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尾行。この言葉に私の心はどうしようもなく揺さぶられた。直接河村に問いただすことは自分には出来そうも無いが、これなら出来るような気がした。しかも、河村の気分を害することなく、自分一人の行動で済むのだ。
「いやいやいや、ごめん、今のは忘れて! さすがに尾行は私もしたことないわ!」
電話の向こうの紗英は、思わず口が滑ったとでも言うように、すぐさま自らの言葉を取り消した。
「え、ないの?」
「ないわよ~。尾行って一歩間違えればストーカーでしょ」
「ちょっと彼の行動を確かめるくらいなら、ストーカーにはならないんじゃない?」
紗英は少し黙った後、抑え気味に声を発する。
「絵里、まさかあなたやるつもり?」
「な、何言ってるのよ。やらないわよ」
私の口から咄嗟に否定の言葉が出た。そうしないと、彼女と自分の間にある友情の糸が綻んでしまいそうな気がしたからだ。
「自分の彼の行動を確かめるだけならいいんじゃないかと思っただけ」
「ん~、そう言われればそうかも。ねぇ、絵里としては、やっぱり女の存在を疑ってるの?」
「なんで?」
「なんとなく。まぁいいけど。絵里は恋愛経験少ないから、こっちは色々心配なのよ」
「そんなことないわよ。恋愛くらいしてますから」
私の抗議をものともせず、うふふ。と紗英は電話の向こうで屈託無く笑う。
その後は彼女の新しい恋人の話になり、最後は「じゃあ、なんかあったら遠慮なく電話しなさいよ」と言って、彼女は電話を切った。
次の日、私は早速行動に移した。夜七時過ぎに仕事が終わり、私はすぐに河村が勤めている本店がある隣町へ向かった。私と会わない時の彼の行動を知るには、まずは仕事終わりの彼を尾行するべきだと思ったからだ。
本店は町の中心から少しはずれた所にあり、広い敷地の奥に事務所と製造工場が建ち並んでいる。その隣に和菓子とケーキを売る店舗がこぢんまりと隣接していた。事務所と製造工場の前には、配送トラックや社用車が数台駐車されている。店舗の前はおそらく来客用の駐車場だろう。今の時間は既に店は閉まっている為、来客用の駐車場はがらんとしており、人っ子一人見当たらない。だが、事務所と製造工場の方は窓からの灯りが所々漏れており、まだ社員が残っているのが窺える。その中に、河村もまだ残っているかもしれない。
私は、道路を挟んで斜め向かいのビルの二階に喫茶店があることに目をつけ、そこに入った。思った通り、ここの窓際の席から社員用の出入口がよく見える。私は注文したアイスコーヒーを片手に、河村が出てくるのを待った。
その日は一時間以上待ったが、結局彼は現れなかった。私が来る前に退社してしまったのだろう。もちろんそんなことは想定内だ。私は、次の日もその次の日も同じように喫茶店で彼を待った。
そして、ついに社員用の出入口から河村が同僚らしき数人と出てくるのを、この目に捕らえることが出来た私は、急いでアイスコーヒー代を精算し、喫茶店を出た。
同僚達と別れて、最寄り駅がある方へ河村が一人で歩いているのをビルの出入口から確認し、ようやく尾行を開始した。早足で歩く彼を見失わないように、充分な距離を保って後をつける。
今夜は飲み会は無いのだろう。何もなければこのまま真っ直ぐ帰宅するはずだ。だが、たった一日だけの尾行ではまだ何もわからない。再度、別の日に尾行をしなければならないだろう。
そして、五分程歩いただろうか。ここの角を曲がってもう少し歩けば最寄り駅というところを、彼は曲がること無く真っ直ぐに進んでいった。
この先にある店で夕飯を食べてから帰るつもりなのかもしれない。彼のマンションは最寄り駅から、たしか六駅か七駅行ったところにあり、マンションの周辺は遅くまで開いてる飲食店は少ないのだ。
彼に気付かれないようにとピンと張りつめた緊張の中、ずっと彼の背中を追っているうちに、なんとも言えない高揚感が私の中に芽生える。
まさか自分の恋人が後ろにいて、自分を尾行しているとは思ってもいないのだろう。彼は少しも後ろを振り返ることなく、ひたすら前を行く。そんな無防備な彼の後ろ姿を、私は物陰からそっと覗き見しているような、あるいは見守っているような、そんな気持ちになった。
私が疑っているように、知らない女とでも待ち合わせているのでなければ、彼が何処かの店に入るのを確認したら、今日はそれでもういいのではないかという考えが次第に頭をもたげる。
明日も仕事があるのだから、彼はおそらく食事をしたら帰るだろう。
それに、彼が食事している間待機できるような場所があればいいのだが、正直私はもう帰りたかった。
