オムライスの複数形よ
ついに待ちわびた上がりの時間が間近に迫る。せわしなく動き回ったランチタイムが懐かしい。忙しい方が時間を忘れるというのは、どうやら本当のようで、退屈な授業の五十分とほとんど遜色のない六時間だったな、と窓際のテーブルに座ってかしましく笑い合っている中学生くらいの女の子のグループを眺めながら思った。
「すみませーん」
壁にかけられていた時計から目を離し、声の主を探す。ちょうど向かいのテーブルから、女性が顔を突き出して俺の方を見ていた。
「ご注文をお伺いいたします」
「パスタのセットを一つ」
「パスタの種類とセットのドリンクをお選びください」
女の人が選んだカルボナーラとジンジャーエールを、手にしているハンディと呼ばれる、オーダーを通す機械に打ち込む。
「ご注文は以上でよろしいですか」
「ええ」
注文が確定すると、俺は軽く一礼してテーブルを離れる。通路の端に移動すると、後ろから背中を叩かれる。
「お疲れ、交代だよ」
俺より背の低い小太りの男の人、矢沢さんに、ハンディを手渡し、「お疲れ様です」とあいさつをすると、晴れて一日の勤務が満了となる。土曜日のランチタイムにぶっ通しで入ってもどうにか大きなトラブルもなく乗り切れるなんて、ここでアルバイトを始めた当初は想像もできなかった。
厨房へと続く通路を反対側に折れると、スタッフオンリーと表記された休憩室用の小部屋がある。後ろ手に戸を閉めると、室内はホールの喧騒がほとんど届かない代わりに、換気扇とエアコンの室内機が発する単調な音が、空間そのものを形成する地層のように折り重なって沈んでいた。四畳半ほどの室内には机とパイプ椅子、縦に長い鏡が並べられて、息苦しさを覚えるほどの狭さとなっていた。その脇にはさらに奥へと続く扉があり、そこが俺たちの使う更衣室兼ロッカールームとなっていた。
手早く着替えを済ませて更衣室を出ると、休憩室では小村さんがアイスを齧っていた。どうやら俺が着替え終わるのを待っていたようだ。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
「まあ食べなよ」
パイプ椅子が身体の一部になりそうなほど身体を預けきった小村さんが、ガリガリ君のソーダ味を差し出してくる。弛緩した身体よりどうにか伸びた手からアイスがずり落ちてしまわないうちに受け取る。
「ありがとうございます」
「樋渡君、入り時間私と一緒だったっけ」
「一緒でしたよ」
ガリガリ君は中身がほとんど溶けはじめていた。棒の根元にしがみついている水色の氷を啜る。
「四時になったら即消えちゃったから、びっくりしちゃった。今日はこの後デートでも入ってるの?」
「まあ、そんなとこですね」
口にしてから、先輩の顔が花火のように広がって、何を言ってるんだ俺は、と自分を窘めた。小村さんの質問に適当に答えただけだというのに、裏に潜む自惚れや願望を、疑いたくなってしまう。
「だって、勤務中もにやにやしてたからね」
「それは言いすぎでしょう」
「まあそうかもね」
昨日知り合った大引先輩と、この女性……小村さんは、どこか似通った雰囲気があるな、と思った。二人とも、どこかつかめない部分があるのだ。
小村五十鈴さんは、俺がこのレストランにアルバイトとして入った時から、バイトリーダーとして仕事のイロハを厳しく(ほんのたまに優しく)叩き込んでくれた人だ。この店のアルバイトの中では一番の古株で、二十代半ばの女性だ。最初の自己紹介の時に、『オムライスの複数形よ』と話していたのは忘れられない。
「彼女の顔、見せてよ」
「ありませんよそんなもの」
そもそも彼女じゃありませんから、と訂正しても、聞いてはいない。「きたきたー」とガリガリ君を頬張りながら頭を押さえている。「お疲れ様です」と残して、休憩室を出た。客用の入り口とは別の通用口からレストランを後にし、家を目指す。空は所々青色が覗いているけれど、灰色の割合が高い。朝の天気予報では雨が降るとは言っていなかった気がする。
そろそろ先輩も家に着いた頃だろうか。