この笑顔が見たかったからなのかもしれない
喫茶店を出ると、外は変わらず日が照っていた。カフェオレの代金は、大引先輩が出してくれた。
歩道をすたすたと歩く大引先輩の足元を注視する。褐色の物体が落ちている。セミの抜け殻だ。俺はどこか祈るような気持ちで、すでに物言わぬ抜け殻の命運を見守っていたが、シャッと短い音を立てて、それはあっさりと粉々に踏みつぶされてしまった。今度は、ため息すら出なかった。
できるだけ日陰になっている道を進みながら、駅前に続く大通りの角を曲がり、先輩の家を目指す。
先輩の家には、過去に三回訪れたことがある。去年の秋、文化祭の準備で学校を出るのが遅くなってしまったときに、普段夜の七時には家で夕ご飯を食べているような先輩の身を案じて、自宅までの道のりにてナイトを務めたのが、その内の一度だ。その時は晩ご飯を勧められたのだが、やんわりと断ってしまった。なんとなく、照れくさかったのだ。
お互いに口を開かないまま十分ほど歩くと、三階建ての先輩の家が見えてくる。コンクリート打ちっぱなしの外観はともすれば無機質な印象を受けるけれど、一部だけ飛び出ているベランダ部分や、無造作に配置された正方形の窓から見えるカーテンのレース模様が、人が住んでいるというあたたかさを通わせている。去年に見た夜の闇にまぎれた姿とは、まるで違って見えた。
俺が和久井と彫られた木製の表札を眺めているうちに、大引先輩はインターフォンを短く押していた。鉄の門扉を隔てた先は、飛び石とその脇に咲いている背の低い赤紫色の花によって、玄関扉までアプローチがS字に続いている。
程なくしてドアが開き、髪の毛を背中で一つに束ねた細身の女性が姿を見せ、俺たちを認めるなりやわらかい笑みを浮かべた。踊るように軽やかな足取りで飛び石を渡りこちらに近づいてくるその人が、先輩の母親なのだと理解するのに時間はかからなかった。
「マナちゃん、久しぶりね」
「久しぶりでーす。夏芽、元気にしてますか」
「あら、わざわざお見舞いに来てくれたのね。あの子、もうすっかり熱も冷めちゃってねえ。昼ごろからご飯が食べたいって言って聞かないのよ」
パジャマ姿でベッドに寝転びながら、エサを待つひよこがさえずるように声を上げる先輩の姿が、勝手に頭の中に広がる。あまりにもスムーズにイメージ出来るため、自分自身戸惑ってしまうほどだった。
「そちらの男の子は?」
「学校の後輩です。どうしても夏芽が心配だってうるさいから、連れて来ちゃいました」
「適当なこと言わないでくださいよ」
改めて門扉の向こうにいる女性に体を向けた。ただ見舞いに来たはずなのに、どうしてか緊張する。
「樋渡玲といいます。せ……夏芽さんが体調を崩したと聞いて、お見舞いに」
「樋渡君ね。今日はありがとう。夏芽なら、もうピンピンしてるわよ。会ったら拍子抜けしちゃうかも」
「ちゃんと喝を入れときますね」
「お願いね。入試ももうすぐなのに、どこか身が入ってないっていうか……。ああ、ごめんなさい。早くあがってちょうだいね」
先輩の母親は、直射日光にさらされ続けている俺たちを気遣ったのか、話をやめてあわてた様子で門を開けてくれる。今日は、一日を通してほとんど安らぎの時間がなかったので、早く日向から逃れたいのが正直なところだった。
先輩の母親は、俺たちを上がりこませるなり、いつの間にかどこかに消えてしまった。俺は、この家の勝手を知った風な軽い足取りで進む大引先輩の後に続いて、自分の家よりもわずかに急な階段を上る。
二階と三階の踊り場の窓際に、レースのカーテンをバックにして銀色に縁取られたフォトフレームが立てかけられていた。中学生くらいだろうか、今より面差しが幼い先輩が、縦に伸びた写真に納まっていて、今と変わらぬ笑顔でこちらに笑いかけていた。白いワンピース姿の先輩の背後には、さらに背の高い立派なヒマワリが無数に茂っていた。俺は、笑顔と彩りが今にも溢れそうなこの写真から、すぐに目が離せなかった。
「あんた、見舞いに来ただけなのに緊張しすぎじゃない。何よ、さっきの声の震えた挨拶は」
「別にいいじゃないですか」
もっとじっくりと眺めていたかったのに、大引先輩が茶々を入れてくるせいでとても意識を向けていられなかった。目の前にあるスカートが今にも翻りそうで、目のやり場に困ってしまう。
