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「しばらくは、絵に集中したいと思ってるんだ」
真面目な顔で、八木はそう切り出した。
私は彼の言葉を心の中で噛み砕く。返答するのに数秒を要した。
「それは、会えなくなるってこと?」
私の質問に、彼は首を「ううん」と横に振る。
「さすがにそれは。でも、会う時間は減るかな。例えば、去年みたいに、飲みに行ったりするのはあまり出来ないと思う。と言っても、最近はもうそうなっているけどね」
「ふふふ。なんだ、それくらいなら平気よ」
安堵した私は、コーヒーが注がれたマグカップに手を延ばす。彼の家のマグカップは、すっかり私の手に馴染んでいた。
「それに、ずっとではないんでしょう?」
「ずっとではないけど」
と言い、彼は一度私に視線を向けた後、ふいっと視線を外した。
「少し、長くなるかも」
そう言った彼の顔は、どう話したらいいのか考えあぐねている、というような表情だ。
「どうして?」
この質問に、彼は少し考えてから口を開いた。
「さっき、しばらくは絵に集中したいって言ったけど、実はもう年末ぐらいから始めててさ」
「あ、そうだったの?」
「美大の時の仲間と合同展覧会をすることになって、それに出す絵を出来るだけたくさん描きたいんだ」
これを聞き、彼が油絵画家の道を着実に歩いていることを、私は嬉しく思った。その為なら、少しくらい会う時間が減っても喜んで我慢しようと思えた。
「そういうことならしょうがないわよ。展覧会っていつなの?」
「六月に予定してる」
今は四月に入ったばかりだ。
「なんだ、もっと長くなるのかと思ったわ」
彼と会う時間が減るのは残念だけど、そう長いことではないのなら問題ない。それが彼の為になるのなら、いくらでも協力するし、応援するつもりだ。
「でね、ここからが本題なんだけど」
まだ何かあるのかと、私はコーヒーを飲もうとする手を止めた。
「何、本題って」
「えーと、どう言ったらいいのかな」
彼はしきりに手で膝を軽く叩きながら、何かを考えているようだ。
「どうしたの。そんなに言いづらいことなの?」
彼が何を言いたいのかを予想してみるが、皆目見当がつかない。
ふと、視線がテーブルの上にとまる。そこにはフランスからの手紙と、同封されていた写真がのっている。先月の終わり頃に届いた新しい手紙だ。写真は、家族写真のように何人かの外国人が写っている。その中に若い女性も混ざっていた。
もしかしたら。と一瞬思ったが、すぐに思い直す。
展覧会の話から今話そうとしている本題に、それがどう繋がるのかと、私は浮かび上がりかけた考えを打ち消した。
彼は私の方をチラリと見て、やがて観念したのか、諦めたように溜め息を吐いた。身体ごと私の方に向き直り、ようやく口を開く。それは、私にとって有り得ない言葉だった。
「少し、お金を貸して欲しいんだ」
耳を疑った。どこか、裏切られたような気持ちになった。
男は、そういう種類の頼みごとを、自分の好きな女にはしないものだと思っていたからだ。
当然、金額にもよるし、それ次第では貸してあげることはやぶさかではない。しかしながら、彼の態度から、それがぽんと出せるような額ではないことは、容易く察することが出来たのだった。相手が八木でなければ、即座に断っているだろう。
「それは、いくらぐらい?」
もちろん、とりあえず尋ねただけだ。だが、その一言は彼を期待させたのかもしれなかった。
彼の声にそれまであった、おずおずとした躊躇いの色が消えた。
「三万あれば、なんとか」
思ったよりも少なかった。が、今の私にとって、それは大金だ。
「今年に入ってから絵を描く時間をとる為に、バイトを週二に減らしててさ」
バイト先の画廊に置いてる自分の絵が売れれば、あとは貯蓄でその分をカバー出来るだろうと思っていたのだが、その目論見がはずれたと言うのだ。
「なんとか出来るだろうと思ってたんだ。でも、今年に入ってから絵が売れなくて。こんな情けないこと言うの、自分でも嫌なんだけどさ。でも、あと二ヶ月だし」
だから、最近どこにも連れて行ってもらえなかったのか。と私はこんな時に、何故かどうでもいいことを考えていた。
「展覧会で絵が売れたらすぐ返すから」
もし売れなかったらどうするの。と心の中で呟きながら、私は彼を見つめた。
「……お金を貸してくれる人は他にいないの? 例えば、親とか」
「うちはあまり裕福な家じゃないのに、美大の学費と留学費用で親にはもう十分に迷惑かけてるから、親にはこれ以上お金で頼りたくないんだ」
