同世代の女の子とは決定的に違うのだ
先輩の言う綾さん、というのは、俺の姉、樋渡綾のことだ。先輩は、姉ちゃんにとても懐いていた。
そもそも姉ちゃんは、現在俺たちが通っている高校のOGだ。俺とは三つ年が離れているため、ちょうど俺が入学するタイミングで卒業してしまったのだが、一つ学年が上の先輩は、一年間だけではあるものの、姉ちゃんと高校生活を共にした。その一年で、二人は仲を深めたのだそうだ。
先輩は、俺が綾さんの弟だということで、入学したその時から、率先して話しかけてくれたり、図書室に誘ってくれたりと、とても良くしてくれた。きっかけは姉ちゃんの差し金であったわけだけれど、それでも俺は少なからず、先輩に対して確かな親近感を抱いていた。それは先輩の方だって、同じだと思う。うぬぼれではないと、そう思いたい。
というのも、先輩は見ての通り綺麗で、その笑顔は見る者が元気になるほどに明るく、学年でたった一つの推薦枠を射とめるほどに学業優秀とくれば、当然人を惹きつける。先輩の浮いた話はこれまで耳にしたことはないけれど、誰それに告白された、というような噂は、定期的に舞い込んでくる。特に学校内でも目立った存在でもない自分が、そんな相手と二人きりで一つの新聞を作り上げる作業に一時的であれ従事していたという事実が、実を言うといまだに信じられなかった。
先輩に促されるようにして学校を出た。日差しはまだ強く、少し歩いただけで汗ばんでくる。並んで歩道を歩くと、蝉の声がどこからか聞こえてくる。
行き先は、俺の家だった。半歩先を歩く先輩の黒髪が、そのまま今の感情を表しているように、歩くたび跳ねる。今に、鈴の音でも聞こえてきそうだった。
「先輩、もうずっと姉ちゃんと会ってないですよね」
「そうだね。ここの所土日も学校に行ってたし、大学の見学とかもあって忙しかったから。そうだ、まだ、綾さんに推薦入試のことも伝えてないんだった」
大変だ―、と呟く先輩が、俺にはまるで近くに迫った授業参観の日にちを親に伝え忘れていた子どものように映る。
去年までも、姉ちゃんが家にいる日、先輩は放課後によく俺の家に来ていた。大学というのはその日によって平日でも授業があったりなかったりするというのだから、驚きだ。
「ずっと気になってたんですけど」
「んー?」
「どうして、先輩は携帯を持っていないんですか」
二ヵ月も先輩と過ごす時間が空いてしまった理由の半分くらいは、この人がこのご時世にあって、自分の携帯電話を持っていないからだと俺は分析している(するまでもないことか)。信じられないことに、この人は生まれてこの方、携帯電話を手にしたことがないのだった。前に、『電話のかけ方、知ってますか』と訊くと『当たり前だよ。友達の電話でかけさせてもらったことがあるんだから』となぜだか胸を張るように答えていたが、問題はそんなことではない。
「どうしてそんなこと、今さら聞くの?」
先輩はこちらを振り返って笑いながらそう言った。
「や、久しぶりに会うと改めて気になったもんで」
先輩が携帯電話を持っていないせいで、メールや電話といった、本来離れていてもとることの出来るコミュニケーションがこの二か月余り一切不可能だったことが、俺にとってはちょっとした苦痛だった。しかしそのことを馬鹿正直に口にするのは、やはり気が引けた。
「だって、別に持っていなくても困らないんだもん。それに私、よく物をなくしちゃうからさ」
そりゃあ先輩自身は困らないかもしれませんけど、ここにいるんですよ、困る人が。
それも口にはできなかった。どうして困るの、と訊かれた時に、きっと俺は返事に窮してしまう。
「それに、どうしてもって時にはパソコンのメールがあるでしょ。レイにも教えてなかったっけ」
「知ってますけど」
先輩の言うパソコンのメールとは、和久井家に一台設置されているというデスクトップ型パソコンが所持している、メールアカウントのことだった。『どうしても私に何か伝えたいことがあったら、ここに連絡してよ』といつだったか教えられたけれど、幸か不幸かこれまでに急を要する連絡をする必要は一度だってなかったし、家族全員が覗けるメールボックスに、俺が送った《元気にしてますか》というような内容が保存されてしまうことを考えると、ゾッとする。俺の携帯にそのメールアドレスはちゃんと入っているけれど、万が一のことでもない限り、使うことはないだろう。
「先輩の友達は何も言ってこないんですか」
「それがね、みんなひどいんだよ。私が携帯を持ってないのは、家が貧乏だからって、決めつけるんだから」
「そう思われても仕方ないんじゃ」
「そりゃあね、お金持ちってわけじゃないよ。でも、お父さんが一人で働いてて、それでちゃんと家族三人が暮らしていけるんだから、貧乏なんかじゃないってば」
あまりに力説するものだから、おかしくなってしまう。俺は笑いをこらえるのに苦労した。
「でも、携帯電話がなかったら、帰りが遅くなった時とか、親は心配しませんか」
「大丈夫だって。私、いつも七時には家に帰ってるし」
「小学生じゃないですか」
「今、何か言った?」
「……いえ」
眉間に皺をよせてこっちを睨むものだから、俺は顔を逸らしてしまう。
それにしても、ちょっと驚いてしまった。確かに先輩は、俺の目から見ても、俗っぽい雰囲気を感じさせない。何というか、同世代の女の子とは決定的に違うのだけれど、その理由をうまく説明することは難しい。拙い分析をあえてするならば、それは先輩の視点や感性、興味の対象が、良くも悪くも平均的な女子高生のそれとかけ離れているためではないか……ということである。
放課後の貴重な時間を、友達と街にくり出すのでもなく、アルバイトに勤しむのでもなく、後輩と何をするでもなく過ごすだろうか? 青春って感じることがしたいとなると、恋人を作るなり、既存の大きな規模の部活動に所属して汗を流すなり手や頭を動かすなりするのが王道というか、本筋に沿ったやり方のはずなのに、この人の考えというのは(少なくとも俺には)理解の範囲外にあった。しかしおかげで、誰もが認める美人と何にはばかることなく二人で会うことができ、ちょっとした共同作業にだって取り組めたのだから、何も異論などない。
まがりなりにも一年の時から一緒に過ごしていて、先輩の心の内にはどんなに澄んだ空気が広がっていることだろう、と思ったことが何度もあった。図書室で過ごしている時に、図書カードを無くしたと半泣きになっている女子を目にして、自分も床に膝を付いて探し回ったことがあった。校門を出てすぐ前に広がる川にはトビウオの群れがいて、時折川辺を歩く人を襲うという冗談を話した時にはそれを本気にしてしまい、根拠も何も無いホラ話だと納得してもらうのに日が沈むほどかかったこともあった。
純粋で、健全で、悪く言うと幼さを残している気もするけれど、しかし七時までに律儀に家に帰っているというのは、正直なところ想像以上だった。
けれど俺は、そんな先輩が、決して嫌いではなかった。むしろ逆で、周りの色に染まらず、ずっと今の先輩のままでいてほしいとすら思っている。
それは、天然記念物を残しておきたい心理と、もしかしたら似ているのかもしれない。
それ以外に理由なんてないだろう? 誰にでもない自分に対して、そう刷り込ませる。先輩のことを考えると、いつも最後はそうして俺は何かを打ち消すような思考に落ち着いてしまう。