しっとりと柔らかく、少しだけ、冷たかった
階段を上り終えると、目の前には明かりのない空間がぽっかりと大口を開けて俺たちを出迎える。不思議と一匹の蛍も迷い込んではいなく、広がるのは気の遠くなるような漆黒だった。俺は先輩をけしかけたことを純粋に後悔していた。
「やっぱり、戻りましょうよ。迷ったら大変ですって」
立ち止まったまま前に進めないでいる先輩に、先ほど自身が口にしていた言葉をそのままぶつけるが、どうやら届いていないらしい。何かと対峙するように正面を見つめたまま、俺の方に向き直る気配もない。
しかしやがて先輩も覚悟を決めたようだ。一条の光が、まっすぐに俺たちの進む先へと伸びる。光というのは、これ以上ないほどにわかりやすく、正しい直線を描く。
「さ、行こう」
そう言って先輩はやたらと早足で奥へと進んでいった。足元の情報が頼りない中で危ないと思う一方で、小さな子供のような意地が見え隠れするその背中に微笑ましさを覚える。
こうなった以上、先輩を守ることができるのは俺しかいない。勝手だとは思うけれど、今はナイトを気取ってもいいだろう。自分にそう言い聞かせると、不思議と気分が上がる。
――まさか、な。
無意識のうちに、俺はこうなること――つまり、先輩と二人の時間の終わりが先延ばしになること――を期待して、ここまでこの人を誘っただなんて、そんな本音は、ちょっと短絡的すぎる。
木々の懐ともいえるその場所に一歩足を踏み入れると、空気が僅かにひんやりとしたのを肌で感じる。右往左往しているライトの明かりが、先輩の内なる動揺を如実に知らせてくれる。川の流れは遠くなり、替わりに虫たちの鳴き声が一層身近に感じられた。道が途切れたら引きかえそう、と先輩が一人で取り決め、ゆっくりと林道を進んでいく。
「ねえ、レイ」
一分ほど無言のまま足を進めていた時、沈黙に耐えかねたのか、すがるようなか細い声で先輩が俺を呼んだ。
「なんですか」
「何か面白い話、してよ」
「そんなこと、急に言われても」
細かな砂利が敷き詰められた林道を、先輩のペースに合わせてゆっくりと進んでいく。普段の半歩ほどの歩幅だけれど、不思議と窮屈な感じはなかった。ただ、周囲に誰もいない、二人きりという状況が、徐々に俺に緊張感を与えていく。もしも今、先輩が何かに驚いて、手でも握ってこようものなら、まともに口もきけないかもしれなかった。
「怖い話なら、いくらでもあるんですけどね」
「そ、そんな話したら、ビンタするからね!」
その声は笑ってしまうほど震えていたけれど、本当に実行されても困るため、最近耳にした怪談話ではなく、どうにか先輩の笑ってくれそうな話題を探す。記憶をひっくり返すこと数十秒、ようやく、一つそれらしいものを発掘した。
「ムーンウォークって、あるじゃないですか」
「マイケル・ジャクソンがやってたやつ?」
「はい」
これから話す、その当時の光景を思い出しただけで、俺は思わず吹き出してしまった。横の先輩も、今は恐怖を忘れているのか、笑いが滲んだ声で「それでどうしたの」と急かしてくる。
「ある時、学校の帰りに友達がですね、『俺はムーンウォークで高速移動ができる。ムーンランだ』とか言って、その場でムーンウォークを始めたんですよ」
「それがへたっぴだったの?」
「いえ、悔しいけど、ちゃんと様になってたんですよ。それがどんどん速くなっていって、一緒にいた別の友達と、すげーすげーって盛り上がってたんですよ。そしたら調子に乗っちゃって、どんどん歩道を進んでいったら」
「いったら?」
「後ろから来た自転車と激突したんです」
先輩と同時に、俺も笑い声が出てしまった。
「あはは、何それ。危なすぎるよ」
