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夏空に咲く一輪の  作者: バムガーナー
蛍火と過去
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この部屋のどこにも存在しない心地よい香りを届けてくれた

 家に帰ると、見慣れない小さなスニーカーがちょこんと並べられていた。踵の部分が赤いこのアディダスのスタンスミスは、きっと先輩のものだ。


「あ、おかえり」


 冷房の効いたリビングのソファに寝転びながら、雑誌を読んでいた先輩が顔を上げて手を振ってくる。


「こんにちわ」


「レイったら、帰ってくるの遅いよお。待ちくたびれちゃった」


「これでも最速で帰ってきたんですよ。というより、出発するのって、七時ごろなのに、先輩が来るのが早すぎなんです」


 と言いつつ、自分の中に先輩がすでに到着しているであろう予感があったことは隠しておく。


「そんなの、知らなかったんだもん。ここに来て綾さんに初めて聞かされたんだから」


「姉ちゃんはどこですか」


「部屋でレポートしてる。あーあ、こんなことなら、私も勉強道具持ってきたらよかったなあ」


 早く着替えてきなよ、と雑誌を捲りながら、Tシャツにクロップドパンツ姿の俺に先輩がけしかける。俺としては特に格好に気を遣うつもりはなかったけれど、先輩はというと、真っ白のチュニックと緩いサイズ感をした濃紺色のジーンズという、女性らしい(と少なくとも俺はそう思う)格好だった。普段と違う服装の先輩を見る機会なんて、これまでほとんどなかった気がする。


 部屋に帰って、肩にかけていたショルダーバッグをベッドに放り投げる。静かな部屋で一人になってようやく、下のリビングには先輩がいるんだな、と実感が生まれる。これまで、この家に遊びに来た先輩の存在を意識してしまうことはなかったのに、自分が、今はどこか落ち着かない気分になっていることに気付いた。その理由深く考えてしまわないうちに、俺は着ていたTシャツを脱いだ。


「あ、ここがレイの部屋かな」


 廊下の方から、閉じられた扉越しにくぐもった先輩の声が聞こえてきた。おそらく、今しがた二階に上がってきたのだろう。特別肉体美に自信があるわけではなかったから、出来れば裸の上半身を見られるのは避けたい。


「今着替えてます」


 しかし、俺がそう声に出したのと、扉が開けられて、先輩が入ってきたのは同時だった。目が合った俺たちはお互いに動きを止めてしまう。先輩が先に止まった時の流れから解き放たれ、痛めてしまうのではないかと心配になるほどの勢いで、首を横に向けた。先輩の自慢のロングヘアは中空に半円を描き、次いでこの部屋のどこにも存在しない心地よい香りを届けてくれた。


「ご、ごめんね! ノック、してなかったね」


「いえ、こっちこそ」


 二人とも声が上ずっていた。しかし先輩は、とうとう部屋を退室することなく顔を真横に逸らし続けたまま棒立ちの状態を保ち続けた。俺は手早くベッドの下の引き出しからポロシャツを取り出し、頭からそれを被った。適当に選んだそれは、真っ赤なラコステのものだった。


「レイって、そんな派手な服も着るんだね」


 空気を変えるための言葉がありがたい。俺の方を見ないようにして、それでも先輩は部屋にどんどん足を踏み入れていき、勉強机から椅子を引き出してそこに腰を下ろした。キイ、と背もたれが小さく軋む音がした。


「親父から貰ったんですよ」


「オヤジって、お父さんのこと? レイって、お父さんのこと、オヤジって呼んでるんだね」


 何だかおかしい、と先輩が笑う。ようやく、自然な笑顔が表れた。先輩だけが生み出すことの出来る、魔法のような笑顔が。


「俺が高校に入った頃に、あっちから言い出したんですよ。これからは親父と呼べって」


「もしかして、レイと綾さんのお父さんって、変わった人なの?」


「そうかもしれないです」


「お母さんのことは何て呼んでるの?」


「母さんですね」


「えー、つまんない。どうせならお母さんのこともお袋って呼んだらいいのに」


「いやですよ、そんなの」


 そういえば、最近両親の姿を見ていないことに気付く。うちの親父と母さんは、仕事柄家を空けることの方が多く、揃って家にいることの方が稀なほどなのだ。


 今の様子だと、俺たちの親が何で飯を食っている人間なのかを、先輩は知らないみたいだ。どうやら、姉ちゃんからもまだ打ち明けてはいないらしい。


「帰ってたのね」


 廊下から姉ちゃんが顔を見せる。最近になって、家にいるときには眼鏡をかけることが増えた。


「今から夕食の食材を買いに行くんだけど、二人とも一緒に来ない?」


「行きます! レイも行くよね?」


 キイイ、と椅子を鳴らした先輩が、上半身の重心を背もたれに預けて俺を見た。


「テスト勉強があるから……」


 ここで姉ちゃんが、『ああ、そんなのは置いといて荷物持ちでもしてよ』と言い出すことを期待していたけれど、「それもそうよね」とあっさり引き下がってしまうのが現実だった。いよいよ、重い腰を挙げなければいけない時が迫っているのだ。


 玄関まで二人を見送りに降りる。ドアのすりガラスから、埃も浮き出しそうな光が室内に注がれていた。玄関のマットに座り込んでスタンスミスに足を入れている先輩が、「レイは何が食べたい?」と訊いてきた。


