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「やっぱり一軒家っていいわよね」
ソファーに八木と二人並んで座ったくらいで狼狽えている自分を跳ね返すように、とりあえず私は思いついたことを口にした。
「そうだね。部屋数あるし結構広いし。借り家じゃなければ尚良しだね」
「ふふふ。そっか。あと、アパートみたいに、隣人がたてる物音をいちいち気にすることって無いでしょう?」
「ああ、たしかに。絵に集中するにはいい環境かもね」
「アパートだと、自分も大きな音をたてないように、気をつかわないといけないもの」
コーヒーを飲もうとマグカップに手をかけようとしたが、私はその手をすぐに引っ込めた。まだ火傷するぞと言わんばかりに、湯気は盛んに立ち上っている。
横で八木がクスクスと笑った。
「この家さ、さっきまで凄く寒かっただろ? 絶対どこかからすきま風が入ってると思うんだよ」
「築何年かしら。ちょっと昭和な感じよね」
家だけではなく、今座っているソファーや目の前のテーブルも、どことなく古めかしい。おそらく、これらもずっとここに置いてあったのだろう。
「でも文句は言えないな。絵に集中できる環境の一軒家を安く借りられるのは、やっぱりありがたいよ」
「あ、やっぱりタダじゃないんだ」
「親戚とはいえ、さすがにタダとはいかないよ」
ちょっと図々しいことを言っただろうかと、私は恥ずかしくなって下を向いた。
それを見透かしたのか、その後に彼はこう付け加える。
「俺も最初はそれを期待したけどね」
思わず顔を見合わせる。やがて、どちらからともなく自然に笑いが漏れた。ひとしきり笑うと、私は今までのことを思い出していた。
こんなふうに肩の力を抜いて笑いあったのは、彼と付き合いだしてから初めてのことかもしれない。
友達から彼氏と彼女になったからといって、自分は何も変わらないと思っていたが、やはり無意識に身体は力んでいたのだろう。彼のことを本当に好きになってからも、それまでとはまた違った意味で、拍車がかかっていたのかもしれない。
温かい血が心の中の隅々まで巡ったような心地に、私は安堵の息を吐く。
コーヒーはようやく飲めるくらいの温度になった。コーヒーをフーフーと口で冷ましながら飲み、明日は何をしているのかと彼に尋ねた。
「多分、家で絵を描いてると思うよ」
「家にいる時はずっと描いてるの?」
「興が乗ればずっと描いてるし、ダメな時は他のことをやってる」
「他のこと?」
「雑誌読んだり、天気が良いと近くの公園まで散歩したり。最近は留学してた時のアルバムをよく眺めてるかな」
そう言えば、彼は私と出会う数ヶ月前までフランスに留学していたのだそうだ。
彼と出会った合コンの時にその話を聞いた私は、若干引き気味になったのを覚えている。自分を高める為に海を越えて行くこと自体が、私には高尚なことに思えたからだ。その行動力も私には無い。
彼を自分とは別の世界で生きている人間と認識し、見えない壁を作っていた私を彼はどう思ったのかはわからない。だが結果として、彼はそんな見えない壁をどうということなく打ち砕いたのだ。
「自分の好きなことの為に海外にまで行くって、それだけですごいと思うわ」
「そう?」
「私はそんなこと考えたことないから」
八木は少し考えるように顎に指を添える。
「向こうには一年ちょっといたかな。絵の勉強ばかりしてたわけじゃなくて、美術館に行ったり観光地にも行ったりしたよ」
「エッフェル塔とか行ったの?」
「よかったらアルバム持ってこようか?」
そう言って八木は居間を出ていき、一冊のアルバムを手に戻ってきた。それをテーブルの上で広げる。
アルバムの写真は、フランスの観光スポットらしき場所で撮られているものが多かった。その次に彼と数人の外国人が一緒に写っているスナップ写真が多く、楽しく有意義な時間を過ごしていたのが窺えた。
「ほら、これがエッフェル塔で撮った写真だよ」
八木が一枚の写真を指で示す。青空にそびえるエッフェル塔を背に、笑顔の彼が外国人と並んで写っている。
「中々良く撮れてるだろ?」
「ふふふ。そうね」
ページを一枚ずつ捲りながら他の写真も見ていき、最後のページを捲る。
「あら? これって……」
最後のページには封筒に入った手紙とクリスマスカードが挟まれていた。
