そんなふうに笑った先輩に、感謝すら覚えた
リビングに近づくにつれて、カレーの匂いが空きっ腹を刺激する。階段を後から降りてきた先輩も、「いい匂いだね」と声を弾ませていた。
「ほらレイ、配膳手伝ってよ」
カレー皿を載せたトレーを手にした姉ちゃんに従い、サラダの載った平皿をテーブルまで運ぶ。幸い、葉野菜とトマトが並ぶばかりで、ナスビは見受けられない。俺は安どした。
しかし、俺は油断をしていた。ナスビは、カレーの中に入っていたのだ。そのことに気付いたのは、食事が始まりスプーンを進めていた時だった。この食感を口腔内で感じること自体久しぶりだったけれど、やはり噛むたびに広がるおぞましさは変わらない。よっぽど流しに吐いてしまおうとかと考えたけれど、そんなことをしたら最後、姉ちゃんに横っ面を張られてしまうことになるだろう。
「だって、こうでもしないと食べないじゃない」
ん、おいしい、と姉ちゃんはナスビを口に含みながらこれ見よがしに笑って見せた。
「ホント、こんなにおいしいのに。レイ、人生の半分損してるよ」
「絶対にしてません」
女性二人は舌鼓を打っている。それが俺にはまるっきり信じられない。もしかして自分だけ、得体のしれないものを食べさせられているのではないかと、そんなことすら考えてしまう。
覚悟を決めるか、と言い聞かせて、丸っとしたチキンから食していく。
そういえば、今日は姉ちゃんの運転でホタルのいるスポットまで向かうとのことだけれど。
「なあ、今日って、あの車で行くのか?」
訊ねられた姉ちゃんは、なぜそんなことを今さら訊くのか、と言わんばかりに怪訝そうな表情を浮かべて、「そうだけど」と答えた。俺が思わずため息をついてしまったその横で、何も知らない先輩だけが、無邪気にカレーを味わっていた。
「ずっと気になってたんですけど」
冷えた麦茶の入ったグラスから口を離した先輩が、隣に座る姉ちゃんと向かいの俺を交互に見渡した。
「レイと綾さんのご両親は、何の仕事をしているんですか?」
急な質問に、姉ちゃんは口を開けたまますぐには言葉を返せずにいた。俺はというと、さっきの部屋でのやり取りから、何となくこの場で先輩の疑問は弾けるのではないかと、予想はついていた。
俺たちの両親に関することを、誰かに話すなんて、もうずっとないことだった。ひとたび口を滑らせて話してしまうと必ず興味を抱かれ、あれこれと詮索される。しかしそれは、仕方のことなのだと思う。それだけ、二人の属する業界が特殊であるからだ。
だから、少なくともここ数年は、二人のことを誰かに話すことはなかった。慶次にも嘉樹にも草野にも。決してやましいからではない。ただただ、後に起こることが面倒くさくなるからだ。
けれど、先輩にならば、少なくとも俺はためらいなく打ち明けられる。むしろ、進んで知ってほしい。あるいは、俺自身、どこかで吐き出したいと考えているのかもしれない。それは信頼や自尊心、解放の意味合いを含んだ、俺が望む一種の願いのようなものだった。
姉ちゃんが、目配せをしてくる。それに俺は頷く。身体を少しだけ先輩の方に向けて、改まった調子で姉ちゃんは話し始めた。
「私たちの両親はね、二人とも芸能人なのよ」
「芸能人、ですか」
先輩のスプーンを持つ手が止まる。唇の端にルーが薄らと付いていることに気付いたが、指摘できるような空気ではなかった。
「うん。樋渡孝尋は知ってる?」
「はい。よく刑事ドラマに出てますから」
「穂波由衣は?」
「知ってます。昔アイドルだった人ですよね。お父さんがファンだったって言ってました」
もしかして、小さく呟く。姉ちゃんがゆっくりと頷くと、後は小さな感嘆が漏れるだけで、それ以上追及することや、疑うことを、先輩はしなかった。出来なかった、という方が正しいかもしれない。
「そういえば、二人とも、どことなく面影があるような」
グラスの中を一口含み、ようやく先輩はそう言った。
「まだ、実感が湧きませんか」
「うん。やっぱり、ちょっとだけびっくりしちゃって」
俺に向けられた笑顔も、どことなくぎこちない。
俺は、ひっそりと危惧していた。芸能人の子ども、というフィルターが先輩に埋め込まれてしまい、俺たちを見る目が変わってしまうのではないか。今までにはなかった興味を抱かれてしまうのではないか。距離を、置かれてしまうのではないか、と。
慶次たちにさえいまだに打ち明けられずにいる原因の一つも、そこだった。
