今、心の一番深い場所にいる
「もう、二人してどこまで行ってたのよ」
助手席と後部座席に別れてトレイルブレイザーのドアを開けると、車内はクーラーが効いていた。運転席に座っていた姉ちゃんは開口一番俺たちを叱責する。
「ごめんなさい」
悪戯がばれてしまった子どもみたいに苦笑いを浮かべている先輩。そんな姿を見ても、不自然な胸の高鳴りは生まれない。そのことに、俺は少しだけほっとした。
「レイ、携帯持っていってなかったでしょ。連絡をとれるのが貴方だけなんだから、肌身離さず持ってなきゃ意味がないじゃない」
まさに返す言葉もなかった。
シートに置き去りにされていた携帯を拾う。時刻は二十時二十分。体感よりもずっと、先輩と一緒にいた時間は短かった。
「二人とも、ちゃんと蛍は見れたの?」
シートベルトをしながら姉ちゃんが訊ねる。なんだかんだと、俺たちのことを気にしてくれているのだ。助手席から、先輩が俺の方まで顔を向けた。
視線がぶつかる。不自然な胸の高鳴りに代わり、どこか懐かしさを覚えるあたたかい光が、胸に灯った気がした。車内は暗かったけれど、先輩の表情はうっすらと見てとれた。
そこで俺は、ようやく思い知る。先輩と手を繋いで歩いたあの時間が、夢なんかじゃなかったのだと。
「見れました」
「見れたよ」
ほとんど同時に俺たちは返事をした。
車が走り出してすぐ、どうやらまた俺は眠ってしまっていたみたいだ。目を開けると、窓の外の流れる街灯が入り込んでくる。頭をもたせ掛けている窓が心地よく振動している。
前の席では、姉ちゃんと先輩が何やら話しているようだった。明るい笑い声が聞こえる。
「あの先生、私がいた時もそうだったわよ」
「じゃあ本当に変わってないんですね」
また笑い声。話に割って入ることもできなさそうだ。もう一度、俺は目を閉じた。
「話、変わっちゃいますけど」
「うん」
「レイ、この一年で変わりましたね」
突然俺の名前が出てきて、思わず体を起こしそうになる。ゆっくりと薄目を開けると、先輩はこちらを振り向いていた。俺の様子を気にしているらしい。何となく、このまま狸寝入りを決め込んだ方がよさそうだと思った。
「夏芽も、そう思うんだ」
先輩も、ということは、姉ちゃんも、少なからず俺に変化があったと感じているということだろうか。自分では、一年と数ヶ月の高校生活で、大きな変化があったとは、到底思えない。
「はい。人当たりがよくなったというか。優しくなったというか」
「姉バカかもしれないけど、レイはもともと心根の優しい子なのよ。いつからか、ちょっと棘のある雰囲気が強くなっちゃったけど」
「じゃあ、優しいレイに戻ったんですね」
優しいレイ、だなんて言われると、何だか落ち着かない気持ちになる。俺は本当に優しい人間なのか、と自問自答したくなった。
「でもそれって、夏芽と出会ってからかもね」
「そんな……私なんかより、もっとレイにいい影響を与えている友達がいますよ」
「そうなの? 私、あの子の交友関係はよくわからないけど、レイの中では、夏芽の存在がかなり大きいと思うわよ」
俺の中での、先輩。
先輩は、太陽のような人だと思う。いつも笑顔という名の光を絶やさず、それが見えないと俺の心は晴れない。
それだけ? いや、違う。
先輩は、俺を引っ張ってくれた。退屈から抜け切れていない、わずかに影がかかったような日常を照らし、陽の当たる場所に連れだしてくれた。一緒に学校生活を過ごす友達がいる一方で、新聞部の活動を、確かに俺は望んでいた。先輩と会えなかったこの二ヵ月あまりは、あまりに無味乾燥に過ぎた。
そして。
――今、心の一番深い場所にいる。
それの正体はわからない。あまりに巨大すぎて全貌が知れない、暗闇に鎖で繋がれた大きな生き物と対峙しているかのように、俺はその感情と向き合えない。
「そう、ですか」
先輩は、照れたようにそう答えた。車がやや急ブレーキ気味に止まる。エンジン音が低く鳴っている。きっと、今日びのエコカーはもっと静かなのだろうか。ポルシェやランボルギーニに乗るようなあの二人のことだから、燃費の良さと静かなだけがウリの車なんて、絶対に買うことはないだろう。
どうでもいいことを考えてしまったのは、きっと頭を整理したかったからだ。今はまだ、心の中のそいつも眠っている。無理に突いて目覚めさせる必要はないじゃないか。
目を閉じたまま、一つため息を吐く。再び車が発進したのと同時に、意識を手放そうと試みる。今日は何だか、よく眠ってしまう。