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依然として八木からの着信は来ない。
だが、よくよく考えてみると、親友の紗英とでさえ、そこまで頻繁に電話することは無い。彼からの電話がいつまでも来ないからといって、気を揉む必要は何ら無いのだ。友達だと思っているのなら、気軽にこちらから電話してみればいいのではないか。
私はそう自分の考えを改めさせ、彼の携帯番号を検索してあとは発信ボタンを押すだけというところまでいくのだが、何故かここで躊躇してしまうのだ。結局発信ボタンを押せないまま時間だけが過ぎていく。これを数度繰り返し、やっと電話で彼と話すことが出来たのは、更に一週間経った日のことだった。彼と会わなくなってから三週間程経過したことになる。
「相田です。お久し振りです」
日にちが開いたせいか、なんとなく固い口調になった。
「久し振り。ごめん、電話しようと思ってたんだけど、仕事でしそびれてた」
仕事でという部分に思わず安堵する。
「ああ、そうだったんですね。そろそろ飲みにでもどうかと思ったんだけど、忙しいなら」
「いやいや、大丈夫。行こうよ」
「え、いいんですか?」
「うん。丁度、一段落したとこなんだ。今仕事帰り?」
こちらの方から誘ったのにも拘わらず、八木のペースで話が進み、三十分後には居酒屋のカウンター席に二人並んで座っていた。カウンターの上には、既に幾つか頼んだ一品料理と二人分のグラスが置かれている。
それにしても、ずっと長く大事に着てそうに見える彼の服装は相変わらずだ。
「最近、ずっと忙しかったんですか?」
「うん、まぁ色々とね。それよりも、さっきからなんで敬語なの。そんな喋り方じゃなかったでしょ」
透明な色をしたカクテルが注がれているグラスを片手に、八木は邪気の無い笑顔でつっこんでくる。全く嫌味を感じさせない彼の指摘に、私も笑顔で答えた。
「ふふふ。なんでかわかんないけど敬語が出てきちゃって。多分、飲んでるうちに元に戻りますから」
「じゃあ、今日は俺の奢りだから、好きなだけ飲んでよ」
「え、どうしたんですか八木さん。珍しい」
「バイト代が入ったから」
「バイト? 絵を描きながらバイトもしてるんですか」
「そりゃあね。まだ駆け出しだから絵だけでは全然食べていけないよ」
当たり前のことのように、彼は涼しい顔で言う。
「まぁやっぱりそうですよね」
「画廊をやってる知り合いがいてね。その人の仕事を手伝ってるんだ。そこで自分の作品も置かせてもらってるんだよ。ちゃんとバイト代を出してくれて作品も置いてくれるなんて、中々いいとこだろ?」
私はよくわからないながらも、あいまいに頷いた。
八木が志しているのは、おそらく私が想像する以上に厳しい世界なのだろうということだけはなんとなくわかる。同時に、どこにでもいるような只の菓子店の販売員である自分の目には、なんとも敷居の高い独特な世界にうつるのだった。
「八木さんて、意外とちゃんとしてるんですね」
「あはは。俺のことどんな男だと思ってたの」
私の失礼な発言に気分を害した様子もなく彼は屈託なく笑う。
「でも、奢りだなんて本当にいいんですか?」
いくらバイト代が入ったからと言われても、彼に奢ってもらうのはさすがに悪いような気がした。
「いいのいいの。大丈夫だから」
それよりもさ。と八木は白い歯を覗かせる。
「まさか相田さんの方から電話してくれるとは思わなかったよ」
「一週間経っても八木さんから電話こないから、どうしたのかなって思ってたんですよ」
「あ、なんか心配させてたのかな俺」
「そういうわけではないですけど」
梅酒サワーを一口飲む。炭酸の柔らかい刺激と芳醇な梅酒の香りが口内に広がった。家で一人で飲むくらい日本酒にはまっていたのが、自分でも気付かないうちに今は梅酒サワーが一番好きになっていた。
そんな自分の横で、言うかどうかを迷うように少し考えてから彼は口を開いた。
「つい電話しそびれてたのは、ああいう話をした次の日、飲みに誘って断られたから」
「ああいう話?」
八木に視線を向けると、彼は低い声で呟いた。
「俺の好きなタイプだっていう話」
