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哀れな堕天使  作者: 弘美
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 ハイボールを飲んだのは初めてのことだった。

 八木(やぎ)に釣られる形で勢いで頼んだハイボールは、嫌いな味ではなく、その後二杯目、三杯目と私の喉を通っていった。

 後で調べてみると、ハイボールはウイスキーをソーダ水で割った飲み物らしい。ほんのりと優しく口の中を染め上げた、いかにもアルコールっぽいウイスキーの味は、不思議と自分の中でそのまま八木のイメージと重なった。

 彼は交際の申し込みをしたことなど忘れたかのように、いつもの調子で喋り始めた。私もそれに合わせて笑ったり、時々相槌を打ったりするのだが、どこか落ち着かない、こそばゆい空気が二人を包み込んでいたのだった。

 これに堪えきれず、この日、私にしては結構な量のグラスを空け、久し振りに酔った。

 酔ったのは半分は勢いで、もう半分は故意だ。酔うことで、どうにかこの場から妙な空気を追い払うことが出来ないものかと思ったのだ。

「大丈夫?」

 八木が気遣わしげな表情で私の様子を窺う。

「ふふふ。全然大丈夫よ。それに、今日は飲むって決めたんだから」

 私はすっかりお酒が回り、気分が良くなっていた。面白いことを言ったわけでもないのに、何故か笑いが何度も私の口から漏れ出す。

 酔うと笑い上戸になる人がいるというが、丁度今の自分みたいな感じがそうなのだろうか。

「やっといつもの喋りに戻ってきた」

「ふふふ。自分でも、やっと(ほぐ)れてきた感じがするわ」

 首の()りを解すように、コキコキと首を左右に振る。

 そんな私を少しの間観察して、口元に微かに笑みを浮かべながら、ねだるように「ねぇ」と彼は言葉を紡いだ。

「さっきの返事を聞きたいんだけど」

 やっぱり来たか。と酔いの回る頭で素早く思考を巡らせる。

「その前に一つだけ訊いていいかしら」

「うん。何?」

「私以外に親しい女の人は、いる?」

 私を見ている八木の視線を避けて、私は伏し目がちに下を向いた。

 少しの沈黙の後、「いないよ」と彼のはっきりとした声が隣から聞こえた。

「そう……」

 私は顔を上げてハイボールで喉を潤す。

 彼の返答は、私にとってひとまず満足できるものだった。

「……少し、考えたい。いい?」

「じゃあ、いつ返事くれる?」

「近いうち」

「近いうち、か」

 八木は小さく笑いながら、ハイボール入りのグラスを傾けた。

 彼の喉仏が上下に動くのをぼんやりと眺める。

「もしかして、気分悪くしたかしら」

「全然。待つくらいどうってことないさ」

「それじゃなくて、さっきの質問」

 再びグラスを傾けようとした彼の手が止まる。

「別に気にしてないよ」

「本当?」

「うん」

「よかった」

 それから程なくして、これ以上飲んで記憶を失わないうちに、店を出ることにした。

「ご馳走さまでした」

「いえいえ。今日はいつもよりも酔ってるみたいだから、家まで送ってあげるよ」

「いつものとこまでで大丈夫よ」

「ダメ。俺が心配だから」

「いいの?じゃあ、お言葉に甘えるわ」

 二人で喋りながら並んで歩き、時々横にいる八木を見上げて横顔をじっと見る。笑わなければ少し神経質そうにも見える彼の顔立ちは、嫌いではない。

 夜の冷気にあたっているうちに多少酔いが覚めたせいか、様々なことを天秤にかけながら、私は本格的に彼のことを考え始めていた。




「うふふ。やっぱりねぇ」

 電話の向こうの紗英(さえ)の声は、興奮を抑えきれないといった具合に上擦っている。

「それで、どうするのか決めた?」

「……まだ」

「どうして」

「どうしても」

「わからないわ。好きならイエス、好きじゃないならノー。これだけのことよ?」

「そんな簡単に言わないでよ」

「じゃあ、一体何を悩んでるの」

 話しているのは、もちろん昨夜の居酒屋での出来事だ。

 私は胸の内にあるものを彼女に言うべきかどうか少し考え、率直に口にすることにした。

「私ね、三十までには結婚したいと思ってるの。それには、今のうちから結婚を考えられる男としか付き合いたくないのよ」

 紗英は少し間をあけてから、考えるように「ふ~ん」と長く相槌を打った。

 だが、彼女は今の説明ではよく理解出来なかったようだ。

「それで? 何が悩みなの」

「だから、付き合おうよって言われた瞬間、それを考えちゃったのよ」

 河村のように歳上で頼りになる、将来性のある男と結婚することが自分にとっての幸福であり、私にはまだまだそれに(こだわ)る権利があるはずだ。

「で、考えた結果どう思ったの」

「……ちょっと違うかなって」

「じゃあ、断るの?」

 この問いに私は答えることが出来なかった。

 受話器から紗英のため息をつく音が聞こえた。

「あんまり考えすぎない方がいいわよぉ。ていうか、答えはもう出てるんじゃないかしら」

「そんなこと……」

「だって、断るの? って訊かれて答えられなかったのが答えよ。それはきっともう好きになってるのよ」

 彼女の強引な解釈を否定する気は無い。たしかに私は八木を好きなのだと思う。だが、彼と付き合うということは、自分が想い描いている幸せな将来をそれだけ遠ざけることになりはしないか。

