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夏空に咲く一輪の  作者: バムガーナー
大引麻奈美
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人から教えてもらったことって、すぐ誰かに話したくならない?

 七月が間近に迫っているのは、照り付ける日差しが何より雄弁に物語っている。駅へと続く歩道には、春に咲かせた桃色の花びらを散らせて新緑を纏ったサクラの木が等間隔に並んでいて、所々ではあるが影を作っていた。足元に転がっているセミの抜け殻を、足でつぶさないように注意しながら歩く。目の前を進む、先輩の友達という女の人のローファーを見るでもなく眺めていると、右足の着地点付近に腐りかけの揚げ物のような色をした抜け殻が転がっている。あっと思った瞬間、くしゃり、と季節外れの落ち葉を踏んだような乾いた音がした。しかし、そもそも気付いていないのか、女の人はと言えばまるで意に介していない様子だった。


 その時俺は、ほとんど直感で、ああ、この人には敵わないな、と悟った。その時におそらくは暑さとは違う要因で額を流れた汗を、降参する思いでぬぐった。


 てっきり先輩の家に直行するものだと思っていたが、女の人について行くとどんどん駅に近づいていき、やがてとある雑居ビルの前で立ち止まった。


「ここ、夏芽と帰る時によく寄るの」


「はあ」


 ビルの入り口に、腰ほどの高さのボードが置いてあり、アルファベットではない、どこかの国の文字の羅列(おそらく店名だろう)と、その下にコーヒーを始めとした何種類かのドリンクの値段が書かれてあった。どうやら喫茶店らしい。「入りましょ」とだけ言って、女の人は俺の返事を待たずにビルの中に消えてしまった。きっと、俺が仮にこのまま帰ってしまっても、あの人はまるで気に留めずにコーヒーを啜るのだろうな、と思った。


 しかし無断で退散する度量が備わっているはずもない。ため息を一つだけついて、どうにか中に入る。法外な値段の怪しげな壺や掛け軸を押し付けられる可能性をほんの少しだけ考慮しつつ、俺は律儀に背中を追い、店員に案内されるがまま、空いている店内の窓際のソファ席に、わずかに対角線上に向かい合って腰掛けた。幸い、ガラの悪そうな男もいない。


 俺のバイト先のレストランと比べると、広さこそ劣るものの、落ち着いた雰囲気の店だった。冷房が控えめに効いていて、天井の所々に見られるスピーカーからはジャズが小さく流れている。「ジョン・コルトレーンね」とおしぼりで手を拭きながら彼女は言った。「詳しいんですね」と相槌を打つ感覚で返すと、「彼氏の影響」とつまらなさそうにこぼした。


 黒いサロンを腰に巻いたウェイトレスが、お冷を持ってきてくれる。それを早速一口含んだ彼女は、こっちを気にせずにシャツの胸元を引っ張ってパタパタと扇いでから、背中をもたせ掛けて俺の方を見た。


「まだ自己紹介的なの、してないわよね」


「そういえばそうですね」


「夏芽の家に行く前に、君のことを知っときたくてね」


 やっと、ここに入った目的が明かされた。この飄々とした、先輩の友達の名前やその他の情報を、俺は知らない。一つ言えるとしたら、彼女の性格は、きっと先輩とほとんど真逆のタイプだろう、ということだ。


「アタシ、大引麻奈美(おおびきまなみ)っていうの。夏芽とは小学校からの付き合いで、まあ一番の親友ね。アタシのひとりよがりじゃないはずだから、向こうも同じ風に思ってくれてると思うわ」


「何ですかそれ」


 たしかに、学校の中で先輩を見かけたときは、ほとんど確実に傍らにこの女の人がいた。慶次が、『レイの知り合いの先輩も綺麗だけど、いつも隣にいる茶髪の人もなかなかイケるよな』と舌なめずりしていたのを思い出す。確かに、この人も先輩とは系統が違うものの、美人な部類だと思った。


