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実家を後にし、アパートに着いてからも母に指摘されたことが頭から離れない。
私が紗英みたくなろうとしているのではないか。などと、何故母は思ったのだろう。もちろんそんなつもりはない。
そんなつもりはないのだが、よく考えてみると、もしそうだとして一体それがなんだというのだ。ファッション雑誌のメイク特集には、美人女優や人気モデルに似せるメイクの仕方なんかいくらでも載っている。
母に指摘されたことに、過剰に反応しすぎたかもしれない。何故いつものように受け流すことが出来なかったのだろう。
自分がしている化粧は、人によっては少し濃いめと感じる程度のものだ。それでも社会人女性として見るならば、普通に許容範囲だろう。
きっちりと化粧をするようになったのは、気まぐれで買った一本の黒いマスカラがきっかけだ。更に、その気まぐれの大元は紗英だ。だからだろうか、母に指摘されたことに胸はざわめき、ついムキになって言い返したのだ。
だが、と今いる自分のアパートの部屋を見回す。
本棚には毎月欠かさず買っているファッション雑誌が所狭しと並んでおり、メイクボックスの中の化粧品は今も上質なものが収納されている。肌の手入れも完璧だ。
やはり紗英はきっかけにすぎない。今の自分は間違いなく自分が作りあげたものだ。
ブランド物の洋服や小物、バッグも単に自分の欲求を満たす為だけのものではない。自分をよく見せる為のちゃんとした自己投資だ。
その結果、今私は八木と付き合っている。
晴天の下、しゃらんしゃらんと清々しい鈴の音が鳴った。
賽銭箱に十円玉を投げ入れ、目の前にぶら下げられている麻縄を掴んで揺らすと、真上にある鈴が音を鳴らす。
午前中なら空いているだろうと思っていたが、予想していたよりもずっと神社の境内は初詣に来た人で溢れていた。
鈴を鳴らしてから、そういえば神社でのお参りの仕方はどうだっただろうかと、横にいる八木にそっと視線を移した。
パンパンと手を二回打ってお参りしているのを見て、私もそれに倣う。手を合わせて目を閉じ、今年も良い年になりますように。と月並みな願い事を心の中で呟いた。
その後、あてもなく境内を二人で手を繋いで適当にぶらぶらする。
元彼の河村とは、食事や家以外でのデートは数える程しかない。その為、八木との付き合いでは今のように、もっと色々なところに行ってみたいという期待に、私の胸は膨らんだ。
神社の近くにあった飲食店で少し早めの昼食をすませ、私達は街に出た。
八木に考えておくようにと言っていたクリスマスプレゼントは洋服を買うことになり、街にあるデパートでセーターと長袖シャツを買って彼に贈った。
「服、ありがとう」
「ふふふ。気に入ったのがあってよかった」
私からプレゼントを買ってもらうのを遠慮していた彼に、洋服ならどうかと私が提案したのだ。
というのは、飲食店に入って彼がダウンジャケットを脱いだ時に、今日も着古した感じの洋服を着ているのが、ふと目についたからだ。
「俺、そんなに服買わないんだよね。前買ったのいつだったかな」
「服にあまり興味がないのね」
「そういうわけじゃないよ」
今日の彼の服装は、シンプルな黒い毛糸のセーターにジーンズだ。セーターの袖や首の辺りが伸びていたのが気になった。
洋服を提案したことで、もしかしたら彼の心を傷つけただろうかと少々心配になった。が、そんな様子は微塵も感じられず、彼は嬉しそうに笑ってくれている。
「ねぇ、今日はまだ時間あるの?」
横を歩く八木が尋ねた。
「うん。なんで?」
「まだ時間的に早いからさ。よかったら家に来ないかなと思って」
パッと彼の顔を見上げた。彼と目が合う。
「この感じじゃどこも混んでるだろうし。それともどこか行きたいとこある?」
今の時間はまだ夕方には程遠い。初詣をすませて昼食も食べ、クリスマスプレゼントも買った今、特に行きたい場所は思いつかない。本当はもう少しこのまま彼と並んで外を歩いていたかったが、彼の言うことももっともだ。
「そうね。うん、いいわよ。八木さんの家に行きましょ」
思わず流されるように了承の言葉が口をついて出てきた。付き合っている仲なのに、誘いを断るのもおかしいような気がしたのだ。
この瞬間、様々なことが駆け巡る。久し振りに男の家にあがるのだ。これがドキドキしないはずがない。
そんな心の中を悟られないようになるべく平静を装うのだが、出来ているのか自信はなく、私はすぐ横にいる彼の顔をしばらく見ることが出来なかった。
八木の家は古びた二階建ての一軒家だった。ずっと空き家になっていたという親戚の持ち家に住まわせてもらっているらしい。
古い家だからか、すぐにコートを脱ぐには中の空気は冷えすぎていた。
「ソファーにでも座ってて。あ、コーヒーでいい?」
八木は喋りながら部屋のストーブをつけたりして、忙しく動き回る。
居間にはテレビ、テーブル、ソファー等が配置されており、普通の家と何ら変わったところは無い。ごちゃごちゃと無駄な物が置かれていない部屋は、少々寒ざむしい印象だ。
「うん、ありがとう。意外ときれいにしてるのね」
「あはは。意外と、ね」
居間から視線を移し、庭に面した大きな窓から景色を眺めていると、奥のキッチンからやかんの底に水を打つ音が聞こえてきた。キッチンの方へ移動して中を覗き込むと、丁度彼がやかんを火にかけるところだった。それと同時に、私は軽く目を見張る。
調理道具や調味料等、キッチンの様子は彼が自炊するのを明確に物語っていた。
「絵の道具とかが、もっと乱雑に置かれている部屋を想像してたわ」
「玄関から入ってすぐ横の部屋はそうなってるよ」
「その部屋で絵を描いてるの?」
「うん。そこがアトリエ」
アトリエという音の響きが私の耳をくすぐった。
「へー」
「画材とか画集とか、絵に関するものは全部そこに置いてる」
やかんをじっと見詰めて、時折こちらに笑顔を見せながらアトリエの話をする八木。私はそんな彼を、適度に相槌を打ちながら静かに眺める。
彼はどんな絵を描くのだろうか。
絵を見てみたいと私が言えば、彼はきっと見せてくれるだろう。だが、つい先月に行ったギャラリーでのことを思い出し、軽々しく言う気にはなれなかった。彼が心血を注いでいるものを、単なる軽い気持ちで見せてもらってはいけないと思ったのだ。
私がこんな殊勝なことを考えるに至った理由は、もちろん自分でもよくわかっている。
――――もしも将来彼に才能の芽が出て、大きく開花するようなことが起こったとしたら。
将来性に期待して彼と付き合うと決めた発端を思い返すと、私はどうにも後ろめたい気持ちになるのだった。この気持ちは、これからしばらくは尾のように自分に付いて回るだろう。
やかんのお湯が沸き、食器棚から取り出したマグカップにコーヒーを淹れて居間に移動する。ようやく部屋が暖まり始めたので、私はコートを脱いだ。
自分と八木しかいない空間で、二人掛けのソファーに並んで座ると、彼との距離の近さに思わず息を呑んだ。半分忘れていたクリスマスイブでのことが甦る。
触れているわけでもないのに彼の体温を感じるような気がして、私はソワソワと落ち着かない気持ちになるのだった。