「しかも、自転車に乗ってたのが結構ぽっちゃりしたおばさんで、わりとスピードも出てたもんですから、そいつ三メートルくらい吹っ飛ばされたんですよ」
「ダメ、ダメ。お腹痛いよ!」
あははは、と先輩はお腹を押さえて立ち止まってしまう。さすが、俺の中の鉄板ネタだ。
ムーンランで自転車とぶつかった馬鹿はもちろん慶次だ。一緒にいた嘉樹と俺は、シャカシャカと足を動かしている最中に吹っ飛ばされた慶次を見て、今の先輩の三倍は激しくお腹を抱えて笑った。笑いすぎて俺は呼吸がままならないほど苦しくなったし、嘉樹は涙まで流していた。後にも先にも、あの出来事を超える衝撃はそうそう現れないだろう。
その後言うまでもなく俺たちは自転車に乗っていたおばさんにお叱りを受けた。どう考えてもこちら(と言うより慶次)が悪いのだけれど、激突した張本人である慶次が、『おばさんだって歩道を走ってたじゃねえか』と自分の間抜けな行為を軽々と棚に上げて指摘したおかげで、相手を激昂させてしまい、その後解放されるまでに一時間近くかかってしまったのも、今では良い思い出だ。
「その友達、怪我はなかったの?」
「ピンピンしてましたよ」
骨の一本くらい折れば少しはおとなしくなるだろうと思っていたのだけれど、あれだけ派手に吹っ飛んだというのに怪我一つなかったのだ。悪運が強いというほかない。
「そっか、よかった」
あんな奴の心配なんて、する必要ないですよ。喉まで出かかった言葉を、飲み込む。そんなことをわざわざ口にする必要なんて、どこにもないと思った。
俺の渾身の話術が功を奏したのか、当初先輩を苛んでいた不安や恐怖は軽減されたようで、声の調子や、ややリズムの悪い鼻唄も、普段の調子に戻りつつあった。暗闇に慣れたおかげで林道もかなり視認しやすくなっており、風も心地良く吹いていた。ザッザッと砂利を踏む乾いた音と、虫の鳴き声が合わさって耳に心地よかった。
先輩と並んで、百メートルほど進んだだろうか。林道は分岐路もなく一本道ではあったものの、緩やかに湾曲しており、入り口の正確な方向は把握できない。今になって少しだけ、不安感が寒気のように背中を走る。せめて携帯を持ってくれば、と準備の悪さを悔やんだ。
「でもよかった。レイが面白い話をしてくれたから、もう全然怖くないよ」
そりゃよかったです、と俺は言った。返事の素っ気なさに先輩は気付いていないのか、相変わらず内容のわかりかねる鼻歌を続けており、すっかり上機嫌だ。
しかし、自分の中に、不安を含んだ予感のようなものが生まれていることに気づく。先輩の中に芽生えていた恐怖感が、形を変えて俺の中に入り込んだような、そんな気がした。
そして、その予感は的中した。
「あれ、ライトの調子、悪くない?」
二人の行く先を照らす光が、短い間隔で明滅する。そして、思わず立ち止まった俺たちを置き去りにするかのように、まったくの猶予も許さず一筋の光はあっけなく消えてしまった。
「ど、どうしよう、消えちゃったよ」
途端に先輩の声が頼りないそれになる。無理もないだろう。たかが一本の懐中電灯でも、その光源を失えば、林道は何もかもを拒絶するような闇に呑まれてしまったのだから。
「落ち着いてください。ひとまず、ゆっくりでいいから来た道を引き返しましょう。その内目も慣れるはずですから」
努めて冷静に話してみても、先輩はすっかり怯えてしまっているようで、俺の言葉は十分に届いていないようだった。
「全然見えないよ。レイ、どこにいるの?」
悲痛なまでに震えた声だった。まるで脳に直接響き、本能に訴えかけ、胸を締め付けた。
だから、そうすることに迷いはなかった。
「……レイ?」
「はい」
「手、握ってくれてるの?」
「……はい」
初めて触れた、先輩の小さな手。しっとりと柔らかく、少しだけ、冷たかった。