「ピザがいいです」


「もう、ちゃんと答えてよ」


 先輩は律儀にプリプリと唇を尖らせてくれるが、姉ちゃんはあからさまなため息を漏らした。


「もう今日はナスビの炒め物に決定」


「おい、やめてくれよ」


「あ、レイってナスビが嫌いなんだ」


「あのブヨブヨの食感が無理なんですよ。見た目もグロいですし」


「えー! おいしいのに、ナスビ。夏の野菜だよ?」


 食べ物の好き嫌いは少ない方であると自負しているけれど、ナスビ(特に炒めたり茹でてあったりするもの)だけは食べられない。こればかりは、いくら先輩に魅力を説かれたところで、受け入れられそうになかった。


 連れ立って家を出た姉ちゃんたちを見送ると、俺はゆっくりと階段を上って自分の部屋に戻り、覚悟を決めてまずは十一科目のテスト範囲を調べ上げた。勉強にとりかかる前に、そこからおさらいしなければならなかった。


 ようやくすべてのテスト範囲を把握し、手始めに世界史の年号を書き写す作業に取り掛かっていると、下から物音がした。二人が帰ってきたのだ。よっぽどペンを止めて、下まで出迎えに行こうかと思ったけれど、姉ちゃんに進捗状況を訊ねられるといささかまずい。


 いい加減諦めようぜ、と自分に言い聞かせた。夕食が出来るまでの間、脳内のタイムマシンに乗って中世の出来事を遡らなければいけない。


 1532年にマキャヴェリの『君主論』が刊行されたところで、俺の極端に限定的なタイムスリップは幕を閉じた。先輩が、俺の部屋を訪ねてきたからだ。


「すごーい、ちゃんと勉強してるんだね」


 先輩が部屋に入ってきたと同時に、カレーのほのかな匂いが運ばれてくる。茄子の炒め物が食卓に広がる可能性を完全に打ち消せていなかった俺にとっては朗報というほかなかった。


「あんまり下手な点数はとれないですからね」


「レイって、いつもテストの点数はどれくらいなの?」


 そんな純粋な顔をして、答えに窮するようなことを訊かないでほしい。


「下から数えた方が早いです」



「ええ! 駄目だよそれじゃあ。綾さんも怒ってるんじゃない?」


「いつも俺の答案が返ってきたらカッカしてますね」


「してますね、じゃないよ。そんな調子じゃあ、新聞部の活動も許可されないかもしれないんだから」


 わかってますよ、と反論しても、先輩は疑わしげに俺を見ることをやめなかった。


 テスト、という苦行が習慣化した中学生のころから、俺はほとんど碌にテスト勉強というものをしてこなかった。大体において一夜漬けのみで悲惨な点数は免れてきたし、特に国語に関する科目は全然苦にしていなかった。さすがに高校受験のシーズンになると――とある事情も重なって――人並みに机に向かってはいたけれど、無事入学してしまうと元の木阿弥だった。姉ちゃんは俺とは真逆で、日ごろから予習復習を欠かさず、中高と学習塾に通ってもいたから、学年でもトップクラスに成績が良かった。親は姉の成績を歓び弟の成績を憂う、といった具合だった。


 けれど、今回の期末テストに懸ける想いはこれまでとはちょっと違う。もう一週間をとっくに切っている今になってからではエンジンをかけるのが遅すぎる気がするけれど、そこは当社比というやつだ。やってやるぞ、という気持ちさえ、今では芽生えている。過去と比べると、これは進歩と言っていいだろう。


「先輩は、ちゃんと勉強しているんですか」


「私はレイとは違うもーん」


 弾んだ調子でそう言って、先輩は俺のベッドに背中からダイブした。そういえば、昨日先輩の部屋を訪れた時にも、この人は一歩もベッドから降りることはなかった。猫が日陰を好むように、先輩はスプリングの効いたベッドを好むらしい。


「先輩って、わりと頭はいい方ですか」


「頭が良いかどうかはわからないけど、テスト勉強は毎回頑張ってるから、成績はいい方だと思うよ」


 推薦枠に選ばれるということは、そういうことだろう。俺とは根本的に違っている。


「それじゃあ、俺も頑張らないとですね」


「そうだよ。また一緒にしようね、新聞部」


 ベッドサイドの、開けられていた窓からの風が、浅葱色のカーテンを膨らませる。微かな風の音と調和するように、先輩は、まっすぐに笑った。


 その時俺は、どうしてか、先輩を直視できなかった。普段は幼さが消えきらない存在の先輩が、今だけは年相応の……いや、上級生たちよりもずっと大人に見える。そんな風に思えたのは、初めてのことだった。そういえば、ベッドから変な匂いがしやしないかと、ほとんど現実逃避みたいにそんなことを思った。


 まつ毛がまっすぐに伸びて、綺麗な二重をした先輩の瞳が、何も言えずにいた俺を捉える。すると、自分の身体が日の光に身体が晒されたような気持ちになる。心にこびりついていた後ろ暗さや怠慢も、倦んだ空気を払うようにして吹き飛ばしてくれた。


「はい」


 だから、俺はようやく先輩と見つめ合うことができた。俺の返事に、先輩はもう一度静かに笑った。

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