32
紗英が東京から帰省してきた。
いつものカフェで一緒に食事をし、目の前で食後のコーヒーをゆっくりと味わっている紗英を、私はぼうっと眺めた。
アクセサリーを上手に使ってシンプルな洋服を着こなしている彼女は、ファッション雑誌に載っているモデルと変わらない。着ている洋服はシンプルなのに、醸し出している雰囲気は上品な華やかさがある。私にはとても真似出来ない芸当だ。
紗英はコーヒーカップをカチャッと音をたててソーサーの上に置いた。
「絵里はどうするつもりなの?」
話しているのは八木とのことだ。
「……よくわかんない」
「もう九月よ? まだ待つつもりなの?」
紗英は連休を利用して帰省してきている。つまり、今は九月の半ばだ。八木と連絡を取らなくなってから一月以上になる。
私は頭を掻きむしりたい衝動にかられた。
「あーもう、なんでこうなっちゃったかなぁ」
溜め息と同時に私がぽつりと言うと、紗英は大きな目をきょろりと動かした。
「連絡してみないの?」
「したいけど、落ち着いたらこっちの方から連絡するっていうことは、私の方から連絡はするなっていうことじゃない?」
「それはわかるけど」
紗英は今一つ納得出来ないと言いたげな表情だ。
「そんなの無視して連絡してみようって、確かに何度も思ったけど、そんなことしたら本当に嫌われて終わるような気がして……」
口に出して言うと余計に胸が締め付けられた。
私がそれ以上何も言えないでいると、紗英は考えをまとめて心を決めたように口を開いた。
「もういいじゃない。そんな男やめちゃえば?」
反論する言葉が出なかった。なんとなくそう言われるような気はしていた。
「絵里。端から見たら、それはもう自然消滅の一歩手前、だよ」
紗英は言い聞かせるような口調で言った。
「一歩よりも少ないかも。だから、もう待たなくていい。と私は思う」
「このまま終わらせちゃうってこと?」
「待たないで連絡しちゃうも良し。自然消滅に乗っかるも良し。私はそんな男やめちゃえばいいと思うけど」
頭の中で紗英の言葉をゆっくりと噛み砕く。
「……紗英ちゃんはもう連絡は来ないと思ってるのね」
紗英は明確に答えを言わないが、その目は肯定しているように見えた。
「ご、ごめん絵里。そんな顔しないでよ。早く忘れて、次に行けばいいのよ」
気がつくと私は相当酷い顔をしていたようだが、紗英の励ます言葉で不意に脳裏に甦るものがあった。
――――違うと思ったら別れて他に行けばいい。
そうだ。最初はたしかそんなことを考えて、自分は八木と付き合い始めたのだった。
「そっか、違うのか」
「ん? 何?」
「ううん、なんでもない」
今思えば、何故そのように簡単に考えることが出来たのだろう。そう思えば思う程、自分は最低な人間だと思う反面、今はその言葉が自分を救ってくれるようにも思えた。
「今の絵里なら新しい男なんてすぐできるわよ」
「そうかしら」
半信半疑の気持ちをたっぷりとこめた私の言葉に、紗英は大仰に頷いた。
「そうよぉ。少しは自信持ちなよー」
「私は紗英ちゃんとは違うから。自分のことは自分がよーくわかってるわよ」
そう言い、少しぬるくなったコーヒーを一口飲んだ。喉に水分が行き渡る。
コーヒーを飲んで一息ついた途端、忘れ去られまいとするかのように一つのことが頭に浮かび上がった。
「あっ」
私の声に反応して、紗英は飲んでいたコーヒーを置いて顔を上げた。
「どうしたの?」
私は言おうかどうか少し迷った。
「……実は彼にお金を貸してるの」
「え?」
「前に電話で貸す貸さないの話をしたの覚えてる? 紗英ちゃんには黙ってたけど、あの後私、結局貸したのよ……」
紗英の視線が突き刺さる。
紗英は頭を抱えて大きな溜め息をついた。
「いくら貸してるの」
上目遣いでこちらを見る彼女の大きな目は中々の迫力だ。その迫力に気圧されて、思わず背中を丸めて身を小さくする。
「三万貸して七千返ってきたから、あと二万三千円」
目を丸くして紗英は顔を上げた。
「なぁんだ、もっと何十万も貸してるのかと思ったわ。二万三千ならまだ諦めのつく範囲じゃない? 授業料としてまだ全然マシな方よ」
授業料、と心の中で繰り返す。この言葉が石のように耳の奥に落ちていき、底の方でコツンと音をたてた。
「やっぱり返ってこないかしら」
「そうねぇ。そもそも、たった三万さえすぐ返せないような男は無しよ無し!」
紗英の中で八木は相当厳しい評価を受けているようだ。
それに同意する自分も確かにいる。だが、彼と二人で飲みに行ったりクリスマスデートや初詣等、楽しかった時間もちゃんとあったのだ。それらを思い出すと、胃がきゅうっと痛んだ。
八木と出会ったのは一年程前だ。去年の今頃は初めての男友達ができたことに浮かれていた。それがこんな結末になるなんて思いもしなかった。
「まぁ、絵里は三万だけど、上には上がいるから」
「上?」
「このあいだテレビでやってたのを観たの。何十万も何百万も男にお金を貢いじゃう女って、この世の中やっぱりいるのよねぇ」
信じられないとでも言いたげな顔で紗英は話し始めた。
一体どういうつもりでそんなことを話し始めたのか。
私は黙って紗英の顔をじっと見詰めた。
