何だか、夏芽の方がレイのお姉さんみたいね
「綾さん、もう家にいるの?」
家に着くまであと角を一つ曲がって真っ直ぐ道なりに進むだけだった。歩いた時間は十分ほどだったけれど、先輩はハンカチを鼻の頭に当てていた。
「今日は講義が午前中だけだって言ってたから、いると思いますよ」
「メールか電話で確かめといてくれたらよかったのに」
「先輩、携帯持ったら俺よりも使いこなせそうですね」
「レイがひどいだけだと思うよ」
ずいぶんな言い草だと思うけれど、先輩だったらいいか、という風に思考は修正される。あんな笑顔を見せられると、こっちとしてはもう無条件で白旗を上げるしかない。
鞄から鍵を取り出して、鍵穴に差し、右に回す。もう数えきれないほどこなしてきたルーチンだというのに、後ろにいる先輩からの視線を感じると、これが一気に緊張してしまう。顔は見えないけれど、きっとプレゼントを前にした子どもみたいににこにこしているに違いない。
「ただいま」
「おじゃまします」
二つ続いた声に気が付いたのか、リビングから足音が聞こえてくる。
「やっぱり夏芽だったのね。久しぶり」
「久しぶりです、綾さん」
「最近顔を見せてくれなかったから、寂しかったのよ」
早く上がって、と残して姉ちゃんはリビングに引き返した。
「早く、綾さんに説明しなきゃ」
それは先輩の独り言だった。明かりがなく暗い玄関でも、その表情が輝いているのがわかる。先輩はもう俺を見ていなかった。ここに来ればこうなることはわかっていたはずなのに、どうも面白くない。
俺が部屋で着替えてリビングに行く頃には、もう先輩と姉ちゃんはダイニングテーブルを挟んで談笑していた。
「レイ、こっちおいでよ」
先輩が、手招きして呼んでいる。今まで、先輩がここに来て姉ちゃんと喋っているときに俺を招くことなんてほとんどなかった気がする。大抵、二人だけで小鳥がさえずるみたいに延々と話していた。
先輩が座っている席の隣に、麦茶が入った透明なグラスがコースターに乗せられて置いてあったからそこに腰掛ける。普段食事の時に座っているその場所に、今は夕食の匂いでなく、甘い檸檬のように矛盾した、先輩独特の香りがした。
「もう、レイも知ってたら教えてくれてもよかったじゃない。夏芽がまた後輩になるかもしれないなんて、初めて知ったわよ」
夏芽の入試のこと。ああ、ごめん、ととりあえず謝っておく。そう言えば俺は、どうして姉ちゃんに話さなかったのだろう。
そう。先輩が推薦入試を受けるきっかけの一つに、姉ちゃんと再び先輩後輩の間柄に収まることが出来る、というものがあった。しかも、今度は二年間。それだけで、先輩からすれば推薦入試に対する十分なモチベーションとなるだろう。
「きっと、私に気を遣ってくれてるんですよ。あんまり綾さんに期待を持たせても、プレッシャー感じちゃいますから」
もちろん、そんな大した理由ではない。
「それで、これから二人で新聞を作るんだって? テストも近いんでしょう。大丈夫なの?」
先輩が「ばっちりです」と自信満々に答えるのと、俺が「どっちにしろ一緒」と呟いたのは、ほとんど一緒のタイミングだった。
「なあに、一緒って」
案の定、姉ちゃんは咎めるような目で俺を見た。俺としては、それこそ先輩を気遣うつもりで、新聞部の活動があろうがなかろうが、テストの結果は大差ないということを伝えたかったのだ。
「大丈夫ですよ。レイは、やればできる子だから。ね?」
「何だか、夏芽の方がレイのお姉さんみたいね」
まさに俺も同じことを思っていた。先輩は、照れくさそうにしながら、「そんなことないですよ」と下を向いた。俺と一緒にいる時には、まずお目にかかれない姿だった。
しかし、実際は気を締めてかからなければいけないことくらい、俺にだってわかっている。俺の成績が中間テストの時よりも下がっていることが長内にばれちまったら、一緒に活動していた先輩にも責任があると判断される恐れがあった。ここに来て先輩の株を下げるわけにはいかないのだ。
