姉ちゃんの運転するトレイルブレイザーに乗った甲斐があった
「ほら、ついたよ」
身体を揺さぶられる感覚に目を覚ますと、先輩が隣に座っていた。
「もうですか」
「レイって、本当によく寝るよね」
「今日はバイトだったんで、ちょっと疲れてるんですよ」
「いびきかいてたよ」
「嘘つかないでください」
クスリと先輩は笑った。コンビニを出てからこっち、先輩に寝顔を見られていたのかと思うと、何となく恥ずかしい気分だ。口元を隠しながら欠伸をする。
先に言ってるね、とドアを開けて車内から地上に降りた先輩に続く。外はもう夜の空だ。日は沈んでいるけれど、蒸し暑くて風のない夜だった。ここは駐車場らしく、数はまばらであるが他にも車が停まってあった。
「さ、行きましょうか」
姉ちゃんが車のロックを確認して、俺と先輩を先導するように先に歩道を進んでいく。手ぶらだった俺は、姉ちゃんが肩にかけていたマリメッコのトートバッグを預かった。意外と重いその中身は、小ぶりな懐中電灯と、レジャーシートだった。
「公園の裏手に、小川が流れてるんだって」
外灯が心もとなくても、その弾んだ声から先輩の表情が手に取るようにわかる。こちらまでもつられてしまうようなスマイルが頭の中にはっきりと映し出されて、俺はそれを打ち消す。これから蛍を見ようというときに、先輩の笑顔というイメージは、あまりに明るすぎるからだ。
歩道を抜けて公園に入ると、足元が芝生の柔らかい感触に変わる。親子やカップルの姿がちらほらと見られた。前にテレビで、ここではないホタルの名所の様子が中継されていた時は、もっと人が多かった。ここが穴場だというのは、どうやら本当らしい。
「今日はほとんど風もないし、ホタル観賞には申し分ない天気ね」
姉ちゃんは、先月二十歳になった時に親父から譲り受けたデジタル一眼レフカメラを操作している。先輩が、「綾さん、本当に楽しそうだね」と耳打ちしてきた。確かに、今日ほど上機嫌な姉ちゃんを見るのも久しぶりのことだった。
公園自体は小さな面積で、学校の体育館ほどの広さだった。いくつもの植樹で視界が塞がれていて、本当に公園の向こうに蛍がいるのか、ほとんど疑わしいほどだった。けれど、木と木の間にある階段に差しかかったとき、それは突然、俺たちの視界に入り込んできた。
「うわあ」
最初に声を上げたのは先輩だった。そして姉ちゃんも、俺も、口から感嘆が漏れる。息を呑む、というのは、こういうことなのか、と思った。
眼下に広がるのは、まるで星空が地上に落ちてきたかのような世界だった。蛍の光が儚い、だなんて、それは嘘だ。だって、彼らの放つ金色の光は、溢れんばかりの生命力に満ち満ちているからだ。それらは湾曲し、旋回し、上昇し、下降しながら光っている。瞬きを一つしても夢のような光は消えることはなく、俺は自分が超自然的なアートを作り出す過程に立ち会っているような気がした。
周囲に人工的な明かりは一切ない。それでも、流れる川は仄かに青く光り、ほとりは草の緑を浮き上がらせている。空には、月も出ていない。ただあるのは、静かな蛍の乱舞と、涼しげな川の流れ。そして、キイキイと高く鳴く虫の声。世界は、それだけで形成されていた。
「す……ごい。蛍って、こんなにきれいなんだ」
先輩の声に、驚きと感動がこもっているのが伝わった。それは、今の世界にふさわしい音色だと思った。
「綺麗ですね」
俺がそんな月並みなことを言うと、先輩も「うん、綺麗」と続ける。今日、ここに来てよかった、と実感する。姉ちゃんの運転するトレイルブレイザーに乗った甲斐があった、と。
後ろから、「うわあ綺麗!」子どもの声がした。立ち止まっていた俺たちは階段を下に降りて、蛍に近づく。下に向かうにつれて光が大きく鮮やかになっていき、姉ちゃんと先輩は二人で声を上げていた。俺も、子どものころに見た蛍とはずいぶん印象が違うよなあ、と一人で感動を噛み締めていた。大げさかもしれないけれど、今日の景色はちょっと忘れられそうにない。
階段を降り切ると、足元で敷き詰められた小石が音を立てる。川の音もより一層近くなり、虫の声を打ち消す。すぐ脇には、≪蛍を守ろう≫と保護団体によって書かれた立て看板があった。
