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哀れな堕天使  作者: 弘美
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 汗ばむ夏の暑い季節がやって来た。二度目の借金の申し出があったあの夜から、三週間程経つ。

 休日の昼過ぎに私は八木(やぎ)の家に着いた。片手にさげていたスーパーの買い物袋をキッチンの床に置くと、途端に汗がぶわりとふきだしてきた。化粧がくずれないよう、慌ててバッグから取り出したハンカチで慎重に額を押さえる。

 彼の家にはエアコンはあるにはあるのだが、作動しているのを見たことはない。私の自宅アパートと同様に窓を開けて風の通りを良くし、あとは扇風機をまわすくらいだ。

「まだお昼食べてないなら素麺(そうめん)でもゆでる?」

 私は買ってきた夕飯の食材を買い物袋から出して、冷蔵庫に入れながら八木に尋ねた。

「素麺あるの?」

 Tシャツに半ズボンという格好で後頭部を手で掻きながら、八木は質問に質問で返してくる。

「買ってきた。暑いし、すっきりするものがいいかなと思って」

 彼は小さく二、三度頷く。

「じゃあ、鍋にお湯を沸かそうか」

 と彼は言い、下の戸棚に長い腕を伸ばした。その中には、たしか丁度良い大きさの鍋があったはずだ。

「あ、いいわよ。私がやるから。出来たらアトリエに呼びに行くね」

「いや、今丁度切りがいいところなんだ」

 そう言って彼は鍋を取り出し、中に水を入れてガスコンロの火にかける。その一連の動作には少しも(よど)みがない。

 自炊をする彼にとって、当然それは造作もないことだろう。だが彼のその淀みのない動作は、私の胸をチクリとさせるものがあった。

 私がこの家で食事を作るようになったのは最近だ。キッチンのすみに大量のインスタント拉麺(ラーメン)が置いてあるのを見つけたのだ。どうやら知り合いから(もら)ったらしい。インスタント拉麺は何個か数を減らして、今もそこに雑然と置かれている。

 最初に大量のインスタント拉麺を見た時、さすがに彼の置かれている状況を深く考えずにはいられず、私はここで食事を作ることを思い立ったのだった。

「忘れないうちに返しとく」

 と言って、八木は半ズボンのポケットに手を突っ込み、何かを私に差し出した。それは二枚の千円札だった。

 返ってきたお金の少なさに、一瞬の驚愕(きょうがく)憤慨(ふんがい)が自分の中で()き起こった。が、私はすぐに笑みを作った。

「ふふふ。バイト代、出たんだ」

 うん。と彼は小さく頷いた。話す声のトーンも低い。

「もっと返せたらいいんだけど」

「ううん。大丈夫よ」

「本当なら、ここで作ってもらってる分の食費も出さないといけないのに」

「それはキッチンを使わせてもらって私も一緒に食べてるんだし、私がやりたくてやってることだから。だから、気にしなくていいわよ」

 バッグから財布を取り出し、受け取ったお金をしまう。

「いつでもいいから、少しずつでも返せる時に返してくれればいいわ」

 もちろん八木を気遣ってこういう言い方をしているだけであって、本気で言っているわけではない。

 本当に二千円しか返せないのだろうか。実はもっと返せるのではないか。なぜ二千円なのだろう。二千円返せるなら五千円返せるのではないか。その差額の三千円はどうしても必要なお金なのだろうか。私ならそれくらいなんとかやりくりしてみせるのに。

 言葉とは裏腹(うらはら)に、そんな釈然(しゃくぜん)としない気持ちが胸に広がっていた。

 素麺を食べ終えると、八木はすぐにアトリエの部屋に入っていき、それからずっとアトリエにこもりきりだった。夕飯が出来たと呼びに行っても、今手が放せないからと言って、結局彼は私が帰るまで一度も居間に姿を見せることはなかった。




