もっとちょろいと思ってたのにねえ
正門前には俺の方が先に到着したようだ。後ろからどんどん生徒が流れて来ては、留まることなく放流された稚魚のように門の外へと消えていく。
校門に背中を預け、しばらく待ってみたものの、まだあの人がやって来る気配はない。ほとんど無意識のうちに、ちっと舌打ちをしてしまう。その時、近くを通りかかった女の子の二人組と目が合った。まずい、と思った次の瞬間、二人組はまるで不審者を避けるようにそそくさと歩調を速めて行ってしまった。くそ、これも、あの人のせいだ。
「ごめんねえ、待たせちゃって。あれ、君、もしかして朝よりちょっと焼けた?」
さらに十分ほど待っていると、その人は小走りで近付いてきた。急いできましたよ、ということをアピールするように、鞄を持っていない手で顔をパタパタと仰いでいる。しかし彼女はまったく汗を浮かべてはいなかった。
「焼けたかもしれません」
教室のカーテンが消えたせいです、といちいち説明するのも煩わしかった。今日は、ほとんど一日中日差しを浴びることになったから、多少日焼けをしていてもおかしくない。というより、焼けていない方が不思議なくらい、俺と草野は強制的に非生産的な光合成をさせられていた。
「そしてちょっと怒ってる?」
「怒ってます」
今度は、何も言われなくても理由をぶちまける。
「急性上気道炎って、ただの風邪のことじゃないですか」
怒っている理由は、もちろんカーテンが消えたからではなかった。
一限目の休み時間にこの人と会って、先輩が急性上気道炎なる病気で学校に来ていないことを知った俺は、二限目の授業をそっちのけで、教師に見つからないように注意しつつ、スマホで急性上気道炎について調べたのだ。すると、医学的に風邪のことを急性上気道炎と呼ぶ旨の内容が記載された病院のホームページに行き着いた。俺は胸を撫で下ろしたと同時に、急性上気道炎などとまどろっこしく伝えた上に、涙まで見せて不安を煽ったあの女の人の悪意に憤りを感じずにはいられなかった。
「なんで素直に風邪って言ってくれないんですか」
「いいじゃないの、間違ったことは言ってないんだし」
「間違いではないですけど、普通は風邪のことを急性上気道炎だなんて伝え方はしません」
「個性の尊重が叫ばれて久しいっていうのに、普通は、だなんて言い草はよくないんじゃないかしら。そんな頭が固いようじゃ、いつか痛い目を見るわよ」
さらに、「無知なままでも痛い目を見るわよ」と明らかに反省の色が見えない言葉を口にする。
「百歩譲って無知な俺が悪いとしましょう」
「別に譲ってもらわなくて結構。リベラリズムは常に向かい風に晒されてるものね。いいの。あたしもわかってるわ」
「最後まで聞いてくださいよ」
俺は大きくため息をついた。この人の相手をしていると、余計な体力を削がれていく気分だ。もしかしてあの男の人も、それがわかっていたからこそ、ああも容易く引き下がったのだろうか。
「ほらほら、聞いてるから話しなさいよ」
クイクイ、と手のひらを上に向けた状態で手招きをする仕草を見せる。
「無知な俺が悪いとしても、あの演技は酷くないですか」
「あら、また決めつけるのね。親友が寝込んでいるというのに、涙の一つも流しちゃいけないのかしら」
あれは明らかに悪意がありましたよね、とまではさすがに言えなかった。俺はため息を吐く。どこまでも飄々としているこの人が本当に先輩の知り合いなのか、怪しくなってきた。
「……夏芽からは優しいいい子だって聞いてたから、もっとちょろいと思ってたのにねえ」
ちょろいって何ですか、と俺が訊こうとすると、「まあいいわ、行きましょう」と一人でさっさと校門を出てしまった。俺が付いてこないとは、微塵も考えていないような、清々しいほどに力強い歩調だった。
女の人の歩く先に、何も言わず続いていく。きっともうこの人は、俺が何を言っても聞いてはくれないだろうし、下手に機嫌を損ねてしまうと、後日先輩に何を吹聴されるかわかったものじゃなかった。先輩の友達とはいえ、油断のならない人であることは、これまでのやり取りを通してさすがに俺も察知していた。