「中三からは、ずっと同じクラスなの。四年連続九回目よ」


 甲子園の強豪校みたいよね、と女の人……もとい大引先輩は一人で笑った。そして、近くを通りかかったウェイトレスを呼び止め、俺の確認もとらずにアイスカフェオレを二つ注文した。


「君は、レイ君だったっけ」


「はい。樋渡玲です」


 自己紹介をした覚えはないのに、と思ったけれど、きっと先輩から聞いたのだろう。


「アタシもレイって呼んでいい?」


「どうぞ」


 コホン、と大引先輩はわざとらしく咳払いをした。


「レイは、夏芽と一緒に新聞を作ってるんだってね」


「そうですね」


「春に一度だけ発行して、そこからずっと活動休止状態で、また今度活動再開するのよね」


「詳しいんですね」


「あの子からいつも聞かされるのよ。三年になった時くらいから、やりたいことが見つかった、ってニコニコしてたもん」


 その先輩の表情を想像すると、心のどこかが解きほぐされ、俺の方までニンマリとしてしまいそうになる。あの人のよろこぶ姿というのは、見ている人をも笑顔にしてしまう、魔法にも似た力がある。よろこびがそのまま、果汁百パーセントのジュースみたいに何の添加物もない純粋な笑顔になる。本人には恥ずかしくてとても言えないけれど、それは、この世で一人、和久井夏芽だけが持つ、唯一無二の魅力だと俺は思っている。


「でも、レイはどうして夏芽と一緒に新聞なんか作ろうと思ったの」


 そもそも、二人の接点がいまいち分からない、と言われたため、俺はわかりやすく簡潔に、先輩との関係を説明した。


 もともとは俺の姉と親交があった先輩は、その弟である俺がこの高校に入学した時から、色々と気にかけてくれていた。時々一緒に下校したり、放課後の暇な時間に図書室で気ままに過ごしたり、緩い関係を続けていたのだけれど、去る今年の春休みに、先輩が「青春って感じることをしたい」と言ったことに端を発し、あれよあれよいう間に新聞を作ろうということになった、と説明すると、大引先輩はふうん、とあまり納得が出来ないという風に唇を尖らせた。


 ウェイターによって、アイスカフェオレが届けられた。大引先輩はグラスにストローを刺して、再び俺を見た。


「意外に、レイたちって付き合いが長いのね」


 言われて気が付いたけれど、先輩と出会ってから、もう一年以上が経過しているのだ。これまでに密に会うことなんてほとんどなかったから、特に感慨も湧いてこない。もう一年か、と思った。ちょっと、勿体なかったかな、と思ったけれど、先輩と過ごす時間の正解というのも、俺にはわからなかった。


「先輩も、俺のことなんてそこまで話さないですよね」


 鎌をかけるつもりで訊いてみた。先輩は普段、俺のことをどんな風に話しているのか、やはり正直なところ気になってしまう。


「そうねえ、去年なんてほとんどレイの名前も聞かなかったかも。学校で夏芽と一緒にいるときに君とすれ違ったら、あの子も話しかけたりしてたし、顔見知りの後輩がいるっていうのは、何となくわかってたけど」


 やっぱりな、と思った。俺なんかが、わざわざ親友に話すほどの存在ではないことくらい、わかっている。


「でもね、新聞部? の活動を始めた頃くらいからだっけ。レイがねレイがね、って感じでちょくちょく君の名前が出るようになってきたの」


 大引先輩のその言葉を聞いて、俺の心臓が、僅かに高鳴った。


「君がいかに精力的に活動に参加しているかだとか、素直じゃないけど優しい子だっていうようなことをね、夏芽がしきりに話すのよ。こんなことに付き合ってくれるのはレイしかいない、って」


 それを聞いて俺は、この場にいない先輩に弁解したくなった。精力的になんて活動していませんよ。素直でもなければ優しくもありません、と。つまり、それほど照れくさかった。


「今までに、あの子がオトコの話を自分からしたことなんてまったくなかったのに、高校生最後の年の今になって、あまりに君のことを話すものだから、アタシも他の友達も、みんな君のことが気になってたわね」