 来月から菊池多江(きくちたえ)がパートから社員に昇格するという噂を耳にした。今までの仕事ぶりが評価されてのことらしい。

「お疲れ様です。聞きましたよ、菊池さん。昇格なんてすごいじゃないですか」

 更衣室に入ると、彼女は私服に着替えたところだった。

「ふふふ。ありがとう。頑張ってきたかいがあったわ。まさか社員にしてもらえるなんて思ってなかったから」

「でも、子供は大丈夫なんですか? 社員になったら残業とかあるし」

 全部を言ってしまってから声に出さずに、あっ、と思わず口を押さえて菊池多江の顔を見る。

 彼女がシングルマザーであることに、ずっと()れないまま今まできていたのだ。年明けにショッピングモールで目にしたことも、もちろん言っていない。

 彼女は口を押さえて固まっている私を見てきょとんとした顔をするが、すぐに合点がいったと言うように、あはは。と笑いだした。

「実家の親がいるからなんとかね」

「あ、そ、そうですよね」

 すぐに彼女は私を気遣うように言ってきた。

「大丈夫よ。別に隠してるわけじゃないし、私がバツイチの子持ちだってことは皆もう知ってるから。多分相田さんも知ってるんだろうなって思ってたわよ」

「そうなんですか」

 そうよー。と彼女は(ほが)らかに笑う。

「パートの給料じゃやっぱり色々きつくて。でも今は子供の為にも私が頑張らないといけないから、昇格の話は嬉しいわ」

 黄色い野球帽をかぶった男の子を思い出した。記憶の中の男の子は、菊池多江の陰から顔だけ出してはにかむように笑っている。

 ロッカーを開けて着替えようと制服のボタンをはずしていると、彼女は急に思いがけないことを訊いてきた。

「相田さんは彼氏はいるの?」

「あ、はい。います」

「その人と結婚するの?」

 不意打ちのように彼女の口から出てきた結婚という言葉に、頭の中で何かが(はじ)けた。

「……それは、まだ」

 ふうん。と彼女は相槌を打つ。

「私も結婚する前は相田さんみたくおしゃれして服とか(くつ)とかたくさん買ってたけど、結婚して子供ができたらやっぱり中々ねー」

 菊池多江の視線は私のロッカーの中に注がれている。だがその視線に嫌味なものは感じない。

「私だってそんなに服は持ってないですよ」

 私は当たり(さわ)りのない無難な答えを選んで言った。

 菊池多江の今の私服は半袖ブラウスに七分丈のチノパンだ。右肩にはナイロンの布地のリュックをかけている。

「欲しいものを買って、お金を自分の好きなように自由に使えるのなんて本当、独身の今のうちよー」

 きっと彼女なりに思うことは色々あるのだろう。お疲れ様でした。と付け加えて彼女は帰っていった。




 今は私が望むような男でなくても、彼はいずれそうなる可能性がある。嫌いではないのだし、違うと思ったら別れて他に行けばいい。たしかそんな考えだったと思う。

 本当に彼を好きになってから、どこかへ消え去ったと思っていたその考えは、半透明の(まく)におおわれて長い間息を(ひそ)めていたのだ。その膜が破れる程、「結婚」という言葉の刺激は私には強かったのだろう。

 三十までに良い男と結婚したい。そう思うのは今も変わっていない。

「もしもし、絵里(えり)です。明日休みなのでそっちに行っても大丈夫ですか。あとで電話下さい」

 八木に電話したが留守電だったので、伝言を残して電話を切った。

 二千円を返してもらった日以降、八木からの連絡が減ったように思う。こちらから電話をしても、留守電になることが増えた。メールをしても三回に一度くらいの割合でしか返信がこない。

 その後自宅アパートで夕飯を食べ終え、テレビを見ていると携帯電話が鳴った。

「絵里? 俺だけど」

 八木の声が聞こえてきて安堵(あんど)する。私は思わず待ちくたびれたような声を上げた。

「留守電にも入れたんだけど、明日そっちに行ってもいいかしら」

「明日の昼間はバイトで、その後も用事があって遅くなるかもしれないから。だから、ごめん」

 電話を通して聞こえる彼の口調は普段と変わらない。だがどことなく気まずい空気を感じるのは何故だろうか。

「ねぇ、最近また忙しいの? 電話しても留守電になるし、メールもあまり返ってこないし」

「ああ……ちょっと色々あって」

「色々?」

「うん。バイトも今は減らすことは出来ないから。だから……」

 彼には珍しくはっきりと口に出さないが、当然言わなくてもわかる。だから電話に出れない時もあるし、メールの返信もあまりできないと言いたいのだろう。

「わかった。でも、メールの返事くらいはして欲しいわ。すぐにとは言わないから」

 電話の向こうで、うん。と低い声が答えた。

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