ドクンと胸の鼓動が大きく波打つ。
彼の言葉は抑え気味に紡がれながらも、しっかりと私の耳に届いた。
私は思わず目を逸らして、彼の次の言葉を待った。
「あんな話をした後だったから、俺、てっきり避けられてるのかなって思ってさ。金銭的にきついからって言ってたけど、それってだいたい断りたい時によく使われる定番の口実だろ?」
思いもよらぬ誤解に、少々憤慨する。
「金銭的にっていうのは本当ですよ。連日飲みに行ってたから、さすがにちょっと」
「ふ~ん。そっか」
「そうですよ。あまりそんな――――」
「俺のこと、避けてたわけじゃないんだ」
――――変なふうに考えないで下さいよ。と続けようとしたところを八木の言葉によって遮られた。
隣にいる彼にちらりと視線を向けると、こちらを見ていた彼の視線とぶつかる。目が合うと、彼はにっこりと笑った。
「もう少しでクリスマスだね。イブの予定はあるの?」
唐突な話題の転換に面食らいつつも、心のどこかで安堵している自分がいた。
「クリスマスは仕事ですね」
「仕事だけ?」
「仕事だけというか、いつも通りですよ。うちの店は和菓子だけでなくケーキも扱っているので、クリスマスは絶対忙しくなりますから」
「そういえばお菓子屋さんで働いてるんだっけ」
彼の口から出てきた「お菓子屋さん」という言い回しに、ほんの少し心が和む。
「多分、仕事でぐったりして一日が終わるでしょうね」
「ふ~ん」
「その前に忘年会もあるし、あ~もう想像しただけで憂鬱になってきたわ」
「そっかぁ。それならせっかくのこの時期に彼氏作ってる暇なんて無さそうだね」
彼の言葉がずしりと重くのし掛かる。そんな暇があったとしても、今は出会いの切っ掛けすら無いのだ。
無意識に、先日届いた女友達の結婚報告メールを思い出した。更にそれが呼び水となって、物凄い勢いで自分の中に嫌な感情が溢れだす。
私はそれを抑え込むように、グラスに残っている梅酒サワーを一気に飲み込んだ。
八木からの着信を待つのをやめて、自分から電話をしてみようという気持ちになった理由は、実はここにある。つい一人で考え込んで嫌な感情に支配されてしまわないように、誰かと喋って飲んで、気を紛らわせて、出来ることなら思い出したくないことは全部忘れてしまいたかったのだ。
「いい飲みっぷり。いきなりどうしたの」
突然の一気飲みに八木は戸惑う素振りをしつつ、興味全開というように垂れ気味の目を大きくさせた。
「とにかく、今日は飲んで帰ろうと思って」
そう言い、次は何を頼もうかとメニュー表を手に取る。
彼はクスクスと笑った。
「よっぽど憂鬱なんだね」
「八木さんのクリスマスの予定はどうなんです?」
メニュー表に目を走らせながら尋ねた。
「俺? 俺もいつもと変わらないよ。だけど、イブの夜は空いてるんだよねー」
最後の方のいかにも思わせ振りな言い方につい反応し、メニュー表から目を離してちらりと横を見た。そこにいた彼の目は、ねっとりとした甘い熱を帯びている。
「そうですか」
再びメニュー表に視線を落とす。
精一杯平静を装うが、正直、次に何を頼むかどころではなかった。彼の誘うような目が残像となって眼裏に焼き付き、自分の脳内を占領している。
この状況をどう解釈すればよいのだろうか。八木からの決定的な言葉は無い。だが、今までのいきさつから、自分の勘違いであると決めつける理由も無いように思えた。
永遠とも思える無言の時間が流れ、ついに彼は決定的なその言葉を口にした。
「相田さん。俺と付き合おうよ」
それまでBGMのように聴き流していた周囲の客の話し声や笑い声が、すぅっと遠のいていった。
八木の絡みつく視線から逃れるように、メニュー表から目の前の料理に視線を移した。少しずつ摘まみながら彼と話していた為、どれも丸い皿の底が見えかけている。
無言のまま固まってしまった私をどう思ったのか、八木は落ち着かない様子でグラスを一気に呷り始めた。中身が無くなると、追加注文しようと彼は店員を呼んだ。
「ハイボール一つと軟骨揚げ一つ。相田さんはどうする?」
彼に訊かれ、一気に周囲の喧騒が復活する。
「あ、えっと、私もハイボールにします」