というのは、ここ数日仕事の後に隣町まできて、現れるかどうかわからない河村を喫茶店で長時間待つというのが、思ってた以上に堪えていたからだ。空きっ腹にアイスコーヒーを飲んでいたのも良くなかった。蓄積されている疲労と胃の不快感で、体調は今一つすっきりしない。
そんな身体にムチ打って歩いていると、河村は角を右の方へ曲がって行った。見失うまいと慌てて小走りで行くと、様々な店が並ぶ賑やかな通りに出た。町の中心に近いだけあって、こんな時間でも人々の波が穏やかに打ち寄せ、通りはたくさんの店の黄色い灯りで満ちている。
河村が曲がって行った方向を見ると、彼は相変わらず無防備な背中をこちらに見せて歩いていた。引き続き彼の後をつけていく。
やがて彼は、いくつもの飲食店がテナントで入っている、大きなビルの地下へと続く階段を降りていった。階段の横に置かれている電光看板には、雅と大きく書かれているのが見える。更に近寄って見てみると、横に小さく焼き鳥居酒屋とあった。
河村はこの店に入ったのだろうか。周りを見ると、すぐそこにファーストフード店がある。窓際の席に座ればこの辺りはよく見えそうだ。待機するとしたらそこのファーストフード店がいいだろう。
私は彼が降りていった階段を降りた。
階段は所々にある電飾でかろうじて明るくなっている。踊り場を一つ挟み、ずっと下まで降りていくと、雅と書いてあるガラス張りの店の扉があった。
私はガラス越しにそっと中を覗いてみた。手前から奥の方までカウンターが伸びており、後ろにはテーブル席が並んでいる。テーブル席は客でびっしりと埋め尽くされていた。
河村を探すと、奥の方のカウンター席に座っているのが見えた。やはり私が考えていたように食事をして帰るのだろう。
気が済んだ私は自分の中で区切りをつけ、今日はもう帰ろうと踵を返そうとしたその時、河村が笑顔で誰かに話しかける様子が目の端に写った。私は反射的に振り返り、もう一度店の中をよく覗いてみると、河村のこちら側手前に女が座っている。
知らない女だった。河村が話しかけているのは明らかにその女であり、女の表情はこちらからでは窺い知ることは出来ない。女は誰かと一緒に来ている様子も無さそうだ。二人でここで待ち合わせていたのだろうか。それとも偶然会ったのだろうか。河村と彼女は一体どういう関係なのだろうか。
「すいません、入りたいんですけど」
突然、背後から声をかけられ、私は狼狽して振り返った。二人の男女がいて、声をかけてきたのは男の方だ。後ろに人が来ていたことに気付かない程、私は食い入るように河村の隣の女を見ていたようだ。
「す、すいません、どうぞ」
と言い、前を譲る。
「入らないんですか?」
「はい! 入らないので、どうぞ!」
男は一瞬不審な目を向けたが、面倒な事には関わりたくないとでも言わんばかりに即座に連れの女と二人で中に入っていった。
私はとりあえず階段を上がり、地上に出る。そして、大きく深呼吸を一つ。
女と二人でここにいるからと言って、私が危惧しているような関係とは限らない。河村は先に退社していた同僚と偶然居合わせたのかもしれない。そして、それがたまたま女だったというだけかもしれない。だが確認は必要だろう。
私はファーストフード店に入り、ハンバーガーを一つ注文して窓際の席に座った。雅と書かれた電光看板が通りの向こうに見える。
通りの様子を窺いつつ、包みを開けてハンバーガーにかぶりついた。ケチャップの酸味が口の中に広がる。酸味が空腹だったのを思い出させたかのように、あっという間にハンバーガーは胃の中に消えていった。胃の中に食べ物を入れたことで、私の頭は幾らか冷静になる。そして、冷静になったかと思えば次は自ずと腹が立ってきた。
何故私は今こんなことをしているのだろう。紗英みたいに直接問い詰めるとまではいかなくとも、只訊けばいいだけではないか。何故私はそれが出来ないのだろう。変な嘘をつく方が悪いのだから、こそこそしないで堂々としていればいいのではないか。
それに、口には出さないだけであって、河村にだって仲の良い女友達の一人や二人くらいいるのかもしれない。自分には男友達というものがいないため、ついそんな考えには及ばなかった。
様々な憶測と自分への苛立ちが交差する中、不意に河村と女が仲良さそうに並んでカウンター席に座る光景が眼裏に浮かぶ。
いずれにしても、私は二人がどういう関係なのかを知らなければならない。そうしなければ、このモヤモヤする気持ちは収まらないだろう。そして、只の同僚や女友達で済ますことの出来ない直感めいたものが、確かにこの時、私の中にあったといえばあったのだった。