階段を上りながらも、俺は、あの一枚が気になっていた。ほとんど、心を奪われたといってもいいかもしれない。
しかし今は、写真ではなく部屋にいる先輩に一目会いたかった。
「ほんと、ここに来るたび思うんだけど、三階まで登るの、めんどくさいのよね」
三階の廊下は狭く薄暗かった。大引先輩に続きまっすぐ突き当りの部屋まで進む。閉められた扉には、ひらがなで『なつめ』と書かれた木製のプレートがかかっていた。
ノックを軽く二回した大引先輩がドアを手前側に引くと、薄暗い廊下に照明の光が伸びた。先に部屋に入った背中を見つめる。この人が、素直に俺を紹介するとは思えない。
「やっほ」
「あ、麻奈美!」
部屋から、姿を見るより早く先輩の声が聞こえた。声から察するところ普段と変わった様子もないようで、ひとまず安心する。
「今日はね、特別ゲストがいるんだな」
「え、嘘。だれだれ?」
廊下で待つ俺に向けられた一瞥には、いたずらっぽい光がにじんでいた。
「多分ね、夏芽が今一番会いたがってる人よ」
「ハードルを上げないでください」
思わず詰め寄ってしまった俺に注いだのは、室内の照明とぬるい風だった。次いで俺の目に飛び込んできたのは、ベッドの上でうつ伏せに寝転びながら漫画を読んでいる先輩の姿だった。
「レイ! え、どうして? どうしてレイが麻奈美と一緒にいるの」
漫画を放って体を起こした先輩が、驚いた風な表情を見せて俺を見た。つい飛び出してしまった俺が何も言えずにいると、大引先輩が「ね、会いたかったでしょ」と俺の肩を叩くと、先輩は少しの間口を開けたまま固まっていたものの。
「うん」
と少しだけ恥ずかしそうに笑った。
俺がここまで来たのは、この笑顔が見たかったからなのかもしれない。そう思わせるほどの魅力が、先輩からは溢れていた。
先輩に促されて、恐る恐るといった具合に、部屋に入ると、そこには普段香る先輩のあの甘い檸檬のような独特の匂いが、この空間には特に強く、そして優しく満ちていることに気付いた。
縦長の部屋の奥には大きく切り取られた窓があり、どうやらそこからベランダに出ることができるらしい。窓もカーテンも開かれていて、白い光が部屋に注いでいる。ベッドの上にはふっくらと抱き心地の良さそうなぬいぐるみ(多分猫だろう)が転がっていて、冷たそうな灰褐色の壁に取り付けられたフックには制服や鞄、普段着であろう黄色いビタミンカラーのポロシャツがかけられていた。そう物は多くないけれど、女性の部屋であることを改めて思い知らされる。
「もう熱も引いたんでしょ? 窓なんか開けてないで、クーラーつけてよ」
「えー、私は全然このままでいいのに。レイは?」
窓辺に置かれたベッドの上でうつ伏せに転がったまま、青と白のチェック模様のパジャマを着た先輩が俺を見上げていた。
「俺は大丈夫ですよ。風が涼しいし」
「じゃあ、このままで!」
なぜだか嬉しそうにゴロゴロ転がりながら先輩は笑って言った。蕩けるほどに心を許した猫が見せるような仕草を、なぜだかまっすぐに見ることができない。
「まあいいわ。元気そうで何よりよ」
大引先輩が小さくため息をついたが、その後には小さく、口元が緩んでいた。
部屋の中央に、卵のような形をした黄色いローテーブルと、その下にお揃いの色をした毛足の長いラグが敷いてあった。俺たちはひとまずそこに腰を下ろした。
「びっくりしたよ。レイと麻奈美が知り合いだったなんて」
「実は、今日知り合ったばかりなのよね」
「え、ホントに?」
うつ伏せになったまま顔を起こして、先輩は俺に訊いてくる。何と答えたものか、考えてしまう。しかし隣に座るこの人に言わせてしまえば、どんな脚色をされるかわかったものじゃなかった。
「先輩を呼びに教室に行ったら、今日は来てないって大引先輩が教えてくれたんですよ」
「あら、その前に絡まれてたところを助けてあげたでしょ。肝心なところを端折ってんじゃないわよ」
しかしこの人が黙って俺に話を続けさせてくれるはずもなく、横槍を入れてくる。俺が出来れば話さずにいたい部分を見逃してはくれなかった。
「レイ、誰かに絡まれてたの?」
「か、絡まれてたというか……」
どう答えたものだろう。最初に応対してくれた国見という人に、和久井夏芽の名前を出したら何の用だ、と詰問されたんですよ、だなんて正直に言うと、話がややこしくなりそうだ。これは俺の勝手な想像だけれど、多分先輩は、あの人から気にかけられていることに、気付いていないのだろうと思う。
