八木を振り切って出ていくことは、やろうと思えばすぐ出来るだろう。だが私はそうしなかった。
下を向いたまま、身体を心持ち八木の方に向けた。
「……お久し振りです。入選おめでとうございます」
お祝いの言葉と共に頭を下げる。
彼のフッと息を漏らす音が聞こえた。
「少し時間あるかな。もし良かったら少し話したいんだけど」
思わず八木の顔を見上げる。同時に彼の全身が目に映った。以前のような着古しの格好ではない。パリッとした濃紺のスーツを着て、きっちりとネクタイをしめていた。それが長い手足の彼によく似合っている。
「ここの地下に喫茶店があるから、そこで待ってて欲しいんだ。挨拶を済ませたらすぐ行くから」
どう返事をしようか迷った。だが私の返事を待たずして、彼はロビーに消えて行った。
「良かった。ちゃんとここで待っててくれたんだ」
そう言って八木は正面に座り、店員にコーヒーを注文した。
結局私は帰らなかったのだ。あのまま帰るなんて出来なかった。
「絵里は変わらないね」
「そうかしら」
「自動ドアのガラス越しだったけど、すぐわかったよ」
彼の気安い雰囲気は今も変わらないが、スーツ姿の彼は昔とはもう違う。
コーヒーが運ばれてきて店員が立ち去るのを待ってから、私の方から話を切り出した。
「あの、話したいことって?」
私の質問に彼は背筋を伸ばして深呼吸をすると、只一言「悪かった」と頭を下げた。
頭を下げ続ける八木をまじまじと見詰める。
「どうして謝るの?」
「絵里を傷つけた」
「……別に傷ついてないわ」
「お金を借りておきながら、逃げた」
「結局連絡をくれなかったのはそのせい?」
彼は何も言わず黙り込む。
「あの時、何で連絡してくれなかったの?」
「それは……」
どう言おうか考えるように、彼は視線を彷徨わせた。
「言いたくなければ言わなくてもいいわ。もう過ぎたことだし」
「いや、ちゃんと言うよ。――――あの時俺、プレッシャーで絵が描けなくなってたんだ」
全く自分が考えていなかった彼の告白に、目が見開かされる思いがした。
「それで、焦ってた。お金はいつもギリギリで不安だった。でも絵里にお金を返さないといけないし。正直、絵里に会うのがきつかった。電話でもつい絵里に冷たくしたり当たったりして。その挙げ句実家に逃げて――――」
――――悪かった。と八木はもう一度頭を下げた。
「……いいわよもう。別にもう怒ってないわよ。だから、顔を上げて」
彼はゆっくりと顔を上げると、端正な顔を綻ばせた。
「今日は来てくれてありがとう。個展は何で知ったの?」
「街で配られてたチラシで」
ふぅん。と彼は小さく頷いた。
「私ね、今更何しに来たの? って、もしかしたら嫌な顔をされるんじゃないかって思ってた」
「そんなこと言わないし、思ってないよ」
「だからいないのを確かめて、さっと見てさっと帰ろうって思ってたの。それがあんなとこで会っちゃうなんて」
「あはは。そうだったんだ」
「でも、こうして話せて良かった」
うん。と彼は頷いた。そして突然コーヒーをぐいっと飲み、カップを置く。中身は一気に減っていた。
「本当はもっとゆっくり話したかったんだけど、そろそろ戻らないといけないんだ」
「あ、うん。私は大丈夫よ」
八木は胸の内ポケットから何かを取り出した。それは一枚の封筒だった。
「これ、返してなかった残りのお金が入ってるから」
彼はそう言いながら私の前に封筒を置いて席を立った。
「え、ちょっと」
「今日は本当にありがとう。じゃ、また。慌ただしくてごめんね」
私が呆気にとられている間に、八木は伝票まで持って行ってしまった。
彼が飲んでいたコーヒーカップを見ると、下の方にまだ少量残っている。
私は八木が置いて行った封筒を手に取り、中を覗いた。ちゃんと二万三千円が入っていた。お金が入った封筒をバッグにしまい、コーヒーをゆっくりと味わって飲んだ。
八木を目の前にして甦っていた記憶があった。
彼の家に毎月届いていたフランスからのエアメールの送り主は、私に声をかけてきたあの外国人女性ではないだろうか。エアメールに同封されていた数々の写真も、きっと彼女が撮ったものに違いない。
そうなると、女友達はいないと言っていたのに、彼は嘘をついていたことになる。そう思うと、私の口から微かに笑いが漏れた。
とにかく、これで八木と会う理由は完全に無くなった。おそらく私はこの先、彼と会うことは二度とないだろう。
何故なら彼の左薬指には、既に銀色に光り輝く指輪がはまっていたからだ。