「それで、今度は一体どんな新聞を作るの」
「先生が、月曜日に内容を教えてくれるそうです。夏休みまでかかる活動になりそうだから、本当は活動の承諾はしたくなかった、って言ってました」
夏休みまで、というのは、初耳だった。ということは、終業式を迎えても、新聞部の活動は終わりを迎えないわけだ。
「じゃあ、先輩の入試はどうなるんですか。新聞なんて作っていたら、落ち着いて入試を迎えられなくないですか」
「大丈夫だよ。長くても七月中に終わるって言ってたから。それに、私の入試も八月の二十六日だからね。ちゃあんと一ヶ月、受験に向けて準備できるんだから」
初めて聞く話が続いた。先輩の大事な日まで、あと二か月を切っているのだ。
「そういえばね、二人とも、土曜日の夜は空いてる?」
急に話を転換させた姉ちゃんを二人して見る。
「はい。どうせ、家に篭って勉強漬けですし」
「よかった。レイは?」
「夜なら」
「昼は勿論、テスト勉強よね?」
「や、昼間はバイトだよ」
あからさまに表情をしかめて俺を見ている。しかし何も言わずに、一つため息をついただけだった。
「まあいいわ。二人とも、一緒に蛍を見に行かない?」
「蛍、ですか」
先輩が上半身を乗り出す。
「うん。本当は友達と行こうと思ってたんだけど、みんな予定が合わなくて。もうすぐシーズンが終わっちゃうから、ピークの内に見に行こうかなあって考えてたんだけどね。それに、私も免許を取ってから、まだろくに運転してないし、ドライブも兼ねて、県境の小川の蛍の隠れスポットに行ってみない?」
俺が返事をするよりはるかに早く、先輩が「行きます」と即決する。「レイも行くよね」と続けた。
「行きますよ」
断る理由は、なかった。やった、と先輩は喜んだ。手を叩いた拍子に危うくグラスに当たりそうになって、俺と姉ちゃんはヒヤリとした。
「じゃあ、土曜日はよろしくお願いします。レイも、アルバイトだけじゃなく勉強もちゃんとしなきゃだめだよ」
「わかってますよ」
俺は唇を尖らせた。先輩は、弟を見るような目でこっちを見ていた。
「初めてね、レイと夏芽と三人でどこかに行くのって」
そう言われれば、そうだ。さらに言うと、先輩と休日を一緒に過ごすことも、これまでにはなかったことだ。
その後は雑談もほどほどに、時計が六時を指しているのを確認した先輩は、もう帰らないといけないから、と席を立った。本当に小学生みたいだな、と今度は口に出さずに心で思うだけに止めた。
「綾さん、それ、何の本を読んでるんですか」
「ああ、これね」
テーブルの上に置いてあった、焦げ茶色をしたレザーのカバーがかかった文庫本を姉ちゃんが手にする。カバーを外すと、表紙には猫の後ろ姿がプリントされていた。
「夏への扉」
先輩がタイトルを読み上げた。自分の知らない本だったのか、表紙を見つめたまま黙り込んでしまう。
「姉ちゃん、またそれ読んでるのか」
俺が知っている限りでも、姉ちゃんはゆうに十回以上、このハインラインの本を読み返していた。俺自身まだ一度も読んだことはないけれど、絶対に一度は読んだ方がいい、と姉ちゃんにはいつも熱心に薦められる。
「この時期になると、一度は読みたくなるのよね。まあ、舞台は冬なんだけど。やっぱり、タイトルのせいなのかな」
夏への扉。今の俺は、まさにそれが開かれたところなのかもしれない。直接夏の日差しを感じるのはごめんだけれど、それでも、先輩に会いに行こうと思えた。もし今日、先輩と会うことが出来なかったら、蛍を見に行く約束も取り付けられなかっただろう。新聞部の活動の話だって、もっとギリギリになってから聞かされていたかもしれない。
まあ、来週までなら、待ってやるか。
草野はきっとぶーぶー文句を垂れるだろう。それでもかまわない。
せっかく開いた夏への扉を、すぐに閉じるのは勿体ないことに思えた。
――というか、ほとんど無理やり、現実を認められない頭にそう思いこませたかった。