「ああ、帰国してから向こうの友達が送ってくれたエアメールとクリスマスカードだよ」
手紙は五通もあった。封筒の右下には大きく「JAPON」と書かれている。裏面にある差出人の名前や住所は私には読めないが、おそらく手紙もクリスマスカードも全部同じ差出人だ。
「八木さんて、いつ日本に帰ってきたの?」
「えーと……去年の六月だったかな」
六月と聞き、私は「七、八、九……」と指を折って数える。
「半年の間に五通も? それに、クリスマスカードまで」
そんなところを突っ込まれるとは思ってなかったのか、八木は困ったように肩をすくめた。
「今時珍しいよね。でも、クリスマスカードはちょっと嬉しかったかなぁ。向こうの人って、クリスマスにかける熱が日本人とはまた違うんだよね」
その人は、女性? という疑問を言葉にするのをぐっと堪えた。
嬉しそうに目を細める彼を横目に、クリスマスカードを手に取り中を開く。おそらくフランス語だろう。何て書かれているのか、私にはわからない。男か女かの区別も、紙面からは読み取れない。
「その人さ、カメラが趣味でね。いつも手紙と一緒に写真も何枚か同封されてくるんだ」
彼は封筒から写真を何枚か出して見せてくれた。空や動物等、被写体は様々だ。
その中の一枚に私は目を奪われた。
それは、抜けるような青空にうろこ雲が広がっている写真だった。
もう長いこと仕事や私生活にかまけて、じっくりと空を見たことなんかなかったように思う。写真のような空を見たのは一体いつのことだっただろうかと記憶を辿るが、よく思い出せない。
それくらい、遠い昔のことのように思えたのだった。
三月に入り、春の訪れを感じる日が少しずつ増えてきた頃。大学時代の女友達の結婚披露宴が執り行われ、私はショッピングモールで買ったパーティードレスを着て出席した。
新婦のはち切れんばかりの幸せそうな顔は、自分の中の嫉妬が入り混じった微妙な心をきれいに洗い流してくれた。
他の女友達とも久し振りの再会を互いに喜び合った。披露宴の後の二次会では話が尽きることはなく、まるで大学時代に戻ったかのような楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
アパートに帰宅し、パーティードレスを脱いでメイクをいつもよりも丁寧に落とす。最後に美容院でセットしてもらった髪を解くと、たちまち一大イベントが終わったような気持ちになった。
脱いだパーティードレスは煌めく微かな余韻を纏い、ハンガーに掛けられている。
自分が結婚するまでに、あと何回これを着ることになるだろうか。その回数は少なければいいと思う。
パーティードレスを買った後日、実はそれに合わせる靴とバッグも購入していた。会費も合わせれば、披露宴に出るだけで結構な出費だった。当然、一人暮らしの自分には痛い出費だが、なんとかなるくらいにはやりくり出来ている。
出しっぱなしの最新号のファッション雑誌をパラパラと捲る。そこに載っているのは春物や夏物ばかりだ。
去年買った春夏の洋服はもちろん今年も活躍させるつもりだが、できれば新しいのを何枚か買い足したい。化粧品も、春の新色の口紅一本くらいは手に入れたい。
その為には、何をどれだけ切りつめればいいのか。私は預金通帳とにらめっこしながら、風呂にも入らずそれを考えることに没頭したのだった。
休みの日は八木の家で過ごすことが増えた。
とは言っても、合鍵は渡されていない。私が彼の家に行く時は、必ず彼がいる時だ。別に私はこれを不満に思っているわけではない。
私が不満に思っていることは、彼との付き合いでは、もっといろんなところに行ってみたいという期待がはずれたことだ。だが、これはまだいい。
フランスからの手紙は一月と二月に一通ずつ届いた。届くたびに、八木は同封されていた写真を見せてくれた。おそらく、手紙は今月も届くだろう。
彼は私と付き合う前、女友達はいないと言った。それが本当なら、手紙の送り主は男ということだ。いくら友達とはいえ、男が男にこんなにまめまめしく手紙を送るものなのだろうか。
十二月にはクリスマスカードが送られている。クリスマスカードというところが、私には女性的に思えてならない。
そんな疑問をずっと胸に抱きつつ、私はやはり彼に訊けないでいたのだった。
思いもよらぬ爆弾を彼が投下したのは、そんな時だった。




