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それから数日が経ってメールを何度か交わした後、私は再び八木と電話で話すことが出来た。
「明日私休みなんだけど、やっぱりバイトかしら」
「うん。朝から夕方まで。だから、会うのはまた今度でいいよね?」
質問を先回りして最後の決めつけるような言い方に、私は不快になった。先週も会えなかったのに、また今度とは一体いつになるのだろう。
「夜は? どこかで一緒に御飯でも」
「夜は疲れてるから……絵も描きたいし」
「御飯食べるのもダメなの? ねぇ、画廊のバイトってそんなに疲れる程忙しいの?」
「まぁ、それなりには」
「画廊って、あんまり忙しそうなイメージは無かったけど、そうでもないのね」
「ああ、言ってなかったっけ。画廊だけど喫茶もやってるところで、俺はそこのウェイターをやってるんだよ」
頭の中にあった不明瞭な形をしたしこりが一気に解消されたような気持ちになり、私は只一言、ふうん。と呟いた。
「そう言えば、今年中にもう一度合同展覧会をしようっていう話が出ててさ。今度は前みたいにバイトは減らさないで出展する絵を描こうと思ってるんだ」
「それなら明日の夜、御飯作りに行ってあげる。一緒に御飯食べたら私はすぐ帰るから」
「わざわざそんなことしなくてもいいよ」
「大丈夫よ。ね、いいでしょ?」
「いや、でも」
「私のことなら気にしないで。帰りも送ってくれなくていいから」
電話の向こうで彼は黙り込んだ。やがてため息混じりの微かな唸り声を上げると、彼は感情を抑えるように滑舌良く言葉を吐き出した。
「悪いけど、しばらく放っておいてくれないかな」
思考が停止した。それは私にとって彼の初めての拒絶であり、予期していなかった強い拒絶は私を凍りつかせるに十分だった。
「……なんで?」
どうにかそれだけを言うと、苛々したように舌打ちする音が聞こえてきた。
「色々あるんだよ。今俺、色々ギリギリなんだよ。少しは察してくれないか。落ち着いたらこっちの方から電話するから」
苛々した声で一気にまくしたてられ、一方的に電話が切れた。最後の方はほとんど怒声に近かった。
こんな彼は初めてで、私は携帯電話を握りしめたまま、呆然と自宅アパートの床に座り込んだ。
翌日、謝罪のメールを送ったが返信は無かった。
何が彼の気に障ったのかわからない。彼と過ごす時間を少しでも作ろうとするのが、そんなにいけないことなのだろうか。
六月に開かれた展覧会の為に、居間に一人で放置されてずっとソファーで雑誌を読んで過ごしたのに、私は文句一つ言わなかった。その展覧会が終わった今も放置気味の休日は続いている。
それだけではない。お金を貸して食事まで作って協力しているのに、何故今こんなことになっているのだろう。一体私の何がいけないというのだ。
八木からの音沙汰がないままお盆が過ぎ、もう少しで九月に入るという頃になった。
私は夜道を歩く足を止めた。あと一、二分歩けば着く所に八木の家が見える。時間は夜八時を少し過ぎていて夜空が広がっているが、彼の家から灯りが漏れている様子はない。
家の前まで行ってみたが、やはり家の中は真っ暗のようだ。彼はまだバイトから帰ってきていないのだろう。
私は落胆してその場を離れた。
もし彼がいたとしても、会うつもりはなかった。只、窓から漏れている灯りを見るだけでよかったのだ。灯りを見るだけで、彼の気配を感じとることが出来るような気がした。
私は灯りをどうしても見たくて、次の日もその次の日も足を運んだ。どこかで時間を潰して灯りがつくまで待ったりしたが、彼の家に灯りがともるのを見ることはなかった。
いくらなんでも、向こうからそろそろメールの一つくらいあってもいいのではないか。そんな気持ちが頭をもたげ始めた。
こちらからも、様子を窺うメールくらいはしてもいいのではないか。
――――心配しています。
それだけを伝えるくらい許されるのではないだろうか。だがそう考える度、八木の苛々した声が頭の中に甦った。
そんなある休みの日、私は気晴らしに買い物に出ることにした。丁度秋物の洋服が欲しいと思っていたのだ。新しい洋服の一枚でも買えば、滅入った気分も上向きになるに違いない。そう思ったのだ。
だが気がつくと、私の足は八木の家に向かっていた。空はまだ明るい時間だ。
彼の家に行っても彼はバイトでいないかもしれない。むしろ、いない可能性が高い。それなのに、行ってどうするとか私は全く何も考えていなかった。
何も考えないまま、気がつくと私は八木の家の呼び鈴を鳴らしていたのだった。
玄関扉の向こうで呼び鈴が鳴っているのが漏れ聞こえ、私はハッと我にかえった。
自分は一体何をやっているのだろう。
動揺のあまりその場から逃げ出したくなった。もし中に八木がいたら、どう言い訳をしたらいいのだろう。
結局逃げることも出来ず、上手い言い訳を思いつくことも出来ず狼狽していると、扉の奥で人の動く気配があった。中に八木がいたのだ。覚悟をする暇もなく、扉は開いた。
反射的に私は下を向いた。彼の顔を見るのが怖かった。
「どちら様?」
八木の声とは明らかに違う声だ。驚いて顔を上げると、眼鏡をかけた白髪混じりの男が扉から顔を出して、こちらを見ていた。目尻のシワは太く線を描いており、自分の親よりも歳がいってそうに見える。
「新聞ならいらないし、保険もいらないよ」
何も言わない私にしびれを切らせたようにそう言い捨てて、男は玄関扉を閉めようとした。
「あ、いえ、私はそういう者では。あの、こちらは八木さんのお家ですよね?」
「ああ、隆文の友達か?」
男の声が若干柔らかくなった。
隆文とは八木の名前だ。もしかしたら目の前の男は八木の父親だろうか。そう思うと、どういうわけか私は冷静になることが出来た。
友達か? と訊かれてどう答えるべきか迷ったが、はい。ととりあえず私は頷いた。
「あの、隆文さんは今日は」
「隆文ならしばらく実家に行ってるって言ってたぞ。あいつになんか用?」
眼鏡の奥の目が真っ直ぐにこちらに向けられた。よく見ると、垂れた目が八木によく似ているような気がする。
「いえ、近くまで来たので寄ってみただけなんです。そうですか。実家に……」
ということはこの男は父親ではなく、おそらくこの家の持ち主である八木の親戚だろうか。
「つい昨日隆文から電話がきて、まだ実家にいるつもりだから、郵便受けに郵便物があったら家の中に入れといてくれって頼まれたんだよ」
フランスからのエアメールがちらりと頭を過った。
その後帰りの道中、私は収まりのつかない気持ちと戦っていた。様々な感情が胸の中で暴れていた。
実家にいる。と一言くらい言ってくれたらいいのに。バイトはどうしたのだろう。一体いつから実家にいたのか。そして、いつ帰ってくるつもりなのか。
八木に言いたいことや訊きたいことは山ほどあった。私はそれらを頭の中で繰り広げては、込み上げてくる感情に歯ぎしりした。
そうしているうちに最終的に行き着いた答えは、私に多大なショックを打ち下ろしたのだった。




