交わす言葉も鼻歌もない
名前もわからない虫の鳴き声が、暗闇を覆うように満ちている。俺たちは手と手で繋がったまま一言も話さず、一歩たりとも動けずにいた。繋がれた掌から、先輩の鼓動が伝わっている気がする。もしかしたら、俺の方も筒抜けだったりするのだろうか。口の中がほとんど干上がってしまっているほどの、過去に覚えがないほどのこの緊張が。
「レイの手、初めて握った」
先に沈黙を破ったのは先輩の方だった。そのことにどれほど安堵しただろう。このままお互いに口を開かず、虫の声に頭をぐるぐるとかき回されていると、突拍子もないことを口走ってしまいそうだった。
「俺も初めて先輩の手握りましたよ」
ほとんど鸚鵡返しだ。しかも、声が上ずりそうになってそのことに気をかけるあまり、何を言っているのか聞き取ってもらえたかどうかも怪しいほどに早口で話してしまった。
「手、大きいね」
「男ですから」
「そうだよね。レイも、男の子だもんね」
「今更何言ってるんですか」
クスリと、声に出さずに先輩が笑う。指先に意識が向いてしまっている間に、笑顔の気配は闇に紛れてしまっていた。
先輩がどんな顔をしているのか、暗闇で窺い知れない。少し目が慣れてきたとはいえ、まだ輪郭がおぼろげに把握出来る程度だ。
けれどおそらく、先輩はもう笑ってはいないような気がした。恐怖に怯えているわけでも、泣きそうになっているわけでもない。ただもし、仮にその顔を見ることが出来たとしても、真意は読み取れない。
そんな顔を、しているのだろうと思った。
すっかり役に立たなくなった懐中電灯を先輩から預かり、ゆっくりと来た道を戻り出した。土の匂いが鼻をかすめて、風に流されていく。木々のさざめきが、耳に優しい。何も警戒しなくてもいいんだよと、今更俺たちを受け入れようとするかのようだった。
「綾さん、心配してるかな」
ぽつりと呟いたその声が、風に遮られずにどうにか耳に届く。
「多分、携帯を持っていくのを忘れた俺が一番に叱られますよ」
「そうかな」
よかった。先輩も、どうにか自然に笑うことが出来ている。繋がれた右手に優しく力を入れると、呼応するように先輩の方も優しく力を入れる。横目で見やるも、表情はまだはっきりとはわからない。鼻歌も聞こえない。
先輩は、俺と手を繋いでいる今この瞬間、いったい何を考えているのだろう。今ほど、先輩の胸の内を覗けたらと思うことはなかった。
「ごめんね。私が、奥に行こうって言いださなかったら、こんなことにならなかったのに」
「いえ。俺の方こそ、先輩をけしかけるようなこと言っちゃいましたし」
「じゃあ、お互い様かな?」
「はい」
お互い様。先輩は、本当に俺と同じですか?
いつの間にか、質問の中身が変わっていた。
(先輩は、俺と同じ気持ちですか。手を繋いで、心臓が破裂しそうなほどドキドキして、いつも通り歩くのにも一苦労していますか?)
真っ直ぐに前を向いて、祈るような気持ちで、訊ねる。先輩がどんな顔をしているのか、俺にはわからない。
今は、何も考えたくはなかった。自分の中に萌しが見えた感情も、先輩の心情も。
ただ、先輩の手を握っている。汗ばんでいても、離れることはなく。
その事実を噛み締めながら、ゆっくりとこの道を歩きたかった。
林道の出口が、遠くに見える。最後の曲がり道を出たのだ。こちらから見ると、出口は蛍の光でかすかに明るく切り取られて見えた。待望ともいえる、不安の終わり。もっとも、今の俺はその光を遠ざけてでも、先輩の歩幅で進む今の道を踏みしめたいと思っていた。そして、その理由を考えようとすると、胸が焼けるように熱くなった。
「やっと、見えてきたね」
「そうですね」
足元に目を遣ると、先輩のスタンスミスと俺のベンチレーターが交互に進んでいく。水の中を歩いているようなもどかしい速度だというのに、焦燥感が生まれる。
「……ありがとう、レイ」
「いえ」
うまく口が動かない。このまま車まで繋いであげましょうか、と軽口を叩く事だって、普段だったらできただろうか。いつものペースで接することが困難なのは、あの特殊なシチュエーションのせいだと思いたい。暗がりに怯えている先輩。助ける事が出来るのは、俺だけ。まさか見て見ぬふりだなんて、そんな選択肢はあるはずがない。そう、だから、消去法的に俺が助け船を出したのだ。文字通り、手を差し伸べた。下心も、特別な感情もない。……そうだろう?
というより、それ以外の可能性を受け入れるのは、今の俺にはちょっと出来そうにはなかった。
階段の前で立ち止まる。ホタルは、俺たちが林道を慌ただしく往復している間にも、変わらず飛び交っている。さすがに真新しさは無かった。
「明るくなったね」
「はい」
止まない雨や明けない夜がないように、永遠に続く林道もまたない。結局のところ、俺も先輩とは違った意味で、解放されたのかもしれなかった。
「私の方がお姉さんなのに、恥ずかしいところ見せちゃったね」
「今度、特訓しましょうか」
「特訓?」
「もうすぐショッピングモールにお化け屋敷が出来るみたいなんで、チャレンジしてみましょう」
「ヤダ! 絶対ヤダ!」
先輩の首の動きに連動して、長い髪の毛が円を描く。さっきまでなら素直に笑えていたはずなのに、表情がスムーズに動かない。身体の中で小さなねずみ花火がぐるぐるとまわっているような、そんなもどかしさがあった。
階段を降り切った時、先輩が立ち止まった。半歩先に足を進めたところでそれに気づく。
「どうしたんですか」
振り向いて、先輩の表情を見てしまった時に、俺には次の言葉がわかってしまった。
「手、どうしようか」
先輩は困ったように笑っていた。
生温い風が、汗をさらっていく。それでも次から吹き出てくる。湿気のせいではない。体の内から、熱が吹き出るようにして、今までに経験したことのないような感情が静かに荒れ狂っているのがわかった。
「どうしましょうか。姉ちゃん、きっと車で待ってまよ」
訊きながら、どうしたいかなんて決まりきっていた。ただ、先輩の本音と自分の願いがかけ離れたものだったらと思うと、口がすくんでしまう。
結論付けるのは、まだ早い。客観的に自分を見ろよ。今のシチュエーションは、吊り橋効果というやつの、延長線上だろ?
自分にいくら言い聞かせても、心臓は治まらない。治まるはずがないことなんて、誰より自分が知っていた。
「私は……」
手を握る力が、強まる。ほんの、少しだけ。それは先輩の答え。俯いていた顔をあげると、俺の後ろで先輩は笑っていた。唇を結んで、恥ずかしそうに。出会ってから、きっと初めて見せた表情に、言い訳のしようのないくらい、心を撃ち抜かれる。
「駐車場までだったら、このままでいいよ」
そこからは、さすがに恥ずかしいから。
空いた手で髪を耳にかけながら、小さく一歩を踏む。今度は、俺が遅れをとる格好になった。
頭では、もう何も考えられない。俺はショートしそうな意識を遠ざけるように、二人の歩幅を数えていた。
交わす言葉も鼻歌もない。先輩の表情もわからない。蛍の河原を通り抜け、一向に揃わないテンポで砂利を踏みしめながら、俺たちは進んだ。まるで夢を見ているかのような三百八十二歩を経て駐車場の明かりが見えると、繋がれた右手はあっけなく離れていった。