表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夏空に咲く一輪の  作者: バムガーナー
夏への扉
3/108

シャツの袖から伸びた、先輩の細い二の腕を俺は見ていた

 俺は、なるべく明日のことを考えないようにして教室を出た。そして、階段を下りずに、渡り廊下を横切り新校舎へと移り、もう一つ階段を上る。そこに、俺が会いに行く人がいる三年A組の教室がある。


 いつだって、上級生の教室が立ち並ぶエリアに足を踏み入れるのは、遠慮のない視線を浴びせられている気がして緊張してしまう。よりによって、A組は廊下の最奥にあった。


 開け放たれていた出入り口から教室を覗く。安い香水をあれこれ混ぜ合わせたような、ムッとした匂いがする。中には女の人しかおらず、俺の目的の人がどこにいるのか、判然としない。


「誰か探してるの」


 後ろから、誰かに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、ふわふわとした髪の毛の、大きな目をした女の人が俺を見上げていた。どこかで見たことのある顔だな、と思っていると、相手が先に「ああ、君ね」と手を叩いた。


「君、夏芽と一緒にいた後輩クンじゃない。久しぶりね」


「あ、はい。久しぶりです」


 とりあえず挨拶を返してから、ようやく目の前にいる人の正体に思い当たった。しかし今さらながら、名前を知らないことに気が付く。


「夏芽、呼んであげよっか」


「お願いしていいですか」


 すっと俺の横を通り抜けて、「夏芽ー」とよく通る声で教室中に呼びかけた。


 ここにきて、俺の心臓は少しずつ鼓動を速めていた。足元を見つめ、気持ちを落ち着かせる。六月に入った頃に新しくした、白いコンバースのジャックパーセル。気をつけて履いているつもりだけれど、つま先が少し汚れてしまっていた。


 久しぶりに会える。先輩に、会える。


「レイ」


 顔を上げると、その人はいた。トレードマークである長い黒髪が、波打つように揺れる。一つの曇りもない、素敵な笑顔を浮かべて俺を見ていた。


「久しぶりです、先輩」


 声が、裏返りそうになる。先輩は、そんな俺を見てまたくしゃりと笑った。


 そうだ。カーテンが消えたその時から、俺はきっと無意識にこの人――和久井夏芽わくいなつめ――のことを考えていた。


 彼女の笑顔が、何よりも輝く太陽を思わせたからだ。


「久しぶりだね。どうしてここまで来てくれたの?」


「最近、顔見てなかったんで。元気にしてるかと思って」


 実は、カーテンが無くなったことに端を発するんです、と馬鹿正直に言っても、先輩はきょとんとするだけだろう。


「私も、レイに会いたかったんだ。話したいこともあったしね」


「話したいこと、ですか」


「うん。あ、鞄取ってくるから、ちょっと待ってて」


 俺の返事も聞かずに先輩は教室の奥に行ってしまう。ふと、後ろの方で、さっき先輩を連れて来てくれた女の人が、数人で固まって俺を見ていた。何となく会釈をすると、何やらひそひそと声を潜めて話し、笑い出す。


 何なんだいったい。俺は廊下の教室から死角になるところまで移動し、窓に背中をつけて先輩を待つ。幸い、新校舎には陽が差し込んでいない。


「お待たせ。行こっか」


 学校指定のナイロン素材のカバンを持った先輩が、俺を待たずに歩き出した。どこに行くんですか、と訊ねそうになって、思い出す。この人と一緒に向かう場所なんて、ほとんど限られていたからだ。


「図書室、クーラーが効いているといいですね」


 それは、先輩にはわからない俺だけの密かな願望。これからの授業は、すべてあそこでやればいいのに、と俺は本気で思っていた。


「もう、夏だもんね」


 シャツの袖から伸びた、先輩の細い二の腕を俺は見ていた。この前会った時には、まだブレザーを着ていたはずだ。俺が感じているよりもずっと、季節は移ろっていたようだ。


「また、二人で……作れるから」


 前を向いたままの先輩が、小さな声で言った。


「え、何て言いました?」


 俺が訊ねても、髪の毛がいたずらっぽく揺れるだけだった。小さな子どものように弾んだ歩調は、春のころからずっと変わっていなかった。


 図書室を訪れるのは、実に二ヵ月半ぶりだった。一時期は密に通っていたというのに、きっかけが無くなってしまうと、足が遠のいてしまうものなのだと思った。


 俺と先輩がそれぞれ学年を一つ進めてから少しの間、二人で新聞を発行する活動に精を出していたことがあった。その際に、この図書室にはお世話になったのだ。人数が足りていなかったため、正式な部活動や同好会としては認められていなかったけれど、学校側から公式に発刊の依頼を受け、一つの立派な新聞を完成させたこともあった。