「自分たちのせいで子どもにまでいらない関心が集まるのがいやだったみたいでね。親は、都心に一つマンションを借りていて、二人ともそこで暮らしてるわ。去年、レイが高校に入学するのと同じタイミングで二人とも家を出たの。いい年して下宿よ。大学生の私が実家にいるっていうのにね」
先輩がクスリと目を細めて笑う。少なくとも愛想笑いのそれとは程遠い、自然なものに感じた。俺は、そんなふうに笑った先輩に、感謝すら覚えた。
「私が言うのもおかしいけれど、二人ともそれなりに名が売れた芸能人だから、やっぱりその子どもっていうのは、どうしても注目されるのよ。特に、マスメディアには」
マスメディアには、光と影の二面性が、コインの裏表のようにして存在していると俺は思っている。誰にでも平等に、社会情勢や娯楽を提供する媒体という側面が光。そして影とは、日々の中で完全な飽和状態ともいえる量の情報を供給するための、その手段。
そして、親父たち――いわゆる芸能人――が属する芸能界は、マスメディアとは切っても切り離せない関係にある。当然ながら、俺たちのもとに届けられる、映画やドラマの情報、収録の舞台裏、恋愛スキャンダル、不仲説、黒い交際、パパラッチ、整形疑惑、ギャランティ……挙げはじめたらきりがないそれらのニュースや情報には、必ず裏付けとなるソースを調べ上げる(もしくはでっち上げる)人間がいる。そして親父は、過去にこう言っていた。
『芸能関係周りの記者ほど、タチの悪い奴らもいないぞ』
「親父たちは、俺と姉ちゃんのもとから少しでもパパラッチを遠ざけたくて引っ越したんです」
実際に、俺も姉ちゃんも、過去に記者だという人間と対面したことがある。相手は安っぽい質感の名刺を渡してきて、母親に浮気の疑惑があるだとか、父親に薬物接種の可能性があるだとか、そんなようなことの裏付けを俺たちから取ろうとしていた。どうもセンセーショナルな事件が起きない。起きないのならば起こせばいい。多少の非常識、非合法には目を瞑ってでも。
それが自分たちの務めであると、少なくともごく一部のマスコミ関係者は、本気でそう考えているのだ。
「神経質すぎると思うかもしれないけれど、私たちはそうやって今まで過ごしてきたの。でも、夏芽のことは信じているから」
小さく口を開けたままの先輩が、視線を落とす。そして照れくさそうに笑った。
「ありがとうございます」
その一言に、この場で必要なすべてが詰め込まれていた。それきり話を蒸し返すことなく、俺たちは再びカレーを食べ始めた。俺がナスビを丁寧に避けて食べていると、姉ちゃんが鍋に残っていたナスビを皿に盛りやがった。それについて俺が文句を言っていると、先輩が向かいで笑った。俺はもう、自分が何を危惧していたのか、それすらうまく思い出せなかった。
食後の食器洗いは俺が担当した。ここまで買出しから調理まで、すべて二人に任せっきりだったからだ。先輩と姉ちゃんは、テレビを見ながらキャーキャー声を上げている。カレーのこびり付いた平皿を入念にスポンジでこすっていく作業は、ちょっとだけ癖になりそうだ。この世にそうはない陶の白さがとりもどされていく瞬間が、俺は好きだった。レストランでも、出来ることならホール業務ではなく皿洗いをメインでやっていきたいと考えるくらいだ。けれど、何時間もひたすら水と洗剤にまみれて黙々と皿をあるべき姿に戻していく作業というのは、ちょっとした拷問のようにも映るな、と思った。
外はまだ夜の片鱗を見せない。頭の中だけは、先を急ぐように蛍の光を描いていた。それを、俺と先輩が並んで眺めていた。そして、遅れて姉ちゃんもそこに並べる。
「レイ、それが終わったら、もう出発だよ」
先輩がぴょんと跳ねて俺の隣に立つ。不意のことにグラスが泡の付いた手から滑り落ちて、シンクで鈍く音を立てる。
「もう終わりますよ」
「楽しみだね、蛍」
「はい」
「レイは、蛍って見たことあるの?」
「はい」
レバーを下ろして水を止める。膝元に備え付けられた食器洗い乾燥機に最後のグラスをしまいこんで、タオルで濡れた手を拭いた。
「やっぱり綺麗だった?」
「実はあんまり覚えていないんです。小さいころに見たっきりなんで」
「そうなんだ」
先輩が腕時計を見た。もうちょっとしたら出ないとね、と無垢な笑顔を向けた。とても楽しみだ、とその顔には書いてある。こんな笑い方をする人はこの人しかいないよなあ、と、俺は改めて実感した。