「じゃあ、家賃を待ってもらうのはどう? 親戚なら待ってくれるんじゃない?」
「多分、親に筒抜けになると思う。とくにうちの母さんには心配かけたくないんだ」
「美大の仲間で、貸してくれるような人はいないの?」
「仲間からお金は借りれない」
思いつく案は、すぐに出尽くした。もう何も思い浮かばなかった。
「ね、だから、頼む。――――絵里」
自分の名前が耳の中で木霊する。
私と八木は、名前で呼び合う関係に進展していた。
「それとも、俺のことが信用できない?」
「そういうんじゃないの。……私も今、お金にあまり余裕が無くて」
遠回しに断ったつもりだった。余裕が無いのは本当だ。だが、彼には届かなかったようだ。
「絵が売れなくても、バイトでもなんでもして必ず返すから。だから、頼む」
ここまで必死に頭を下げられて尚も断るのは、逆に、自分が酷く冷たい人間だということになるのではないか、という気にさせられてくる。
私は冷たい女と思われたくなかった。
「まだ二ヶ月もあるんでしょう? 本当に三万でなんとかなるの?」
「それは、なんとかするよ」
彼は自分を奮い立たせるように言った。
もし、私がここできっぱりと拒否できたとしたら、二人の関係はどうなっていただろう。
「それで、なんて答えたの」
やや早口で紗英が問う。
「考えさせて。って言った」
電話の向こうから、彼女の盛大な溜め息が聞こえた。
「まさか、貸すのぉ?」
「……どうしよう」
「やめときなよー。何百円とかじゃないんだから」
「うん……やっぱりそうよね……」
「一回貸したら、二回、三回ってくるわよ」
「うん。でも、展覧会が終われば、またバイトのシフトを元に戻すって言ってたから、それは多分大丈夫だと思うわ」
「何言ってるのよ。終わっても、絵が売れなければ同じことじゃない」
紗英の正論に、返す言葉が出なかった。
彼女は、興奮気味の声を落ち着かせるように咳払いをすると、はっきりとした口調で言った。
「おせっかいかもしれないけど、その彼とは別れた方がいいと思う」
「……え?」
「女にお金を借りようとする男なんて、やめといた方がいいわよ」
彼女のストレートな物言いに、微かな反抗心が胸に芽生える。
「付き合ってから三ヶ月ちょっとなら、まだ傷は浅いわ。今のうちに別れといた方がいいと思うわ」
「それは、ちょっと……」
「もっといい男は、他にもたーくさんいるわよ」
彼女が言うと、素直に受け止められるかどうか、微妙な言葉だ。
「まぁ、それはまた別問題だけど。とりあえず、お金は貸したらダメよ。ね?」
紗英は、何度も念押しした後、「じゃあ、明日は早いから」と言って電話を切った。
携帯電話をファッション雑誌の上に置き、私はその場でごろんと寝ころがった。目をつむり、今したばかりの紗英とのやりとりを思い返す。
あんなにはっきりと、別れた方がいいなどと言われるとは思っていなかった。だが、よく考えてみると、いかにも彼女らしいとも思えた。もし、彼女が私の立場だったら、何の迷いもなく八木と別れて、すっぱりと関係を断ち切るに違いない。
「ありがとう。恩に着るよ」
そう言い、八木はほっとしたような笑みを浮かべた。
「言っとくけど、これ以上は無理だからね」
「わかってる。感謝してる」
春夏の新しい洋服や、春の新色の口紅を買う為に、他を切りつめて作った三万円が、八木の財布の中に収められた。
彼の財布はよく使い込まれているらしく、全体が黒ずんでいた。元の色は、おそらく茶色だろうか。
「展覧会、うまくいくといいわね」
「うん、ありがとう。ちょっとだけ上がってコーヒーでも飲んでく?」
「ううん。すぐ帰るわ。休みの日にまた来る」
仕事が終わった後に彼の家に立ち寄った為、遅い時間になっていた。
「そっか。わざわざ来てもらって、悪かったね」
「いいのよ。じゃ、また」
八木は近くまで送ると言ったが、外は寒いからいいと言って断った。彼の家を出て、暗い夜道を歩く。春の冷たい夜風が、正面から吹き付けた。
結局断ることが出来ずにお金を貸してしまったわけだが、安心したような彼の顔を見ると、これで良かったと思えた。
要するに、きちんと返してもらえさえすればいいだけなのだ。返してもらえさえすれば、お金の貸し借りなど大したことではないのだ。
私と八木は、それが出来る信頼関係で結ばれている。彼は、借りたお金を返さないような人間ではない。
私は歩きながら足もとに落としていた視線を上にあげて、行く先を真っ直ぐに見詰めた。
紗英は八木と別れた方がいいと言うが、そんな必要はどこにも無いのだ。