 そもそもなぜ、俺たちが新聞を作ることになったのかというと、話は年度をまたぎ、今年の三月にまで遡る。確かあの時も図書室に俺たちは入り浸っていた。お互い何かしらの本を手に取りながら雑談を交わしていたのだが、唐突に先輩は、今の学校生活が物足りない、というようなことを言い出したのだ。先輩は三年に進級する直前で、部活動などに参加せずに、貴重な時間をやり過ごしていいのか、悩んでいたのだと思う。当初はまさか、先輩の充実した青春のために自分も巻き込まれることになるとは、露ほども思っていなかったけれど。


 何かをしよう、という方向に話は進み、では何をしよう、という段階で行き詰っていたのだが、俺が提案した、新聞を発行する、というアイデアがそのまま先輩のツボにはまったようで、即座に採用された。


 そして四月、新入生に向けた、学校の情報を載せた新聞を発行すると、これがなかなか好評で、先生方からもお墨付きをもらった。次の発行も楽しみにしています、という匿名の便りも貰って、さあこれから軌道に乗るかという所で、活動の停止を余儀なくさせる理由が生まれた。ことわっておくと、それは決してネガティブな理由ではない。むしろ、喜ぶべき出来事だろう。しかし、俺と先輩を春から今日まで引き離す、決定的な出来事でもあった。


 先輩が、推薦入試を受けることになった。それも、秋ごろに実施されるものとは違い、夏休みの間に行われるという、ちょっと特別な推薦入試らしかった。


 先輩の言う所によると、その推薦枠は学年で一人にしか与えられないものらしい。最初に自分のところに話が来たから、親と相談して、受けることにしたのだそうだ。簡単に話していたけれど、きっと、悩んで悩んで悩みぬいた挙句に行使することを決めたのだと思う。


 通常の指定校推薦とは違い、学年で一人だけ。しかも夏に行われるのだから、送り出すのは学校の顔となる生徒でなければいけないのだろう。四月の内から説明会や模擬の面接に追われ、とても放課後に新聞を作ることができるような雰囲気ではなかった。


『私から誘っておいて、本当にごめんね』


 最初に話を聞かされた放課後、先輩は本当に申し訳なさそうな顔をして謝ってきた。俺は笑って先輩を励ました。やったじゃないですか、これから頑張ってくださいよ、と。


 その後は、先輩と会う機会は目に見えて減っていった。授業の合間に教室を移動するときや、昼休みなどに、偶然にその姿を見つけて、二、三言近況を話すことはあったけれど、まったく姿を見ないまま一週間が終わることもざらにあった。


 先輩の前では事もなげに振舞ったけれど、先輩に会えない時間が重なっていくたびに、自分の生活に、ぽっかり穴が空いたような気持ちが生まれていった。自分でも、驚いたほどだった。知らず知らずのうちに、俺はあの人と過ごす時間を、失いたくないものとして認識していたのだ。たまに、新聞を作るきっかけとなった出来事や、二人で手分けして校内を駆けずり回ったこと、そして先輩の笑顔を思い出すと、決まって寂しいような気持ちになった。


 とにかく、おかげで俺は、急に空いてしまった時間を埋めるために、近くのレストランでアルバイトを始めることになった。生まれて初めてのアルバイトだった。先輩が入試のための然るべき手続きを進めている間に、俺はレストランのホールで右往左往していた。


 久しぶりに訪れる図書室内には待望の冷気が充満していて、オアシスを見つけた砂漠の民の気持ちを片鱗でも味わったような気がした。


「やっぱり図書室は涼しいね」


 先輩は、奥に進み、カーテンのかかった窓際にほど近い所に設置されたテーブルからパイプ椅子を引き出し、軽やかに着席した。俺もその向かいに座る。既視感を覚えたけれど、なんてことはない。ここは、春に俺と先輩がよく居座っていた場所だった。


