正直な先輩は、嘘を付けない
時計が六時を回った頃に、家を出た。楽しみな反面、ついにこの時が来たか、と思ってしまう。
「そういえば、綾さんって自分で車を買ったんですか?」
玄関の裏手にあるガレージに向かいながら、先輩が姉ちゃんにそう訊いた。
「ううん。アルバイトだってろくに出来ていないのに、車なんて買えないからね。お父さんの車を借りるのよ」
「へええ、どんな車なんだろう」
今まさに二人が話している、車。今日俺たち三人が乗り込む、その車こそが、俺の不安の種だった。
我が家のガレージは普段はシャッターが下りているから、先輩はその中を見たことがないはずだった。どこか得意げな面持ちで、姉ちゃんが持ってきたリモコンのボタンを押すと、静かにシャッターが上がる。そしていよいよ、そこに入れられている黒いボディが久しぶりに日の目を見る。
「え……」
完全にシャッターが上がり、先輩が初めて車と対面する。きっと、カラフルで丸っこい形をした軽自動車を想像していたんだろう。何せ、二十歳のペーパードライバーが乗る車なのだ。
「綾さん、これに乗るんですか?」
「うん。カッコいいでしょ?」
先輩は、はい、と辛うじて口から洩れたといった具合の返事を寄越した。しかし姉ちゃんは気にしていない様子で、鼻唄をうたいながら運転席のドアを開けた。
我が家の愛車は、シボレーのトレイルブレイザー。先輩の可愛らしいイメージを打ち砕くアメ車は、堂々とした体躯のSUVだった。
直列6気筒DOHCを搭載した七人乗りのSUV車は、とにかくデカい。ランドクルーザーと比べても遜色ないほどだ。タントやココアに乗る女子大生はいても、トレイルブレイザーの左ハンドルを握る薬剤師志望の女子大生なんて、そうはいないだろう。
俺は、姉ちゃんが運転するこの車に最初に同乗したのだが、その際に、ちょっとしたトラウマを植え付けられたのだ。
五月、姉ちゃんが買い物に行くけれど一緒に来ないか、と俺を誘ってきた。普段は親父が運転していた車の運転席に姉ちゃんがいるのが何だか新鮮だな、と思ったくらいだった。姉ちゃんが「やっぱり教習車と違うわねえ」と言っていた時点で、俺は危うさに気付くべきだったのだ。
最初にガレージから出る直前、通りかかった小学生くらいの子どもを轢きかけた。泣いてしまった子どもをあやしてからスーパーに向ったのだけれど、バックで駐車をする時に、横の車に何度も擦りそうになった。結局、見慣れない傷を二つほど作っただけで、二人とも五体満足で家に帰ることができたけれど、俺はほとんど歩いてもいないのに、疲労困憊だった。それ以来姉ちゃんの運転するトレイルブレイザーには乗っていない。
「おい、大丈夫なんだろうな」
後部座席から耳打ちすると、姉ちゃんはオーディオのボタンの位置を確認していた手を止めて自信満々に大丈夫よお、と腕捲りをした。その自身の根拠がどこから湧いて出ているのか、俺にはわからなかった。
「綾さん、こんな大きな車、本当に運転できるんですか?」
助手席に座りシートベルト締めた先輩が、車内をあちこち見渡しながら、姉ちゃんに言う。
「なあに、夏芽も心配なの」
「……ちょっと」
正直な先輩は、嘘を付けない。
「もう、二人とも心配しなくても事故なんて起こさないわよ」
キーを差し込み、エンジンをかけると、低く音を立てながら車内が微動する。不安な気持ちを最後まで消せないままのドライブとなった。
「この車、綾さんも気に入ってるんですか?」
空いている県道を、六十キロで走っていた。ようやく先輩も肩の力が抜けたのか、少し倒したシートにもたれてまっすぐフロントガラスを見ていた。
「よくわかったわね、夏芽」
「何となく、そうかなって思って」
褒めてもらったせいか、どこか得意そうに笑った。
「このトレイルブレイザーはね。昔からお父さんが持ってる車の一つなんだけど、いつか私も運転したいと思っていたの」
「一つってことは、まだ車があるんですね」
「そう。ここから少し離れたところに駐車場を借りてるのよ。お父さんもお母さんも、車好きだから」
そこには、母さんのケイマンと、親父のコルベットが並んでいる。ちなみに、俺は知らなかったのだけれど、東京のマンションの駐車場には、あのランボルギーニ・ウラカンが悠然と佇んでいるらしい。そんな内容の記事が先月の週刊誌に書いてあり、母さんに確認を入れたところ事実だった。この時ばかりは、俺はマスメディアの力を素直に認めるしかなかった。
県道は車の数もまばらで、滞りなくトレイルブレイザーは走る。さすがに当初の不安感は存在しないけれど、まだ体に力が入ってしまう。カーオーディオからはFMが音楽を流しているけれど、俺の知らない洋楽だ。
「夏芽、CDをかけてくれない」
先輩はオーディオをしばらく確認してから、ボタンを押す。中にセットされていたのは、姉ちゃんが好きな″くるり″だった。ハンドルを握りながら片手でオーディオのボタンを押す。最初のトラックである『ワンダーフォーゲル』が終わると、『ばらの花』の眠くなるようなイントロが流れ出す。車の心地よい揺れも合わさって、思わず欠伸が出てしまう。
ウィンドウに頭を預けて、外を流れていく河川敷をぼんやりと眺める。それから、雲が増えた空を見て、何気なく、斜め前に座る先輩の方に目を遣る。先輩も窓の外を見ていたから、表情が見えない。姉ちゃんが、「雨ー降りのー」とくるりを歌う。
いつの間にか、寝てしまっていた。目を覚ました時は車は止まっていて、そこはコンビニの駐車場だった。
「レイは何か欲しいもの、ない?」
「私と綾さんは飲み物を買うけど」
いい、と答えて、欠伸を一つ噛み殺した。今何時、と訊くと、七時、と先輩が教えてくれる。さすがに空が暗くなってきた。エンジンは付けとこうか、と気をまわしてくれた姉ちゃんに頷くと、キーを回す。振動と共にエアコンの作動音が低く鳴り、次いで音楽が流れる。『飴色の部屋』だった。俺は、もう一度目を閉じた。