私の友達
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胸元に下りた髪を手にとり、人差し指の先に巻きつけてみる。無意識にとったその退屈しのぎの象徴のような行為を通して、もう少しカールを細かくしてもいいかもしれない、と私は思った。今使っているヘアアイロンの太さでは、これ以上きつく巻き上げることはできない。次に新しいものを買うときは、今より細い二十六mmのものにしよう。
庇のとりつけられたペットショップのショーウィンドウに背中を預けながら、特に目的もなくスマホを触りはじめてから、もう五分ほど経っただろうか。車道を挟んだ向かい側にあるファーストフード店から誰かが出てくるのを視界の端に捉えるたびに顔を上げてみるけれど、あの子が出てくる気配はまだない。私の後ろでは、別々のケージに入れられた生後二ヶ月のミニチュアシュナウザーとマルチーズが身体を丸めて眠っている。庇によって生まれた影と、太陽に焼かれているアスファルトの境界線を眺める。少しだけ煙草が吸いたかった。一人でいるときに吸いたいと思ったのは、初めてのことだった。
夏芽が私の家に来たのは、正午を過ぎたころだった。事前の連絡は一切無かったけれど、私は当然のように彼女を部屋に上げた。昨日、部屋を訪れて背中を押したときからすでに、こうなることは予想できていたからだ。洋菓子屋の紙袋を持っていたけれど、それは当然手土産なんかではなかった。
玄関で出迎えたときから、いつもここに来たときはそうするように私のベッドに腰かけるまで、夏芽は無言を貫いていた。脱いだスニーカーを無言で揃え、グラスに入れた麦茶を渡すと無言で口に含んだ。そしてその瞳に、わかりやすすぎるほどありありと覚悟を滲ませていた。
夏芽はどうしてここにきたのか訊ねてほしそうにしていたけれど、私はあえて彼女に倣って沈黙を守っていた。彼女をベッドに放置したまま、特に興味もない昼の情報番組を眺めていた。そして、そろそろ何か話すのではないかと思い始めたころ、
『レイに会いたい』
だから、一緒に来てほしい。夏芽はいつもよりずっと小さな、けれど決意に満ちた声でそう言った。
わかった、と私が頷くと、夏芽は笑顔を見せた。風船から少しずつ空気が抜けていくときのように、夏芽の周りで張り詰めていたものが緩んでいくのを感じた。そのときにゆっくりと上がった口角が、とても綺麗だった。
レイに会うという決意を固めたものの、その居場所に当てがあるというわけではないようだった。ひとまず夏芽は、私のスマホでレイの家に電話をかけた(家の電話番号を覚えていたのだ)。しかし出たのは、この子が懐いている彼の姉のようだった。戸惑いが見え隠れする笑顔を張りつけたまま二、三言会話をし、そして小さく息を吸って『レイはいますか』と訊ねた。その直後の夏芽の表情の変化から、彼の姉の返事は想像できた。
重ねてレイの所在を訊ねるのかと思ったけれど、夏芽は礼を言ってそのまま通話を打ち切り、私にスマホを返してきた。
今までの彼女ならば、こういうときには必ず『麻奈美、どうしよう』と眉を下げて弱音を吐いていた。何か困ったことがあれば、夏芽は真っ先に私を頼る。それは私と夏芽の間で成立している法則のようなもので、決して乱されることのない秩序だった。
けれど。
『探しに行く』
と夏芽はきっぱり言い切った。今度こそ本当に当てのないまま、夏芽はレイを探すと決めたのだった。
変わっていく。私はたしかな実感を覚えた。夏芽は、私の知らない夏芽へと変化を遂げようとしている。
この期に及んで、私は彼女の変化を心のどこかで恐れていた。背中の割れたサナギを目にしているときのような、目の前に存在する生きているものの有り様が変化することへの恐れ。葛藤の先に存在する、私の中にどこまでも根差している不安の表れ。
けれど、私にその変化をとめるという選択肢はなかった。時が満ちるとサナギが蝶になるように、夏芽にもその時が訪れたのだ。
唯一とめる手段があるとすればそれは、今は目覚めていない――まだこの世界を知らない――和久井夏芽の息の根を止めることだ。私が一つ覚悟を決めれば、きっと夏芽は永遠に私の知っている夏芽のままになる。
けれど、そうすることできっと私は様々なものを失ってしまうのだろう。それはどこまでも間違った行いだから。本質を見誤った末の行為は、往々にして悲劇的な結末をもたらす。私は、自分が寓話の主人公になったような気分になる。
私は二人分の日傘を持って夏芽に付いていき、この狭い町の中でレイが向かいそうな場所を手当たり次第に探した。夏の日差しが降り注ぐ中、馬鹿らしいと思いながらも黙って夏芽の背中を追っていると、不意に昔のことを思い出した。夏の日差しを浴びることに抵抗がなかった頃のことを。そして、どうしてこうなったのだろう、と何もかもを憂いたくなった。私の現状。夏芽の現状。もっと上手くやれたはずなのに。そんなどうしようもないことを考えてしまう。
私たちは駅前を中心に喫茶店やゲームセンター、小学生の頃によく行った小さなショッピングビルなど、様々な施設を巡った。途中、コンビ二を見かけると五百mlのペットボトルに入ったお茶を買い、日陰になっている場所で飲んだ。夏芽の分の日傘は、まだ手渡されることなく私の手にあった。私たちは汗を拭いながら黙々と歩き、立ち止まってはペットボトルに口をつけた。夏の日差しに照らされている夏芽と夏芽の綺麗な黒髪は、私に過去と現在を交互に突きつけてきた。
レイの姿をファーストフード店で見つけたのは、本当に偶然のことだった。表通りに面したウィンドウから、店内の奥のソファ席に座っている彼の姿を私が発見したのだ。その向かいの席には、小柄な女性が座っていた。
私の頭の中で、様々な可能性とそこから導き出される未来が瞬時に巡っていった。夏芽はまだレイに気づいていない。このまま私が何も言わないと、きっと見過ごすことになるだろう。
どうするべきか。そんな逡巡は、一瞬で終わった。
『夏芽』
私はまた、背中を押す。今、私たちは同じ未来を見ていない。だからこそ、私は彼女の友達として、よりフェアな手段を選択する必要があった。
レイの存在をその目で捉え、夏芽は明らかに尻込みしていた。しかし、最終的には自らの意思でファーストフード店に足を踏み入れた。私は、少し離れた場所で夏芽を待つことにした。