「どうですか、入試に向けて」


 俺が訊ねると、先輩は左手でその綺麗な髪の毛を耳にかけながら、花が開くように笑った。


「順調だよ。先生も、面接は当日も大丈夫だろうって。後は、小論文だけかな。今までかしこまった文章を書くことなんてなかったからさ、今必死で文の書き方から勉強中だよ」


「よかったです」


「レイの方は? アルバイト、ちゃんと頑張ってるの?」


「ぼちぼち頑張ってます」


「一回食べに行ってみたいなあ。今度、レイがバイトしてる最中に押しかけちゃおっかな」


「勘弁してくださいよ、醜態は晒したくないんです。それより、俺に話したいことがあるって、さっき言ってませんでしたか」


 気になっていたことを訊ねると、先輩は「そう!」と身を乗り出さんばかりの勢いで俺の方に向き直る。見ているこっちの心も躍ってしまうような、快活な笑顔だった。


「説明会がね、やっと一段落したの。期末テストも近いし、根を詰め過ぎてもいけないからって、夏休みが始まるまで、面接の練習もいったんお休みだって。小論文は個人で取り組んでおきなさい、って言われたけど、とにかく放課後は自由になるの」


 その先の言葉を勝手に補完して、わかりやすいくらいに俺の心臓が跳ねる。


「つまり、それって」


 うん、と先輩が頷く。サラリと机の上に髪が下り、冷風に運ばれた甘い香りが鼻を包んだ。


「ちょっとの間だけど、また、新聞部を再開できるんだ」


 これは、ご褒美だ、と思った。気持ちを切り替えてアルバイトに励み、日差しに耐えながら授業を乗り越えた俺への、ご褒美なのだ。授業中に寝てしまっていたのは、神様も見過ごしてくれたらしい。とにかく、また、先輩と一緒に新聞製作に取りかかれる。俺は、自分でも信じられないくらいに気持ちが高揚していることに気付いた。


「面接の時とか、いつも指導してくれる長内先生にもね、お願いしてみたんだ。少しの間でいいから、新聞を作らせてもらえないかって。最初は反対してたんだけど、根気強く頼んだらオーケーしてくれたよ」


 初めてかもしれない。長内に感謝したい気持ちになったのは。いつも甲高い声で英語の授業を進める長内。老けて見えるのにオサナイだなんて心で思っていたのを、今なら撤回してもいいと思えた。


「だから、もうちょっとだけ、よろしくね、レイ」


 ああ、きっと俺は、こんな笑顔をずっと見ていたいんだろうな。そう思わせるほどに、この人のスマイルは、ちょっと他の女性とは一線を画すのだ。


 空調の効いている図書室のはずなのに、俺は発火しそうなほどに頬が熱くなった。先輩の笑顔は時に、直視するには眩しすぎることがある。


 しかし先輩は、直後に俺を現実に引き戻すようなことを口にした。


「ただし、期末テストの勉強をおろそかにしてはいけないことが、活動の条件だって」


「おろそかに、ですか」


 無理やり口元を引き伸ばすように笑ってみたものの、ズバリ痛い所を突かれた。


「うん。誰と新聞を作るのかって訊かれて、二年の樋渡玲ひわたりれい君ですって答えたら、ちゃんと彼の成績をチェックしておくから、って言ってたよ」


「何で俺の名前を出すんですか」


「だって、レイと私で新聞部だもん」


 大きな瞳で、そんな真っ直ぐに見つめられて断言されたら、何も言い返せない。この人は、自分の容姿がいかに異性を惹きつけるのかを理解していない節がある。


「だから、レイもちゃんと勉強しなくちゃダメだよ。テスト、来週の水曜日からなんだから」


「わかり、ました」


 この人と、出来ない約束を取り付けるわけにはいかない。期待を裏切ってしまうと、哀しみの表情が表れてしまうからだ。誰だって、花が萎れてしまう瞬間は、見たくないはずだ。


 さっそく今日から新聞部(あくまで自称であるけれども)の活動を始めるのかと思いきや、出来ることならテスト期間の後からにしてほしい、と言われたのだそうだ。少なくともこの週末は、小論文を書いたり、テスト勉強に向き合ってほしい、ということなのだろう。今日の放課後からスタートするものと思っていたから、今日はこのまま解散するのだろうかと考えていたら、先輩はすかさず俺にこう提案してきた。


「今から、綾さんに会いたいな」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