15
河村の部屋に忍びこんだ時にゴミ箱から見つかったものは、こっそりと私の財布の中に入れてある。
彼を追及できなかったのは、そこに触れると私が無断で彼の部屋に入ったことにも触れなければならなくなるからだった。
それ故、私は黙殺することにした。
とにかく今は河村に嫌われたくなかった。彼と別れることなどもっての他だ。何故なら、彼との未来は私にとってこれ以上無い幸福のはずなのであり、もう少し時がたてば、きっと二人の将来について河村から話を切り出してくれるに違いないのだから。
だから、こんなことくらいで彼との結婚をふいにするわけにはいかないのだ。
だが、そんな思いもむなしく数日後、別れは唐突に訪れた。
「俺と別れてくれないか」
私のアパートで夕飯を食べ終わり、河村は静かな口調で口を切った。
私は食器を下げようとした手を止めて彼を眺めた。少々俯きかげんで彼の表情は固い。
「え?」
「だから、別れてくれないか」
束の間思考が停止する。彼の口から躊躇いなく出てきた別れの言葉に頭が真っ白になる。
「……どうして?」
今だって普通に笑い合いながら私の手料理を食べてたではないか。それが、何故急に別れ話をされなければならないのだ。
「ごめん。付き合ってみて、なんか違うって本当はずっと思ってたんだ」
自分の眉間にぎゅっとシワが寄っていくのがわかった。
「……今更どうしてなんですか?」
「ごめん」
わからない。一体何が違うのだ。もっとよくわかるように言ってくれないとわからない。何故今までずっと言わずに今言うのか。これは理不尽ではないか。
彼は溜め息をつき、私の視線から逃げるように顔を横に向けた。
「なんか違うと思うところもあったけど、絵里を好きだったのは嘘じゃないよ」
私は思わず黙る。
「でも、この前俺の携帯見てただろう?」
私はハッと顔を上げた。
「ごめんなさい、でもあれは――――」
その先の言葉が出てこない。
「あれは……何?」
今は何を言っても陳腐に聞こえるような気がした。
答えない私にしびれを切らしたように、彼は再び溜め息をつく。
「あの時、結局許したけど、本当は我慢してた。やっぱり俺、ああいうことをされるのは無理なんだ。あれがきっかけになったと思う」
我慢してることならこちらにもある。河村だって私に黙って合コンに参加して女と連絡先交換して二人で食事したり飲みに行ってたではないか。しかも、私はそれらを許したのだ。私が許したのだから、河村もそうするべきではないのか。
それだけではない。財布の中に忍ばせてあるものを目の前に叩き付けてやろうか。
「そういうことなんだ。だから、俺の家の合鍵を返して欲しいんだ」
彼はこの話に早々と幕を引こうとしている。面倒なことはさっさと終わらせたい。そんな彼の心が容易く見てとれた。
何か言いたいが、言葉が出てこない。何を言えば彼を引き止めることができるのか必死で頭を捻るが、結局私は震える手でバッグから合鍵を取り出し、彼に渡した。
「じゃあ、これで」
河村は立ち上がり、くるりと私に背を向けて玄関へ歩いていく。私は慌ててその背中を追いかけるが、途中で根が生えてしまったかのように足が止まってしまった。
行かないで。この一言が喉の奥に詰まってどうしても出てこない。
彼はそんな私を一度も振り返ることなく、あっさりと出て行った。玄関扉が無情な音をたてて閉まり、扉越しに聞こえる彼の足音は遠退いていく。
携帯を見たのがいけなかったのか。それなら私は一体どうすればよかったというのだ。河村が私に隠し事さえしなければ、私は携帯を見ることなど無かったのだ。
私はバッグの中の財布から一枚の紙切れを取り出した。それは河村の部屋のゴミ箱から出てきたラブホの領収書だった。誰と行ったのかはわからない。ゆき乃という女かもしれないし、そうじゃないかもしれない。だが、私とではないことだけは確かだ。
こんな紙切れを見つけたところで、何の役にも立たなかった。
私はその領収書を粉々に千切ってゴミ箱に捨てた。
翌日の朝。目が覚め、私はいつものようにパンとコーヒーで朝食を済ませて出勤する。そして、いつものように制服に着替えて淡々と仕事をこなしていく。
昨夜恋人と別れたばかりだというのに、思っていたよりも平然としている自分がいる。
男と付き合い、そして別れる。一人だった頃の自分に戻るだけ。よく考えてみれば、たったそれだけのことなのだ。
テレビドラマや恋愛映画で、よく振られた主人公が落ち込んだり取り乱したりする場面があるが、現実では意外とこんなものなのかもしれない。
