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哀れな堕天使  作者: 弘美
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 駅の看板の前で待ち合わせをしていた相手は八木(やぎ)だ。

 結論から言うと、私は八木と付き合うことにしたのだった。

 私が駅に着いて数分後に彼は私の前に姿を現し、その後私達は近くのファミレスに入った。

 クリスマスイブの夜のファミレスはさすがに混んでいて、二組の客が席が()くのを待っていた。私達もその後に並び、十五分程の待ち時間で席に座ることが出来た。

 店員を呼び、二人でハンバーグセットを注文する。

 一緒にいる相手が八木だというだけで、たったこれだけのことが、まるで初めての経験のように気分は高揚(こうよう)した。

 二人で居酒屋以外の店で食事をするのは初めてだったせいか、微妙な緊張感が(ただよ)って、どこかお互いにぎこちなかった。

 だが、それは最初だけだ。少しずつ緊張の糸は(ゆる)んでいき、ハンバーグを食べ終える頃には肩の力は抜け、ようやくいつもの雰囲気(ふんいき)が戻っていた。

「はい、クリスマスプレゼント」

 セットのコーヒーを(すす)っていた私の目の前に、綺麗に包装(ほうそう)された小さな包みが置かれる。

「えっ」

 驚いて顔を上げると、八木はにっこりと笑った。

「最初のクリスマスだからさ。やっぱりここはちゃんとしないとね」

 彼と電話で話してから会うのは今日が初めてだった。それくらい交際が始まってまだ日が浅いのだからと、クリスマスプレゼントはどうするべきか迷ったのだが、結局私は用意しなかった。プレゼントを何にするか、考える時間も選んでいる時間もなかったのだ。

「ごめんなさい。私、準備してなかったわ」

「あぁ、相田(あいだ)さんはいいの。全然気にしないでいいよ」

「ありがとう、嬉しい。開けてもいい?」

「もちろん」

 (やぶ)れないように慎重に包装紙を開けると、プラスチックのケースが出てきた。その中には、薔薇(ばら)の花を(かたど)った銀のブローチが収まっている。

「わぁー。なんか、素敵」

 薔薇のデザインを選ぶところが、どことなく八木らしさを感じられ、私は嬉しくなった。

「あまり高価なものじゃないけど」

「ううん、嬉しい。ありがとう」

「どういたしまして」

 八木はにっこりと微笑んだ。

 私はプレゼントを再び包装紙で包み直し、バッグの中にしまった。

「ねぇ、やっぱり私も何かプレゼントしたいわ」

「別に気にしなくてもいいのに」

「ううん、ダメよ。ね、何がいい?」

 男は何を貰ったら喜ぶのか、どういうものがいいのか、私には見当もつかなかった。どうせなら彼が望む物をプレゼントしたい。

 彼は考えるように首を(かし)げたが、思い浮かばなかったようだ。

「考えとくよ」

 そう言い、彼は携帯の時計に目を落とす。

「ねぇ、この後どうしよっか」

「なんにも考えてないわ」

「それなら、ちょっとだけ飲みに行こうよ」

 コーヒーを(から)にしてから二人でファミレスを出た。

 外は(こま)かい雪がチラチラと降っている。

 隣に並んで歩き、ごく自然に右手が八木の(てのひら)に収まった。彼の手指(しゅし)感触(かんしょく)と体温が肌を通して伝わる。

 思えば、彼と()れあったのはこれが初めてだ。

 掌の固さや大きさ等、今まであまり意識していなかった彼の男性的な部分に、私の心臓は飛び跳ねた。

 自分の中で何かが、ぽわん、と浮かんでいく。久し振りの感覚だ。

 だが、すぐにその感覚から無理やり他へ気を()らす。そうしないと、なんとか自分の中で保てているものが、砂山のようにあっけなく(くず)れていくような気がしたからだ。

 それを保っていることで、彼にのめり込んでいかずに、引き返したくなったらいつでも引き返せる。傷は最小限にとどめて、他の男に目を向けることが出来る。その為には、今は冷静でいるべき。そう思ったのだ。

 悩みに悩んで彼と付き合うと自分で決めたくせに、この()に及んで私はまだそんなことを考えていたのだ。

 だが、私のその思惑(おもわく)容易(たやす)霧散(むさん)する。飲んだ後、アパートの前まで送ってもらった時のことだ。

 別れ(ぎわ)、ほんの一瞬唇にちょん、と柔らかいものが触れる。不意打ちだった。

 思わず小さく息を呑んだが、人生で初めての時ほどの驚きはなかった。男性経験は初めてではない。もう自分は以前のような何も知らない女ではない。

 夜のせいか、逆光になって八木の表情はよく見えなかった。

 唇が離れても、顔に息がかかるくらいの近い距離に彼の顔があり、段々と自分の顔が熱くなっていく。何故か私自身も身動きしないまま、彼の目を見詰めていた。

 もう一度彼の顔が迫ってきそうな気配を(さっ)すると、ハッと我に返り、私は(あわ)てて声をあげた。

「八木さん、あの、ここ外だから……」

「あ、あぁ、そっか。そうだよね」

 八木は素直に身を引いた。

「ふふふっ。じゃあまた。プレゼント考えておいてね」

 私はわざと明るく声を出す。

「わかった。また連絡するよ」

 彼はそう言い、小さく笑みを浮かべた。

 彼と別れ、アパートの部屋に入る。玄関の鍵をかけると、一気に身体から力が抜けていった。どくどくと(ひそ)かに波打っていた胸を押さえる。

 つい最近まで友達だと思っていた男に、今日一日だけで手を(にぎ)られ、キスをされたのだ。付き合うということは、こういうことが起こるということだ。当然、自分ではそんなことくらいわかっているつもりだった。

