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夏空に咲く一輪の  作者: バムガーナー
若者のすべて
108/108

なにかあったんでしょ

§


 慶次たちと会うことになったのは、八月一日の午後だった。場所は駅前のカラオケ店。前日から待ち合わせ時間を指定されていたにもかかわらず、俺は三十分ほど遅刻をしてしまった。本当は断りの連絡を入れようかと考えていたけれど、どうも自然な言い訳が出てこなかった。


 フロントでは、「お連れ様は二○三号室です」と教えられた。個室の扉を開ける前から、慶次の馬鹿でかい声が聞こえてきて、入室をためらわせる。いっそこのまま帰ってやろうかと思っていたとき、扉が開いた。


「わ、びっくりした」


 数倍のボリュームに膨れ上がった慶次の歌声にどうにかかき消されることなく、中から出てきた草野の声は俺の耳に届いた。


「悪い、遅れて」


「樋渡が遅刻なんて珍しい。ドリンクバーは?」


「まだ」


「なら一緒に行こ」


 草野は手に空のグラスを持っていた。


 ドリンクバーの設置された場所に向かうため、俺と草野は一階へと続く階段を降りていく。店内の通路のスピーカーからは、知らない邦楽が流れていた。


「草野、これ知ってる?」


「今流れてるやつ?」


「うん」


「知らない」


「俺も」


「真田なら知ってんじゃない」


「かもな」


 そんなことを話しながら、俺たちは順番にジュースを入れていった。


「なんかあった?」


 階段を登っているとき、俺の前を歩く草野が、まっすぐ正面を、向いたままそう言った。それが自分に向けられた言葉だと気づくのに、数秒を要した。


「あった」


 多分、普段の俺ならここで虚勢を張っていた。そうすることが正解だと本気で思っているから。今でもそれは変わらない。俺は、ここで「なにもない」と言い切るべきだったのだ。けれど、そうしなかった。


 俺の声が草野に届いていたのかはわからない。彼女からの返事はなかった。


 部屋に入ると、ちょうど慶次のやつが歌い終わったタイミングだったようで、モニターには八六点という採点結果が出ていた。


「レイ! お前遅っせえよ!」


 マイク越しの叫び声に表情をしかめた俺の肩を、嘉樹が叩いてきた。


「ほら、順番空けといてやったぜ」


 俺は差し出されたタッチパネル式の機械を渡してくる。とても歌を歌おうという気持ちにはなれなかったが、どうにか楽に歌える曲を頭の中から絞り出して入れる。


 メロディが流れ、モニターに歌詞が表示される。歌いながら、どうして俺はこんな歌を歌っているんだろう、と思った。俺には、やるべきことがあるんじゃないか。


 あるのか? 本当に?


 あれからもう十日が経った。先輩を傷つけ、カスミをも傷つけたあの連日から、俺の心には晴れようのない雲がかかっていた。何をしていても気持ちが重かった。バイト中も散々なミスを繰り返し、自らしばらくシフトから外してもらうようオーナーに頼んだほどだった。


 この十日間、二人とは連絡をとっていない。俺は極めて無為に夏休みを過ごしていた。


 夏休みが始まった当初、俺は心を躍らせていた。恋人としての先輩と過ごす初めての夏。先輩は推薦入試を控えているから頻繁には会わないでおこうと心がけていた一方で、会うことができたそのときのデートの場所や服装なんかを何度も繰り返し思い描いていた。それは、誰よりも純粋に先輩を想っていた俺の心の顕れ。


 そう信じていたのに、実際のところは違っていたのだ。俺はずっと、心の中に薄汚い欲望を飼っていたのだ。その存在に気づかぬふりをしていた。先輩を想う気持ち、綺麗な存在と並び立ちたいという気持ちで、その化け物を封印していた。


 たった、それだけの気持ちで。


「おいおい! なんで今ので九〇点なんだよ! 明らかに俺のシャウトの方が魂こもってただろ!」


 その叫び声を耳にして初めて、俺は自分が入れた曲が終わり、思いがけず高得点を出していたことに気づいた。


「叫びゃいいってもんじゃないのよ」


 と草野がため息をついた。個室は四人で使うには少々窮屈な広さで、隣に座る彼女の肩がもう少しで俺の二の腕に触れてしまいそうだった。


 結局、カラオケは一時間ほどで終了した。慶次に女の子からの誘いの電話があったのは、フロントで会計を済ませて、次はなにをしようか決めあぐねていたときだった。


「おし、じゃあ今日は解散な」


 通話を終えると、慶次はこちらに向かってそう宣言した。


「はぁ?」


 明らかに不満げな声を上げたのは草野だった。


「いや悪ぃ悪ぃ。夏休み前にライン交換した一年の子からでよぉ。ま、今度会うときにゃ彼女になってるだろうから、お前らにも紹介してやるよ」


 と、慶次は去り際に言った。まったく悪びれていない緩みきった顔と声の奴を止める者は誰もいなかった。


「あいつなんなの。自分から誘っといて」


「いや、でもその子の写真前に見せてもらったんだけどさ、あいつがヘラヘラするのも無理ないくらい可愛かったぜ」


「あのバカが女の子のことでヘラヘラしなかった試しがないじゃない。まあでも、真田が言うんならその子は可愛いんだろうけどさあ」


「まあ紗月には負けるけどな」


「うわ、このタイミングで惚気とか、あんたそんなキャラだったっけ」


「仕方ねーじゃん。ほんとに可愛いんだからさ」


「で、その愛しの彼女とはうまくいってんの?」


「ああ。このあと会う予定」


「マジ? ならもう行っちゃいなよ。紗月に会ったら言っといて。最近ライン返すの遅いって」


「オッケー。てかそれ、俺のせいだよな多分」


「そうそうあんたのせい。あたしの紗月を返してよねホント」


 そうして嘉樹が席を立つまで、俺は何も口を挟めなかった。だから、気づいたら俺たちはカラオケ店の入り口で二人きりになっていた。白いドルマンスリーブのゆったりとしたTシャツにデニム地のワイドパンツ、そして小さなキャンバス地のトートバッグを左手に持った草野の存在を、急に俺は意識してしまう。


「ね、どっか静かなところ行かない?」


 右手でスマホを触りながら、草野は極めて普段通りの軽い調子でそう言った。


「なにかあったんでしょ」


 俺の小さな叫びは、たしかに草野に聞こえていた。

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