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河村の最初の印象は、どちらかと言えば薄かった。
物静かな男の人だと最初に受けた印象以外は特に何も思わず、それきり意識は他の三人の方へばかり傾いていったからだ。
後でよくよく考えてみると、他の三人はいささか賑やかすぎた。中でも関西弁を話す男が一人いたのだが、これが非常によくしゃべる男で、こういう男が飲み会などで場をもたせる為に重宝されるのだろうなと、まだ暖まってもいない頭で秘かに思っていたものだ。
関西弁の男を筆頭に、このうるさく多弁な男達と一緒にいれば、例えどんな人間でも、寡黙に思えてしまっても仕方がないのではないのだろうか。
実際に、河村は私が最初に思ったような男ではなかった。
酔いのまわった頭で彼を適当にあしらっていたせいか、なんの話をしていたのか、実はよく覚えていなかった。いつのまにか話の流れは彼自身の話に変わり、なにやら熱心に誘われ、半ば強引に携帯番号の交換をさせられたことだけは、うっすらと記憶に残っている。
翌日の朝。いつものように出勤し、薄暗い照明の更衣室で一人制服に着替えていると、目隠しのカーテンの向こうでガチャリとドアが開く音がした。衣擦れの音と共に、カーテンから現れたのは小島正子だった。
新人である私は朝の掃除を任されている為、仕事がある日は毎朝誰よりも早く出社しているのだが、彼女がこの時間に出社してきたのは私にとって初めてのことだった。
「小島さん、おはようございます。昨日はお疲れ様でした」
「おはよう。ねぇ、昨日どうだった?」
彼女は自分のロッカーの前に、色々物が入って大きな膨らみを形成している肩かけバッグを降ろし、我慢できないというように昨夜のことを訊いてきた。
おそらく河村とのことを訊きたいのだろうなと、彼女の期待に満ちた顔ですぐにわかったが、私はわざとすっとぼけた。
「昨日は誘ってくれてありがとうございました。久し振りに居酒屋で飲めて、楽しかったです」
「そんなことはいいわよ~。それよりも、ほら、なんかさぁ、すごく口説かれてたでしょ?」
思った通りに河村のことを訊いてきた小島正子を横目で見ながら、私は今言われて初めて思い出したかのように答えた。
「あぁ……えーと、河村さんですか? そんなことないですよ。あの時はもう酔ってたので、ただ訊かれたことにあまり考えずに適当に答えてただけですよ」
「え~でもさぁ、携帯の番号、教えてたよね?」
そんなところまでしっかり見られていたのかと、再び彼女をちらりと横目で見る。
「はい。でも昨日、家に帰ってから色々考えて、やっぱり教えたのはまずかったかなぁって思ったんですよね……」
携帯番号を教えた時は、まぁいいか。ぐらいの軽い気持ちでいたが、アルコールが抜けていくにつれて、果たして会ったばかりの初対面の男に簡単に教えて大丈夫だったのだろうかと、不安ばかりが大きく膨らんでいったのは事実だった。
「お酒が入るとそんなこともあるよね~。で、あの後携帯にかかってきた?」
「いえ……」
かぶりを振ると小島正子は、ふ~ん。と何やら考える様子でロッカーを開け、制服に着替え始めた。
それきり彼女は黙ってしまったので、先に行ってますね。と声をかけて私は更衣室を後にした。
その後、仕事の忙しさに紛れ、小島正子とは一言も言葉を交わすことのないままお昼休みに入った。
職場の休憩室の中は小上がりになっており、長いテーブルが部屋のど真ん中に置かれている。
私はテーブルの端にナイロン地のランチバッグを置き、ねずみ色のざらりとした絨毯の上に腰を降ろした。
ランチバッグからお弁当箱を取り出し、蓋をあける。昨夜の夕飯で食べる予定だった唐揚げの香ばしい匂いに食欲を刺激され、唐揚げを一つ頬張りながら、もう一つのバッグから携帯を取り出した。
待受画面には、新着メールが一件とだけ表示されている。
河村からの着信があるとすれば、おそらく仕事が終わった後になるだろう。
河村からの着信履歴がなかったことに半ば安堵しながら、私は新着メールを開いた。
それは、紗英からの久しぶりのメールだった。どうやら次週の連休を利用して実家へ帰ってくるらしい。
私は、懐かしき高校時代の自分を眼裏に思い描いた。膝丈のチェックのプリーツスカート。白いブラウスの上に紺色のベスト。首元にはブルーのネクタイ。ネクタイは、よく有りがちなワンタッチ式のものではなく、サラリーマンのように一々結わなくてはならないものだった。
ベストと同色のブレザーを羽織り、友達と無邪気に街中を闊歩していた時代はもう遥か彼方。
今思えば、自分はなんて安穏な日々を過ごしていたのだろう。
手短に連休の予定を空けておく旨を返信すると、私は再びお弁当へと箸を伸ばした。
紗英が上京して五年目になる。彼女が毎年帰省するたびに、東京の匂いを幾重にもその身に纏わせていくのを目の当たりにすると、私は自分が取り残されたような、なんとなく寂しさを感じる反面、羨ましくもあった。
私が紗英のように上京せず地元に留まったのは、自分の気質が東京という大都会におそらく合わないのではないだろうかと、自己分析した臆病な理由からである。もちろんそれが悪いとは思わない。だが、東京に対する憧憬のようなものは、確実に私の胸底に巣食っていたのだ。
何の憂いもなく東京生活を謳歌している紗英に、少しも妬みはないと言えば嘘になる。それでも、親友である彼女の帰省時に彼女と会うことは、数少ない楽しみの一つであった。
その日の夜。携帯の着信音が鳴り、それは紗英からだった。
「もしもし~絵里? 今いい?」
「あぁ、うん、まぁ大丈夫」
もしかしたら河村から着信が入るかもしれないと一瞬頭をよぎり、つい歯切れの悪い言い方をしてしまったのを、紗英は聞き逃さなかった。
「ん~? 都合が悪いなら、また後でかけるけど」
「ううん、いいのよ。えーと、来週の三連休に帰ってくるんでしょ? メールした後、仕事の勤務確認したら、二日目休みで最初の日と最後の日が仕事なの」
「休みは二日目だけか~。せっかくの連休なのに絵里は連休にならないのねぇ」
「そうなの。連休は忙しくなるから、皆で交代で一日だけ休んで、多分そのあと代休が貰えるのかな」
「へ~。ごめん、二日目は実家の方で用事があって、三日目の午後にはもう東京に帰るから、最初の日でいい? 絵里、仕事は何時くらいに終わる?」
電話の向こうでパラパラと手帳をめくる音が聞こえる。
「多分、七時過ぎると思う」
「じゃあ、七時半にいつものところで待ち合わせね」
用件が済み、二言三言喋ってから紗英は電話を切った。