私も、来年になったらちゃんと大学生してるのかなあ
対岸までかかった足の短い木製の橋を、一列になって並ぶ。先輩の後ろを歩いていると、視線がどうしても、すでに風景として溶け込みつつある蛍よりこの人に向いてしまう。柔らかそうな髪の毛から、スタンスミスの踵まで。薄暗い夜の川の上を歩く先輩の後ろ姿を眺めるだなんて限定的な機会は、今日を逃すともう二度とない気がする。
川の向こう側に行ってみようよ、と先輩が提案したきり、俺たちの間に会話はなかった。一人で先に歩き出してしまった背中を追い、幅の狭い橋の上を歩いている今に至るまで、先輩の表情は窺い知れない。
「綾さん、大変そうだね」
「そうですね」
「大学生になったら、やっぱり色々と忙しいのかな」
大学生になった先輩。そんなの、想像もできない。先輩はずっと先輩のままで、制服を着て俺の名前を呼んでくれると、なぜだか俺は今までずっと信じていた。この人の推薦入試の話が決まったのはもう数か月も前の話だというのに。
「ゼミだとかサークルに入ったら、多忙になるでしょうね。バイトとかも始めたら、もっと忙しくなりそうですよ」
先輩からの返事はなかった。もしかしたら、川の音で聞こえなかったのかもしれないと思って、もう一度口を開こうとした。
「私も、来年になったらちゃんと大学生してるのかなあ」
橋を渡り終えた時、先輩が立ち止まる。つむじが、僅かに動いた。どうやら、空を見上げているらしい。俺もつられて見上げる。蛍の光が生きている星のように旋回している。
「ちゃんと推薦入試を頑張らないと、大学生できませんよ」
「わ、わかってるよ。レイったら、意地悪なこと言わないで」
「もしかしたら来年、先輩と同じクラスだったりして」
「ヤだよそんなの! 恥ずかしくて学校行けないよ」
俺は笑いながら、心の中では少しだけ虚ろな風を感じていた。来年、俺が三年になる頃には先輩はいないのだ。慶次や嘉樹、草野は変わらずに同じ学校にいるというのに、和久井夏芽だけがいない。それは何だか、上手く想像できない光景だった。
生温かい風が吹く。草の揺れる掠れた音が虫の鳴き声と川の流れの音に交じり、夜を身近にする。対岸を歩くと、ちょっとした雑木林が見える。先へと通じる階段の脇に立っている外灯の存在感はあまりなく、暗がりに立ち並ぶ木々は、舞い踊る蛍の光に威圧感を半減させていた。だから俺は、先輩の背中に声をかけた。
「もうちょっと、奥に行ってみませんか」
「え、この林の?」
上擦った声を上げて、こちらを振り返る。その目が僅かに見開かれていて、動揺を伝えてくる。そういえば、この人はお化け屋敷やホラー映画が大の苦手だ。それに伴い、何かが”出そう”な空間を、何より嫌っている。
しかし、それを理解した上で、自分の中に、悪戯心が芽生えたのがわかった。
「もしかして、怖いんですか」
「そ、そんなこと……」
先輩は言葉に詰まってしまう。そして雑木林の方に顔を向けて、再び俺を見る。何かを堪えるように、唇を結んでいた。
「中、く、暗そうだよ。道に迷ったら、大変だよ」
「懐中電灯、持ってきてますよ」
姉ちゃんから預かったトートバッグから、それを取り出す。一本しかないものの、スイッチを入れると確かに光る。
何も言えずにいる先輩が、悔しそうに俺を見上げる。何だか小さい子どもをいじめているみたいな気持ちになってしまう。そろそろ引き際だな、と思った。
「冗談ですって。戻りましょう」
「いいよ。行こう」
先輩が言い切って、懐中電灯を俺から奪うようにして手に取った。
「ほら、レイ、行くよ」
ぎこちなく俺を呼んで、先輩は階段のある方へと砂利を踏み鳴らしながら向かってしまう。
もしかして、先輩に火をつけてしまったか。
「レイ、早く来てよ」
「は、はい」
先輩と二人で過ごす時間は、まだもう少し終わりそうにない。