 だが、キスをされたことで、はっきりと気づいたことがある。

 付き合うと決めてからも、私の中では八木はまだ男友達のままだったのだ。

 やはり彼との将来は無いと思った時に、付き合う前の関係に戻れたらと、私は都合のいいことを考えていたのだ。

 だが、今はもう違う。唇が触れたことで、彼はもう自分にとって完全に男友達ではなくなった。

 ――――男と女の間に友情は成立しないのよ。

 紗英(さえ)が言っていた言葉を思い出した。ただ一度の軽く触れたキスで、この言葉の意味を私は(みょう)に納得したのだった。

 彼は健康な大人の男なのだから、このまま付き合っていればそのうち彼との関係は更に先へと進んでいくだろう。

 でも、私はそれを特に嫌だと思っていない。今も波打つ鼓動(こどう)は止まらず、驚くことに、次に期待している自分がいる。

 私は八木のことを、一人の男として本当に好きになっていた。陥落(かんらく)させられたのだ。




 それから一週間が()ち、世間は年末年始に入る。

 その頃には自分の気持ちに迷いは無くなっていた。

 気持ちに余裕を持てるようになり、私は紗英に電話で八木との付き合いが始まったことを話した。受話器から「おめでとう。よかったねー」と彼女の楽しげな声が流れた。

「うふふ。それで、初めてのクリスマスデートはどうだった?」

「平日で次の日も二人とも仕事だったから、食事してちょっとお酒飲んで帰ったわよ」

「キスした?」

 いきなりの突拍子(とっぴょうし)もない質問に、思わず絶句する。同時に、以前にも同じことを訊かれたのを思い出した。

「紗英ちゃんって、そういう話好きなんだね」

「うふふ。だって、こういう話って楽しいじゃない」

悪趣味(あくしゅみ)だわ」

「そんなことないわよぉ。多くの女性はこういう話は絶対好きよ」

 そうは言うが、紗英本人の話を私は聞いたことが無い。当然私からも訊かないし、訊こうとも思わない。

 だが、実は大学時代に機会があり、つい好奇心から彼女に同じようなことを一度だけ訊いてみたことがある。結果、うまくはぐらかされたのを今でも覚えている。

 このことからして、彼女の場合、自分の話はしないけど、他人の話を聞くのは楽しい。というのが、おそらく正解だ。これを悪趣味と言わずして何だろう。

「そういえば、紗英ちゃんの言ってたことって本当ね」

「なんのこと?」

「男と女の間に友情は成立しないって言ってたでしょ」

「あーあれね」

「最初はそんなことないと思ってたんだけどねー」

 紗英とその話をしたのは、八木に好みのタイプだと言われた後、金欠で飲みに行くのを(ひか)えるようになった頃だ。

「うふふ。多分ね、最初は友達でも、ちょっとしたきっかけでスイッチが入っちゃったりするのよ」

「スイッチ……」

 受話器から聞こえた「スイッチ」という単語に反応し、(おの)ずと(つぶや)くように声が出ていた。

 この前のクリスマスデートの帰りに起こったことを思い出す。

「そーそー。どっちか片方にスイッチが入ったら、その時点で友情はおしまい」

 自分の場合はキスがスイッチかと考え、羞恥(しゅうち)(おそ)う。だが、これ以上に見事にピタリとはまる表現は、他に無いのではないだろうか。

「だけど、絵里(えり)の場合は最初から友情なんか無かったでしょう?」

「なんで」

「なんでって、出会いは合コンだもの。前にも言ったじゃない。彼は最初からそのつもりよって」

 つまり、友達のつもりでいたのは私だけで、八木は違った。だから、最初からそこに友情は成立していなかったということか。

 だが、ずっと友達のつもりでいた私にとって、キスがスイッチになったのは間違いない。

 そして、そういう話をした彼女だからこそ、彼女は何て答えるのか、私は(たず)ねてみたくなった。

「ねぇ、紗英ちゃん。例えばだけど、元々友達だった彼氏と別れたとして、また友達に戻れると思う?」

 少しの沈黙の後、「うーん」と考えるような声が聞こえた。

「それは相手の男にもよるし、人それぞれだと思うけど」

「……ふふっ。まぁそうよね」

 心の中で少々落胆する。彼女なら、私が思いもしなかったことを言うのではないかと期待していたのだ。

 そんな私をよそに、彼女はこう続けた。

「私なら無いな。戻れないというよりも、戻らないわ。だって、戻る意味ある?」

 紗英の最後の言葉の意味がわからなかった。

「意味あるかどうかとか、そういうことじゃないでしょ」

「だって、友達に戻ったとしても、彼に新しい彼女ができたら、どっちみち終わるわよ」

 思考(しこう)が止まり、返す言葉が出てこない。

 ある意味、彼女はやはり私の期待に(こた)えてくれたわけだが、それは私にとって聞きたくないことだったのだ。

「新しい彼女にとって、こっちは元カノなんだから。自分の彼氏と関係の切れてない元カノってどう思う?」

「…………邪魔(じゃま)だわ」

「でしょう? ちゃんと新しい彼女を大切にする男なら、元カノとの関係はそこできれいさっぱり切るわよ。だからね、そういう意味でも、やっぱり男との友情は続かないものだと思うのよねぇ」

 正直、そこまで考えてなかった。

 自分も、八木に女友達がいないことが、彼との付き合いを考えてみる理由になった。それなのに、こともあろうに自分がその立場になるのかもしれないことに初めて気づき、やり場のない苛立ちに思わず荒い吐息が()れたのだった。


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