 もしかしたら、昨日先輩を呼びに教室を訪ねた時に感じた、好奇心の混じった遠巻きからの視線は、そのためだったのか。


「どう、ちょっとは夏芽のこと、意識した?」


 大引先輩のその氷のような問いかけが投げ込まれ、頭を冷やす。すると途端に、高鳴りは引いていった。次いで、人を騙すキツネのように目を細くして笑うその顔が飛び込んでくると、冷静になるのに時間はかからなかった。そして、この人の相手を真面目に務めると、疲れるのだということを、思い出す。


「何ですか、意識って」


「何ですかも何も、好きにならない? だってあの子、我が親友ながらめっちゃ可愛いし」


「まあそれは、否定しませんけど」


 最後の方はごにょごにょとした話し方になってしまう。


「君は知らないかもしれないけど、あの子ね、色んな人からめっちゃ人気あるんだから」


 めっちゃ可愛くて、めっちゃ人気のあるという先輩と、俺は二人で活動してきた。そして、これからもまた。薄々意識してはいたけれど、俺はもしかしたら、野郎共から羨望と嫉妬の入り混じった眼差しを向けられるような境遇に、身を置いているのかもしれない。


「今朝、レイに突っかかってきた男がいたでしょ」


「ああ、メガネをかけた」


 あの男の人の敵意すら滲ませた視線や言葉の響きを思い出す。ガタイもよかったし、何となく冷血そうな雰囲気も漂っていた。今朝の俺が怯み気味であったのもやむを得ない。


「あいつ、国見っていうんだけど。国見もね、夏芽のことが気になってるうちの一人なのよ」


 もしかしてこの人の中では、俺も国見先輩と同じカテゴリに放り込まれているのだろうか。訊くのも恐ろしい。


「それで、先輩を訪ねて来た俺が気に食わなかったんですか」


「実はね、正確にはそれだけじゃないの。話すと長くなるんだな、これが」


 何でも今週の月曜日の昼休み、単身教室に乗り込んできた男子生徒がいたのだそうだ。そいつは先輩を呼び出し、何とその場で告白したらしい。それも、教室中に響き渡るような大声で。衆人環視の場で突然想いの丈をぶつけられ、理解の追い付かないまま好奇の視線にさらされ冷やかしの声を受け、先輩はほとんど半泣きの状態だったらしいのだが、そんな状況を収束させたのが、国見先輩らしい。無礼者を即座に摘まみだし、しかる後に先輩を気遣い、同時に周囲の野次馬を視線で黙らせたのだそうだ。決して強面というわけではないけれど、鋭利な刃物を喚起させる視線を持つあの人に睥睨されると、口を閉ざしてしまうのも頷ける。


「あいつ、クラス委員でもあるから、トラブルとかに敏感なのよ。ましてや今日の君は夏芽が目的だったから、険しさも二倍ってわけ」


「そもそも、何でそいつはわざわざ教室で告白なんてしたんですか」


「国見がそれも訊いたらしいんだけど、『カーテンがないから……陽ざしが俺を昂ぶらせたんだ』とか、うわごとみたいにぶつぶつ言ってたみたいよ」


 意味わかんないわよね、と大引先輩は呆れていたが、俺は戦慄する思いだった。


 なんてことだ。こんなところにも、カーテンがなくなったことによる犠牲者がいるなんて。浴びたくもない日差しをずっと浴びていると、満月の光によって猿に変貌してしまう戦闘民族さながらに、俺も獣へと変貌してしまうのだろうか。


 アイスカフェオレをちゅーと吸い、なんでこんな話になったんだっけ、と俺を見た。


「先輩が人気者だという話から」


「ああ、そうだっけ」


 そうだそうだ、と大引先輩は一人納得した。


「君も知ってるかもしれないけど、夏芽ってね、何でだか後輩の女の子からも人気あるのよ」


「みたいですね」


「男共からは、言わずもがな」


「でしょうね」


「おまけに教師たちからも」


 これはもう、一種の才能よね。大引先輩は、感嘆と呆れがない混ぜになったような調子で言った。


 確かに、あの人には、人を惹きつける雰囲気がある。その根源はわからないけれど、とにかくそれは恒星のように光り輝くエネルギーを宿していて、先輩の魅力に拍車をかけている。