「結婚なんて後からついてくるものなのに、今から深刻になっててどうするのよぉ」

「紗英ちゃんはそれでいいわよ。でも、特に美人でもなく可愛くもなく何か特技があるわけでもない私みたいな平凡な女は、のほほんとしていられないの。いい人と結婚する為には、行動は早いに越したことは無いわ」

 そして、最後にこう付け加えた。

「男はいい男から売れていくものなのよ」

 言ってから、今の自分の言い方が小島正子(こじままさこ)にそっくりなことに気付き、私は軽く咳払いをした。

 そんな私をよそに、「でもさぁ」と紗英は口を開く。

「元彼とは結婚を考えていたんでしょう? 女のことが無かったらよっぽどいい人だったってことよねぇ」

 彼女は一人で納得するように呟いた。

 元彼とは、言わずと知れた河村(かわむら)のことだ。

 突然河村が話題に(のぼ)ったことで、私は少し身構える。

「ねぇ絵里。まさか、元彼が忘れられないとかじゃないでしょうね」

「大丈夫よ。河村さんとのことは私の中ではもう終わってるから」

「それならいいけど」

「私は只、いい人と結婚して幸せになりたいだけ。だから、次に付き合う人も結婚してもいいと思えるくらいの人じゃなきゃ、嫌なのよ」

 河村と別れてから、それを目標にしてずっと努力してきたのだ。だが、呪文のように同じことを何度言っても、結局八木は八木でしかない。まるで出口の見つからない迷路に迷いこんでいる気分だ。

 そう思ったが、すぐに、いや。と思い直す。

 出口が見つからないのではなく、ちゃんと用意されている出口を、わざと自分で避けているという方がおそらく正しい。出口を避けて、同じところを何度もぐるぐると這いまわっている。そんな自分の姿を想像すると、思わず反吐(へど)が出そうになった。

 紗英は電話の向こうで一つ大きなため息をついた。

「そういえば私達も来年には二十五だものねぇ。結婚ねぇ」

「紗英ちゃんは結婚は?」

「私? 今のところ今の彼とは無いわ。絵里とこういう話をするまで全然考えたこと無かったもの」

「ふ~ん」

 そう言われてみると、自分も小島正子から結婚に関する持論を聞かされるまで、結婚のことなど微塵(みじん)も考えたことが無かったことに思い当たる。

「絵里が元彼と結婚を考えてたって言った時は、たしかにびっくりしたけど、よく考えたら男と付き合ってれば、いずれ当たり前に考えることよねぇ」

「ふふふ。東京にいるんだし、紗英ちゃんならいつ結婚してもおかしくないわ」

「うふふ。まだ予定は無いけど、もしそうなったらその時は結婚式に呼ぶから絶対来てね」




 数日後の夜、職場の忘年会が開かれた。場所は少々格式のある日本料理屋で、(ふすま)で個室になるように仕切られている。

 とは言っても、店長、主任、その他の社員とパートを合わせて八名という、こぢんまりとしたもので堅苦しいものではない。

 今年の忘年会は、新しく入ったパートである菊池多江(きくちたえ)の歓迎会も兼ねている。

 入ってからまだ一月と経っていないが、彼女は無駄口をたたかず黙々と仕事をこなし、その真面目な仕事ぶりから他の社員から温かく受け入れられているようだ。もちろん私も例外ではないのだが、歳が離れているせいか、彼女とはまだ挨拶程度にしか話したことがなかった。

 彼女は恐縮そうにテーブルの端の席に座り、小さくなりながら周りの話の輪に入っている。

 私自身もそれに加わりながら、コースのように順番に運ばれてくる海鮮料理でお腹を膨らませ、忘年会は二時間程でお開きとなった。

 店の前で解散し、それぞれ同じ方向の人と一緒に別れ、私は菊池多江と途中まで二人で歩くことになった。

「菊池さんも家はこっちの方なんですか」

「いえ、こっちではないんですけど、実家がこっちの方なんです」

「あ、実家ですか」

「ちょっと子供を親に預けてきてたもので。迎えに行ってから帰ろうかと」

 今の一言で彼女の生活が呑み込めたような気がして、ちらりと彼女に視線を移す。

「菊池さんてお子さんがいるんですか」

「はい。四歳の男の子が一人」

「へぇー」

 彼女はパートが終わる時間になるといつもいそいそと帰っていく。理由など気にしたことも無かったが、小さな子供がいると聞いて納得した。よく考えてみると、おそらく三十代前半だろう彼女に、一人くらい子供がいてもおかしくはない。

 歩きながら横で子供の話をする彼女の顔は、全ての(かたく)ななものを一気に溶かすような、それはそれは幸せそうな母親の顔をしていたのが印象的だった。

 後日、他の社員から彼女が最近離婚していたことを偶然耳にし、私は心の底から彼女を気の毒に思ったのだった。


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