ゆっくりと川辺に向かい歩く。蛍が光線を描いて横切るたびに、先輩と姉ちゃんは声を上げていた。俺のポロシャツの左胸部、ちょうど心臓がある辺りに、その数えきれないうちの一匹が止まる。鹿の子素材の赤色とラコステのワニのロゴを浮かび上がらせて、不思議な温かさを届けてくれる。
「あそこの蛍、点滅してる」
姉ちゃんが指さした先には、膝元あたりまで伸びた草が広がっていて、その先端部分に明滅を繰り返す光があった。
「あれは、雌の蛍ですね」
すかさず先輩が答える。
「夏芽、詳しいのね」
「実は昨日、蛍についてちょっと調べたんです」
ベッドの上で寝転びながら、昆虫図鑑でも広げていたんだろうか。そんな微笑ましい様子が脳内に広がる。
「雄の蛍は、点滅する光で雌を見分けるそうです。中には雌と同じ光り方をして、寄ってきた雄を食べちゃう蛍もいるみたいですよ」
得意げに話す先輩がおかしくて、思わず笑いそうになる。
どうして、俺はこんなにもこの人の笑顔に、言動に、心を動かされるのだろう。自分でも不思議だった。例えば他の女の子に対して、同じような頻度で笑顔にさせられたり、あれこれと想像を巡らせたりはしない。
――もしかしたら。
その先の思考に、俺は無意識に蓋をした。
先輩の横顔が、そっと光に映し出されている。行き交う蛍光が描く光と影が、非現実的に先輩を引き立てていた。
俺たちが草をかき分けながら川のほとりまで辿り着いたとき、携帯の着信音が場違いな音を上げた。三人の内携帯電話を持っているのは先輩を除く二人で、俺は車の中に電話を置きっぱなしてしまった。となると鳴っているのは姉ちゃんの電話ということになる。
「こんな時に誰よもう」
文句を言いながら姉ちゃんが画面を見た。横から覗くと、”ミホさん”と表示されている。ディスプレイをスライドさせて、耳元に当て、はいもしもし、と話しながら俺たちから離れていく。会話が遠ざかっていき、蛍の世界が再び戻ってくる。
「蛍、綺麗だね」
「はい」
さっき、変にこの人のことを考えてしまったからか、声が上ずりそうになる。すぐそこに姉ちゃんがいるとはいえ、二人になっている。普段とはまるで別世界に身を置いているからか、いつもより存在を意識してしまう。
「これだけいっぱいの蛍が家にいたら、夜が待ち遠しくなるね」
「まずこれだけの数の虫が家にいたら、非常事態ですよ」
「レイってば、夢のないこと言うんだから」
「先輩が夢を見すぎなんです」
もちろんそれは悪いことじゃないですけど。それだけ付け足すことが、何だか気恥ずかしかった。
「明日から、また勉強だね」
「急に現実的になりましたね」
俺がそう言うと、先輩は声を上げて笑った。目の前を一筋の明かりが通り過ぎる。
「ごめんね、雰囲気壊しちゃって」
電話を終えた姉ちゃんが戻ってくる。先輩と二人の時間が終わり、名残惜しいような、ほっとしたようなどっちつかずの気持ちが残る。不思議と、自分でもどちらが正解なのか、上手く判断できなかった。
「電話、誰からだったんですか」
「ゼミの先輩。来週、合宿があるから、スケジュールの確認でね。それで、今からまた別の先輩と連絡を取らなきゃいけなくなったの」
申し訳なさそうな表情を、蛍火が淡く照らす。
「それがすぐに終わりそうになくてね。だから、一旦車に戻って電話してくるわ。貴方たち二人になるけれど、ゆっくりホタル観賞を楽しんでてくれるかしら」
言うが早いか、姉ちゃんは俺たちの返事も待たず、携帯を耳に当てながら、慌ただしい足取りで来た道を戻り、階段を一段飛ばしで登っていく。その姿が見えなくなるまで、俺と先輩はお互い一言も口をきかず、背中を見送った。
二度と巡ってはこないと考えていたシチュエーションが、さらに確実な要素を含んで舞い戻ってきた。物わかりの悪いこの頭でも、その事実を認めるのに時間はかからなかった。
「二人だけに、なっちゃったね」
呟きのような小さな声だった。先輩の方を見ると、目が合う。俺を見上げて、少し困ったように笑った。