「でもね、おかしいと思わない」


「なにがですか」


「そんな夏芽だけど、新聞製作の活動は、君と二人だけ。ちょっとあの子が甘い声出せば、いくらでも駒は湧いてくるのに、どうしてあえてそうしないんだろうね」


 弾むように語尾を上げて、大引先輩が俺の顔を覗きこむように身体をテーブルに乗せる。ボタンの外されたシャツの胸元から目をそらすために、窓の外を見る。外の陽ざしは相変わらずだった。


「あの人には、そんなことできないと思いますけど」


 そんなこと先輩はしません! と食って掛かるように豪語すると、この人の思う壺な気がした。


「まあ確かに、無理よね」


 ケラケラと笑ったかと思うと、でもさ、と声を正し、姿勢はそのまま、真剣な目を向けてくる。


「本当に夏芽の目的が新聞を発行することなら、どう考えても人手は多い方がいいわよね。学校にも認められた活動で、部員募集の告知は堂々と出来る。ポスターなり何なりを見て人が集まれば正式に部として認められる。活動場所も、部室なりを用意してくれるでしょうね。部費だっていくらか出るだろうし、教師も協力的だろうし、何より人がいれば活動の幅が広がるわ。メリットはあっても、デメリットなんて皆無よ」


 一つあるとすれば。


 そこまで口にしたところで、大引先輩が身体を引いた。そしてもったいぶるようにストローに口づけアイスカフェオレをゆっくり堪能する。


「あるとすれば、なんですか」


 ああくそ、この人の言葉は真に受けないつもりだったのに、続きが気になってしまう。まるで罠にかかった獲物を確認したかのように、大引先輩の眼光が妖しく光ったのを、俺は見た気がした。


「レイと二人で過ごす時間が無くなってしまう」


「え?」


「もしかしたら夏芽は、それが嫌だったんじゃない」


 ジャズの音も、周囲の話し声も、聞こえなくなった。まっすぐ放たれた言葉の余韻が、音叉が鳴るようにしていつまでも頭に響く。


 落ち着け、樋渡玲。この人は、曲者だぞ。ほとんど話したことのない相手に対して偽の涙を見せるような演技派だ。実は女優志望なのよ、と言い出しても何らおかしくない。きっと、俺の持つ先輩に対する感情を、どうしても色恋沙汰のそれにしたいだけなのだ。


 しかし、そう思いたい一方で、仮に今話した内容が、真実だったとしたら……と考えてしまう自分もいた。これまで一緒に活動を続けてきた俺にも、先輩が第三、第四の部員の補充をしないその理由は、見当すらつかない。ということはつまり、今大引先輩が口にしたのが、唯一提唱された具体的な理由なのだった。


 けれどそれは、あくまで可能性の一つとして、だ。実際は、そんなことあるはずがないじゃないか。


 だってつまりそれは、先輩が、俺のことを意識しているということじゃないか。大引先輩の好きな、色恋沙汰のそれで、俺を見ている。そんなこと、あるはずがなかった。


 ――じゃあいったい、どうして?


「まあ、あくまでアタシの想像だから」


 そうだ。これは、大引先輩の想像。想像と現実には、決して越えられないボーダーラインがある。真実は、先輩のみぞ知る、といったところだ。俺たちが二人あれこれ話しても、不毛でしかない。だから、間違ってもその気にしてはいけない。


「今度はレッド・ガーランドね」


 BGMが変わったのを、大引先輩は聞き逃さなかった。また、ジャズ奏者らしき名前を口にする。


「詳しいですね」


「だから彼氏の影響だって」


 大引先輩はつまらなさそうにそう言った。


「でもさ、人から教えてもらったことって、すぐ誰かに話したくならない?」


「なんとなくわかる気がします」

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