「本人は貸してるつもりなのよ? 返ってくる保証なんかどこにも無いのに。そういうのはたいてい返ってこないって、貸す前にどうして気付かないんだろ」
「でも、それは返さない方が悪いでしょ?」
「そうだけど。だいたい女から大金を借りようとする男なんて、最初から返すつもり無いわよ。すぐ音信不通になって逃げられて」
紗英はここで一旦言葉を途切らせ、小声で「バカな女」と続けた。宙を見ながらコーヒーカップを傾ける彼女の表情には、はっきりと侮蔑の色がにじんでいた。
「私なら絶対にそんなことしない。男に貢ぐくらいなら逆に貢がせてやるわ!」
紗英の形の良い唇が微かに弧を描く。
「さすが紗英ちゃんだわ」
「うふふ。貢がせてやるっていうのはさすがに冗談だけどね」
紗英は長い黒髪を慣れた手つきで後ろへ払った。その仕草に、彼女の女としての絶対的な自信が垣間見えたような気がした。
そして、たった三万でも男にお金を貸した私は、紗英にとってきっとバカな女のうちの一人なのだろう。
辺りは暗闇が支配している中、八木の家の灯りがついているのが見えて私は足を止めた。
「帰ってきてる……」
相変わらず携帯電話には彼からの連絡は無い。
もしかしたら家を訪ねた時にいた親戚らしき男から、私のことを聞いているかもしれない。だとしたら、八木はどう思っただろう。
だがそれ以上私の気持ちは動かなかった。
連絡が来ないという事実が全ての疑問の答えを告げている。ここには最後にもう一度だけ、自分の気持ちを確かめるつもりで来たのだ。
しばらく灯りを眺め続け、私は静かにその場を後にした。
あの時の紗英の顔が焼き付けられたかのように頭から離れない。
バカな女。と言った時の彼女の顔は、侮蔑に彩られても美しさは少しも損なわれていなかった。
表情や角度によって美人でもブスに見えることがあると誰かが言っていたが、本当の美人はどんな顔をしてもやはり美人なのだ。
その後の自信に満ちた表情。髪を後ろに払う仕草。どれもが親友として高校時代から何度か目にしてきたものだ。
気のせいだ。自分の思い違いだ。紗英は私を傷つけるつもりで言ったわけではない。といくら自分に言い聞かせても、それまで何度も目にして気にしたことの無かったものが、急に違うものに見え始めるのを止めることは出来なかった。
今自宅アパートの部屋には、新しく買ってきたばかりのたくさんの化粧品がメイクボックスに入りきらず、テーブルの上にまとめて置いたままになっている。
唇をきれいに見せる色の口紅や、つけるだけで美肌になれるファンデーション。肌そのものを美肌に導くクリーム。春に発売された美白美容液と日焼け止めもそこに含まれている。
先月末の給料のうち、自由に使える分はもう残っていない。だが、こんな程度では気が済まない。まだ足りない。
美容院で髪の艶をだすヘアエステをしてもらった。今まで手を出したことの無かった高額なシャンプーとトリートメントも初めて購入した。
「分割払いでお願いします」
私はクレジットカードを作っていた。
「クレジットカード一枚でも作っておけば、いざというとき助かるわよ」
菊池多江の何気ないアドバイスを聞き、軽い気持ちで作っていたのだ。
だが――――
「まだよ。まだ、足りない……」
自宅アパートで鏡を見ながら一人呟く。
自分が本当に欲しいのはかりそめの美などではない。
傍らのファッション雑誌を手にとり、ぱらぱらと捲る。こういう雑誌の広告ページに載っているのは、化粧品ばかりではないのだ。エステティックサロンの永久脱毛、美顔、痩身の文字がカラフルな色で陳列されている。
更にページを捲る。
今までずっと素通りしていた美容整形の広告が、色あざやかに私の目に飛び込んできた。手術前と手術後の変化が一目瞭然でわかる顔写真が載っているのを、私は時間を忘れて見続けた。
突然、携帯電話の音が空気を震わせた。実家の母からだった。
「どうしたの。急に電話なんか寄越して」
つい不機嫌な言い方になった。
「たいした用事じゃないのよ。ただ、元気にやってるかなと思って電話してみただけ」
「何も無いわよ。普通にちゃんとやってるから」
「そう? ならいいんだけど。御飯はちゃんと食べてるの?」
「食べてるわよ。なんで?」
「お父さんが心配してるのよ。あんたがお盆に帰ってきた時、なんか元気無かったから」
「お父さんが?」
「そうなの。お父さんがちょっと電話してみろって言うから、電話してみただけなのよ。自分ですればって言ったんだけど、俺はいい。だって」
眉間にシワを寄せて言う父の顔を思い浮かべると、ふふふ。と自然に笑いが漏れた。
「私は元気でやってるよって言っといて」
「うん、わかった。ちょっと待っててくれる?」
母の声が受話器から遠のき、誰かと話してる声が聞こえてきた。おそらく近くに父がいるのだろう。
「もしもし。お父さんに電話に出るように言ったんだけど、元気ならいいって」
「ふふふ。わかった」
それから姉や姉の子供が元気に育っていること等、たわいもないことを話して電話を切った。
電話を切ると、視界が開けたように気持ちがすっと軽くなっていた。まるで自分に取り憑いていたものが、どこかへ消えたようだった。




