曇りゆく空
「ねえ、夏芽」
足を組み替えながら、私は自分のつま先を見つめ、夏芽に向けた言葉を放つ。
「数学のワークブックを渡してさ、目的は達成されたわけでしょ。ならもう、レイのことを考えるの、やめよう」
どこまでも素直であろうと、心がけた。私は、私のエゴと向き合う。叶えなければいけない理想がある。
「あんた、もうすぐ推薦入試でしょ。あと一ヶ月くらいしかないじゃない。今はそっちに集中するべきよ」
夏芽は俯いたまま口を閉ざしていた。
「それでさ、受かったら、遊びに行こう。最近二人でどこかに行くこともなかったじゃない」
三年になってから、この子は推薦入試の準備で慌しくなり、私は了と付き合い始めた。週末に二人で会うことは、ほとんどなくなってしまった。寂しいと感じたことはなかった。けれど、今になって思い返すと、とても勿体ないことをしていたのかもしれない。
「最近、無性にカラオケいきたいのよね。服だって全然買ってないから、夏物も見ときたいし」
夏芽からの返事はなかった。私もそれ以上は何も言わなかった。駐車場から車が出ることを知らせるブザーが遠くで鳴っている。立体駐車場と雑居ビルに挟まれる形で存在しているこの薄暗い喫煙所からは、空がほとんど見えない。ブザーが止むと周囲はとても静かで、耳を澄ませると自販機のコンプレッサーが作動する低い音だけが、よどんだ空気に折り重なって薄く響いていた。少しだけ、夏が遠くなったような気がする。
「麻奈美は」
彼女の小さな声に、私は視線だけ動かした。
「麻奈美は、私とレイが、もう会わないほうがいいと思ってるの?」
弱々しくも真っ直ぐな、核心を突いた質問。迷いが生じる。答えはもう、ずっと前に固まっているはずなのに。
「そうね」
迷っているのは、私だけではない。私も夏芽も、それぞれの岐路に立っているのだ。
「レイと一緒にいたら、あんたまた昨日みたいな目に遭うかもしれないのよ。それに今日だって、本当ならあんたたちは会う約束をしてたのよね? でも、レイはあの女の方を選んだ。たしかに昨日のことがあって気まずかったかもしれないけど、それでもひどい話じゃない。アタシ、正直あいつのこと見損なったわよ」
私の放った言葉には、誇張や憶測がはっきりと混じっている。けれど、決して嘘はついていない。事実、夏芽は昨日だけではなく、今日も傷付けられた。友達ならば、幼馴染ならば、こういうときは憤って然るべきだ。
傷のことを私は考える。夏芽が今の夏芽と決別するときに負うべきであると、私が勝手に決めた傷のことを。
夏芽は、昨日と今日、レイによって傷付けられた。まだ足りないのだろうか? 夏芽は今以上に傷つかなければいけないのだろうか? 判断できるのは私しかいない。にも関わらず、答えを出せないでいる。
けれど、これ以上はもう、私のほうが耐えられそうになかった。どうやら私には、まだ覚悟が足りなかったみたいだ。
「だから、無理に会わなくてもいい。レイのことは、もう忘れなさい」
それでも、私は立ち止まるわけにはいかない。事態は今、再び私の手中に収まりつつあるからだ。私の願いが叶うときは近い。夏芽は生まれ変わる。私は、今でもまだ、そう信じている。
「……そう、かな」
救いを求めるような声だった。私の手は自然と、夏芽の頭へと伸びていく。艶やかで柔らかい髪を撫でる。そしてまた、私は昔を思い出す。いつの間にか、タバコの匂いは気にならなくなっていた。
「帰ろ」
私がそう言うと、夏芽は小さく頷いて、無言で立ち上がった。私は、彼女の目を真っ直ぐ見つめることができなかった。