その後も私は平静を保ちながら淡々と過ごしていたが、限界が訪れる。
河村と別れて一週間経った日の夜。布団の中で、何故か突然涙がとめどなく流れてきて止まらなかった。何度拭いても次から次へと涙は堰を切ったように溢れてきた。
彼と別れてからも、ひょっとしたら河村から連絡がくるかもしれないと、心の底で仄かな期待があった。電話の向こうで、きっと彼は照れくさそうにこめかみをぽりぽりと掻きながらこう言うのだ。
ごめん。やっぱり俺、絵里ともう一度やり直したい。
だが、待てども待てども河村からの着信は来ない。彼との関係は本当にもう終わりなのだという見えない責め苦は、日が経つごとに私の心をすり減らしていくようだった。
そして、翌日の朝。出社して朝の掃除や店の準備をしていると、小島正子は私の顔を見るなり、私の腕を引っ張り、まだ誰もいない休憩室へ連れてきた。
「あ、あの、小島さん?」
「ちょっとそこで待ってて」
よほど私の顔が酷かったのだろう。彼女は冷凍庫の氷をビニール袋に入れ、それをタオルでくるんで渡してきた。
「これを瞼に乗せて冷やしたら、すぐに腫れはひくと思うわ」
「……すいません」
私はそれを受け取り、瞼に押し当てた。熱を持っていた目のまわりが急激に冷やされていく。
化粧で誤魔化したつもりだったのだが、やはり隠しきれていなかったようだ。
「店長には私が上手く言っといてあげるから、腫れがひいたら戻ってきなよ」
そう言い、彼女は休憩室を出ていった。
私は絨毯の上に腰をおろし、氷を強く押し当てる。
「気持ちいい……」
小島正子の優しい気遣いが身にしみた。おそらく何かを察したのだろう。今は何も訊かずにいてくれることがありがたかった。
「それで、何があったの?」
小島正子は揚げ出し豆腐を箸でつつきながら尋ねた。
仕事の後、彼女から飲みに行こうと誘われたのだ。彼女に誘われた時点で、色々訊かれるのを容易く予想できたのだが、私は抵抗なく了承したのだった。
女性二人でも入りやすい小さな居酒屋で、私は今彼女と向かい合わせでテーブル席に座っている。
周囲のテーブルも程よく客で埋まっており、客の話し声と笑い声が入り混じる中、彼女の問いは私の耳に嫌に大きく響いた。
やはり目を腫らせていた理由を彼女が放って置くわけがなかったのだ。
「あの……実は、別れてしまいまして……」
「彼と?」
「はい」
「いつ?」
「先週です」
彼女はビールを一口飲む。
「もしかして、やっぱり女がいたの?」
ゆき乃という女とラブホの領収書が頭の中に甦る。
「まぁ……はい」
「そっか……そうよねぇ。やっぱり女にだらしない男なんて、やめて正解よ。振ってよかったのよ」
「あ、いえ、あの、私が振られたんです」
彼女は顔を上げる。
「え?」
「私が、振られたんです」
二人の間に沈黙が流れる。
私はビールを喉に流し込んで、重い口を開いた。
「話せば長くなるんですけど」
「うん」
私は河村の携帯をこっそり見たことからあの日の別れ話の一部始終まで、全て話した。だが、尾行していたことと河村の部屋に無断で入ったことは、やはりどうしても言えなかった。
小島正子は呆れたように、ふんっと鼻で笑う。
「携帯を見られるのは無理。って、自分は隠れて合コンに行っといて何言ってるんだか。しかも、合コンで会った女と連絡先まで交換するなんてさぁ。一体どの口が言ってるのよ」
そう言い、彼女は手を上げて店員を呼ぶ。
「生一つと、枝豆下さい。相田さんは?」
「あっ、じゃあ梅酒サワーで」
学生のアルバイトらしき若い女の店員は、愛想のよい笑顔を浮かべて手際よく注文をとり、厨房へ去って行った。
何気無くその様子を目で追いかけながら、空になりかけのビールジョッキを傾ける。
「丸谷と会うって嘘ついて、きっとゆき乃っていう女と会ってたのね」
徐に口を開いた小島正子の言葉に思わずハッとした。
よく考えてみると、河村が隠していることを知りたくて尾行までしたのに、何故彼女に言われるまでそのことを考えなかったのだろう。
いつのまにか私の関心事は彼とゆき乃の関係と、ラブホの領収書に変わっていたのだ。
今年に入ってから彼が丸谷と二人で飲みに行くことが増えたのも、飲みに行くと言いながらきっと合コンに行っていたのだろう。
河村の存在が当たり前のものになり、結婚を考えていたのに思惑がはずれたことが腹立たしい。自分は今二十四だ。まだ急ぐこともないが、呑気にもしていられない。
いい男はそうゴロゴロと転がっているわけではないのだ。