「あ、わかった。亜美とマーちゃん辺りじゃない? 亜美たちって、違うクラスの男子が来たらよく声をかけたりしてるから」
「そ、そうかもしれないです」
「やっぱりそうだったんだね。ごめんね、レイ。亜美たちって、いつも男子のことチェックしてるんだ。何か変なこと訊かれたりしなかった?」
「いえ、特に」
ならよかった、と笑う先輩にも、顔すら知らない亜美さんとマーちゃんさんにも申し訳ない気持ちだった。すべて事情を把握している大引先輩が、意地の悪い笑みを浮かべて俺たちを交互に眺めていた。
俺たちが話していると、先輩の母親が冷たいオレンジュースとカステラを持ってきてくれた。それを頬張りながら、二人はクラスメートの友達の話に花を咲かせていて、俺はもっぱら聞き役に徹していた。
「亜美やマーだって、人を選ぶと思うけどねえ」
横から何やら失礼な言葉が聞こえてくるが、自分が選ばれた側の人間であることを強く主張する材料がそろっているわけではないので、何も返せない。
「えー、レイはカッコいいと思うけどなあ。あの二人にちょっかいかけられても、仕方ないよ」
嬉しいことを言ってくれる。実際は全く違う相手に絡まれていたわけだけれど、先輩もこう言ってくれているわけだし、最早訂正の必要はないだろう。
「まあでも、確かに光るものはあるわよね」
「何ですかそれ」
何ですか気味が悪い、と口走りそうになったのを、ギリギリ差し替えることができた。まだ知り合ってから間もないのだが、この人から褒められると、背筋をなでられたような気分になってしまう。
「レイは、同じ学年の女の子から告白されたりしたことって、ないの?」
普段は見ないような目の輝きの先輩が、うつ伏せのままベッドの上から足をパタつかせて訊ねてくる。
「まあ、ないこともないような、あるような」
「何よ、はっきりしないわね」
「ありますよ、何度か」
あまり自分から話すのは気が進まなかったのに、大引先輩の言葉に乗せられるように、つい白状してしまう。実は、二年になってから、ありがたいことに何度か同級生や後輩の女の子から、付き合ってほしいだとか、そのような告白をされることが増えた。まったく知らない相手から「ずっと見てました」と言われることもあった。いずれにせよ、そのうちのすべてに、俺は応えることは出来なかった。
「ええ、そうだったんだ!」
自分から訊いてきたくせに、先輩はとても驚いていた。普段よりも大きく目が見開かれていて、今の体勢と相まって、ほとんど猫みたいに映った。
「先輩には言ってませんでしたっけ」
聞いてない聞いてない、とベッドの上でなぜだか嬉しそうに先輩はころころと転がった。はしゃいでいるその姿を見ていると、こちらまで笑顔になってしまいそうだ。一方大引先輩は、二切れ目のカステラを頬張りながら、空いた手でスマホをいじっていた。
「やっぱりレイってモテるんだね」
「どうなんですかね」
何しろ、俺の周りには、嘉樹がいる。あいつは、信じられないくらい女の子に人気があるのだ。男の俺から見ても整っていると言わざるを得ない顔をしているし、社交的かつ紳士的だ。女の子の扱いも心得ている。とても俺が太刀打ちできる存在ではなかった。慶次は慶次で、特定のタイプの女の子(大体において、その子たちは派手なメイクや校則スレスレの髪色をしていた)から人気があったりする。対して俺は、自分でもどこに魅力があるのか、わからない。嘉樹が横綱だとすれば、慶次は関脇か小結あたりで、俺はせいぜいが十両といったところだろう。告白してきた女の子たちから、自分のどこに惹かれたのか、訊けるものなら訊いてみたかった。
「まあ、うちらのクラスで写真が出回るくらいだから、その辺の男子よりはよっぽど将来有望なんじゃない?」
「ちょっと待ってください、今、何て言いました」
大引先輩の口から、何やら聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「あんたも欲しがるわねえ。将来有望って言ったのよ」
「いや、そっちじゃなくてですね」
絶対に、この人はわざとやっている。
「ああ、写真のこと」
そう言って、スマホを操作していた手の動きを速めたかと思えば、俺の目の前にディスプレイを突き付けてくる。そこには、俺、慶次、嘉樹の三人が食堂で昼ご飯を食べている様子が収まっていた。びっくりして大引先輩を見ると、得意げに笑っている。
