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クリスマスが近づくにつれて、街は徐々に彩り豊かに華やぎを添えていった。
職場の店の前も同様に、道路の脇に植えられている幹と枝が剥き出しになった街路樹や、建ち並んでいるビルと店は白と青のイルミネーションで綺麗に装飾されて、夜になると周辺は幻想的な雰囲気で満ち溢れる。
そこを闊歩する人々も、寒さなど何処かへ吹き飛んだかのようにイルミネーションの灯りにキラキラと顔を綻ばせ、いつもよりも人通りが激しい。どこもかしこもクリスマス仕様だ。
イルミネーションの灯りは駅前から職場の店を通り越して、道なりに遠くまで延びている。その為、仕事帰りはその中を駅まで歩くことになる。イルミネーションは私の目をふんわりと和ませて、仕事の後の疲労感を和らげてくれた。
八木への返事はまだしていない。「近いうち」と言ったからにはそろそろ答えを出さなければいけないと思うのだが、ここまできても尚、私は煮えきらずにいたのだった。
そんなある日の夜、職場を出てイルミネーションの中を駅へ向かって歩いていると、突然見知らぬ人に何かを手渡された。
「お願いしまーす」
その一言と共に渡されたのは一枚のチラシだった。
人通りの多い場所でよくあるチラシ配りだ。時にはポケットティッシュを配っていることもあるが、その裏面には広告や宣伝のチラシが折り畳まれて入っていたりする。
わかっていても、毎回毎回つい受け取ろうと条件反射で手が動く。いつもならろくに見もせずティッシュはバッグに入れ、チラシは適当に折り畳んでどこかのゴミ箱に捨てるのだが、たまたま目に入った「画家」という文字に、私は折り畳もうとする手を止めた。
「新進気鋭の油絵画家……」
その下には、聞いたこともない男の名前がチラシに大きく書かれている。
もちろんそれは私が知らないだけで、絵を本業とする人達の間では有名な人なのかもしれない。
この画家の個展が近くのギャラリーで開かれているらしい。チラシはその集客の為に配られているのだろう。個展会場となるギャラリーは、イルミネーションの通りから少しはずれた所にあるようだ。チラシには夜七時半閉館とある。今は七時を過ぎているが、まだ間に合いそうだ。
私は駅へ向かう足を別の方向へ向けた。
もしかしたらそこに八木がいるのではないかと期待したわけではなく、私が会場へ向かったのは、只の興味本位だった。
ギャラリーは歩いて五分もしない場所にあった。イルミネーションの通りとは違い、辺りは灯りが少なく人通りはまばらだ。
軽い気持ちで来てみたはいいものの、いざギャラリーの前まで来ると途端に気おくれして、私は一旦そのまま通り過ぎた。
今の自分をもし紗英が見ていたら、「何やってるのよ」と呆れ顔で言うに違いない。
そんな紗英の顔を思い浮かべて、私はくるりと振り返り深呼吸をすると、今度こそギャラリーの重い扉を開いたのだった。
明るく柔らかな照明が照らす中、白い壁に広い間隔をあけて油絵が展示されていた。入ってすぐの空間には五枚の油絵が展示されており、奥の方に行けば作品はまだまだありそうだ。
五枚の油絵はどれも風景画だった。私はそれらを一つ一つ眺めた後、即座にギャラリーを出た。
閉館時間が迫っていて人が少なかったせいもあるが、カチッとしたパンツスーツを着た女性スタッフが遠くから見守るように立っていて、なんとなく落ち着いて見てまわる気持ちにはなれなかったからだ。
更に理由はこれだけではない。
展示されていた五枚の風景画のうち、二枚の絵の下に「売約済み」と書かれた札が貼り付けられていた。個展というものは作品を展示するだけではないのだということに、私はここで初めて気付いたのだった。
売約済みになっていない絵は下に値段が小さく書かれており、そのどれもが自分には容易に手が出せる額ではなかったのだ。
こうして八木が身を置く世界を、私は目と肌で直に感じたわけだが、私が真っ先に考えたのは八木の将来の可能性についてだ。
八木もバイト先の画廊に自分の作品を置かせてもらっていると言ってなかったか。
とは言っても、もちろん簡単に売れるような生易しい世界ではないだろう。
八木は自分自身のことを、まだ駆け出しでバイトをしないと油絵だけでは食べていけないとも言っていた。
そんな彼のいつ出るのかわからない才能の芽を待つよりも、他の男に目を向けた方が、よほど自分が望む幸福な人生を手に入れることが出来るのではないだろうか。
そうわかっていても、胸の中の天秤は徐々に大きく傾いていった。
彼が描いた油絵を見せてもらったことはない。もちろん素人の自分が見たところで才能の有無などわからない。
だが、もしも将来彼の努力が実を結んだとしたら。もしも将来彼に才能の芽が出て、大きく開花するようなことが起こったとしたら。その時、私は何故あの時素直に彼の胸に飛び込まなかったのかと、唇を強く噛みしめることになるのではないだろうか。
天秤は更に傾斜を増していく。それでも最後にもう一つの重しが必要だった。
そもそも私が結婚を考えていた河村と別れることになったのは、他の女の存在が始まりだった。
その後色々あった結果、女友達がいる男とだけは付き合うまい。そう心に決めたからこそ、あの日の夜、私は八木に自分以外に親しい女はいるかと尋ねたのだ。
私は足を止め、バッグから携帯を取り出した。目的の番号を検索して発信ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし、相田です。今から会えませんか」
クリスマスイブの今日、店はクリスマスケーキを買い求める客が引っ切り無しに押し寄せている。クリスマスケーキは順調に売れていき、全部売り切った時には売り場は達成感に包まれた。
仕事が終わり、心地よい疲労と共に店の裏口から出て、私はイルミネーションの中を駅へ向かって歩く。
幾つものカップルとすれ違う。皆寄り添うようにして歩いていたり、腕を組んでいたり手を繋いでいたりして、幸せそうだ。
私は首もとのマフラーに手を掛けて顔を埋めるようにし、先を急いだ。
先日、ギャラリーを出た後に電話した相手は八木だ。だがあの日、結局彼とは会えなかった。
「ごめん。急な仕事が入って、今日はどうしても無理なんだ」
「あー……そうなんだ。じゃあ、明日は」
「明日もキツいかな」
「そ、そうなんだ……」
肩透かしを食らい、私はそのまま言葉を失った。
「ごめん。仕上げなきゃいけない絵があって。……もしかして返事をしてくれるつもりだった?」
後半の彼の声が心持ち優しい声音になった。
「……うん」
「なら、今聞かせて」
「今?」
「うん。今」
少ないとはいえ、人通りのある路上で自分の気持ちを口にするのは躊躇いがあった。
せめて、人がいない場所へ移動してからと思ったが、それでは忙しそうな彼を待たせることになるだろう。
歩きながら、その時のなんとも言いがたい面映ゆい感情を思い出していると、すれ違いざまに人とぶつかりそうになり、我に返る。俯くようにして私は更にマフラーに顔を埋めた。
駅前に着き、大きな看板を背にして佇む。目の前を通り過ぎていく人々を眺めながら、私はこの後の事に思考を巡らせた。