「何ですか、この写真」
「何って、レイと愉快な仲間たちじゃない」
「そうじゃなくて、どうして俺たちの映っている写真が、大引先輩の携帯に保存されてるんですか」
「それがねえ、話せば長くなるのよ」
何でも、先輩が先ほど口にしていた亜美さんとやらが、クラスの女子で形成されているLINEのグループ内に、『一番右側の男子が超イケメン』という文と先ほどの写真を添付したのだそうだ。超イケメン、とまで言われたのはもちろん俺ではない。嘉樹である。
本来ならば、他愛ないグループ内での一時的な話題として終息するはずだった。けれど……。
「私も、びっくりしたんだ。麻奈美たちの携帯に、レイの写真が入ってるんだから」
スマートフォンどころか携帯電話を持っていない先輩だけれど、お節介な周りの友達が、”自分たちは今こんな話題で盛り上がっているんですよ”と、俺たちが映る写真を見せてしまった。そのうちの一人が自分の知っている後輩であるという一言を、先輩は何気なく放った。すると、先輩のクラスの女子たちの間で、写真への注目がさらに増したのだ。
「夏芽の知り合いってわかったら、みんな写真のレイを見る目が変わったのは面白かったわ」
「どうして変わるんですか」
「そりゃあ、今までこの子と親しかった男の子なんていなかったもの」
この子、と言いながら大引先輩に指さされ、先輩ははにかんだ。その笑みに特に深い意味はないはずなのに、どこか気恥ずかしくなってしまう。
「そうだね、放課後にも会ったりする男の子は、レイしかいないよ」
レイしかいない。先輩がそう言ったとき、確かに俺の心臓が跳ねた。ほとんど無意識的に、その言葉を深読みしてしまう。そんなはずがないと、慌てて打ち消した。しかし、俺の心理的な焦りをよそに、胸の中には、輝きを放つ誇らしい何かが落とされた。部屋の中を、湿った風が撫でるように吹いていく。三人の内の俺だけ、心まで風に晒されたような気がした。
「それで、何だかんだで三人ともカッコいいんじゃん、って話になったわけ。よかったわね、君たち三人、うちらの間じゃちょっとした有名人よ。アイドルと言っても過言じゃないかもね」
「そうなんですか」
それは過言だろう、と思った。
「それでも、一番人気は右側の彼だけどね。どんなアイドルグループにも、人気の格差は存在するでしょう? それは君たちも例外じゃなかったみたい。ちなみに、一番不人気だったのはレイじゃないから、安心していいわよ」
「知りませんよ、そんなの」
舞い上がりかけた心が、大引先輩の言葉によって降下していく。しかし、慶次には悪い気もするが、密かに胸を撫で下ろしてまう。
「夏芽が誰を選んだのか、気にならない?」
「選んだって、何ですか」
訊きながら、何となく頭の中でイメージが湧いてくる。先輩たちが机を囲み、写真を見ながらキャアキャアと声を上げる姿が。
「三人のうち誰が一番か、ってことよ」
「もう、麻奈美、それは言わなくていいでしょ」
先輩が、選んだ人。俺の頭の中では、本来の意味を超えた光景が広げられる。それはつまり、先輩が、恋をする相手。何を考えているんだ、俺は。
「私は、レイが一番だよ」
「え?」
顔を上げると、ベッドの上であぐらをかいて座っている先輩が、屈託のない笑みを浮かべていた。
「あー、どうしてあんたが先に言っちゃうのよお」
「どうせ麻奈美は大げさに話すでしょー」
大引先輩に舌を出した先輩が、俺の方を向いて、照れくさそうに笑った。
「こうやって本人の前で言うのって、恥ずかしいね。でも、私の中では本当にレイが一番だからね。もっと自信を持っていいよ」
「あ、ありがとうございます」
まともに顔を見ることができないのはいつものことだけれど、言葉も上手く話せないのは、初めてのことだった。いつになく、動揺している自分に気付く。顔が熱い。大引先輩が何かからかってくるかと思ったけれど、先輩の方を見ながら、眠たそうな顔をしてジュースを飲んでいた。あの人のグラスは空だったはずなのに、と思って自分の手元を見ると、さっきまであったオレンジジュースがない。
人のを飲むなら、もう少しおいしそうにしてくださいよ、と頭の中でクレームをいれるのが、精一杯だった。この人に関して俺は、すでにいろいろなことを諦めていた。