光射す
どうして先輩がここにいるのか。
そんな疑問を遥か彼方に追いやってしまうほどの衝撃的な発言をぶつけたカスミは、俺の方を振り向いて小さく笑った。それは自己憐憫のような、この世の全てに向けた嘲笑のような、頭が痛くなるほどに真意の読み取れない笑みだった。
「レイの、彼女」
呆然とした表情の先輩がどうにか反芻する。それ以上の言葉が出てこないようだった。
俺は、この期に及んでカスミの言葉を否定することも、直接声を上げて先輩に呼びかけることもできなかった。状況に頭が追いつかないのではない。どうしようもなく口がすくんでしまっているのだ。
先輩、否定してくださいよ。俺の本当の彼女は、先輩じゃないですか。
そんな情けない本音を、どうしてぬけぬけと口に出すことができるだろう。ああ、そうだ。実際に先輩が俺の彼女であったのは、もう過去の話なのだ。――だから、この人はカスミに何も言い返すことができないのかもしれない。
「今日は、彼と久しぶりに会ったんです。何か話があるなら手短かにお願いしますね」
まるで台本か何かをそのまま読み進めているかのように、カスミは淀みなくそう口にする。相変わらず彼女の表情は見えない。周囲の客の目がこちらに注がれているのがわかる。どこかで小さく、「修羅場?」と誰かが呟いたのが聞こえてきた気がした。
「……これ」
蚊の鳴くような声で呟いて、先輩は洋菓子屋の袋をカスミに手渡した。
「届けにきた、だけだから」
俺の方を見ようとしないまま、先輩が踵を返す。
「先輩!」
ようやく声が出た。しかし遅すぎた。先輩はこちらを振り向くこともないまま、頼りない足取りで、通路を移動する客に何度もぶつかりそうになりながらも確実に俺から遠ざかっていった。最後まで、俺はその背中を見送ることしかできなかった。
カスミが、スカートの裾を直しながら椅子に腰かける。そして、自分の飲み物のストローに口をつけた。何事もなかったかのように涼しい顔をしている。
「これ、樋渡君のなんでしょ?」
と言ってカスミは自分が受け取った紙袋をテーブルに置いて俺の方へとスライドさせた。
「……どうして、あんなこと言ったんだよ」
この瞬間、俺は先輩を追いかけることを完全に諦めた。あの人を捕まえたところで、何を口にすればいいのかわからなかった。そもそも、弁解の必要性すらないはずなのだ。俺たちはもう、恋人同士ではない。俺が、先輩を傷付けてしまったから。先輩は、ただ忘れ物を届けにきてくれただけだから。どうして俺の居場所がわかったのか。そんなことを確かめたところで、いったい何が変わるというんだ。
「綺麗な人だったね」
カスミは俺の問いかけには答えなかった。
「樋渡君が好きになった人って、あの人のことでしょう」
当然のように看破されたことが悔しい。俺が無言を貫いていても、しかしカスミはかまわず進めた。
「とっても綺麗な人だった。樋渡君が惚れるのも無理ないわよね。ねえ、もしかしたら、あの人も樋渡君のこと好きなんじゃないの」
そう言ってカスミはおかしそうに笑った。そしてカップを持ち、ほんの一瞬だけ、まるでそうしなければならないかのようにストローに口をつけた。
「樋渡君、もしかして本当に自覚がないの? 自分がどんなに残酷なことを訊いたか。どんなに残酷なことを言おうとしたか。その自覚が」
怒ったり、責めたりするような口調ではなかった。むしろカスミの表情はどこまでも凪いでいて、過不足なく事実を伝えたいという切実さだけが、ともすれば泳いでしまいそうな視線を通してうっすらと伝わってきた。
「だから、これは仕返し。ねえ樋渡君、知ってた? 私、とても卑屈で、自分勝手な人間なんだよ。だからあの日も、平気で樋渡君を傷付けることができた。今日だって、私自身のために嘘をついて、あの人を追い払った。ここまで言ってもまだ、私の気持ちを適切に理解できない? 今日、君を呼び出した理由がわからない? あの日の再現をするつもりがないって、本気で思ってた?」
一言一言、噛んで含めるように話すカスミからは、有無を言わせないほどのプレッシャーが静かに放たれていた。それは、紛れもなく俺だけに届けられたメッセージで、今度こそ俺は答えることを余儀なくされていた。そして恐らく、彼女は今日、初めて本心を曝け出してくれていた。
「……ごめん」
情けない。今の俺には、他に何も言えなかった。
騒々しさに内包された、息が詰まるような沈黙の時間が続いた。おそらく、この沈黙に息苦しさを覚えているのは俺だけなのだろう。
「ほんと。ここまで言わないとわからないなんてね」
とカスミは呆れた様子で口にした。しかし、今の彼女はもう、すでに本心を露にしてはいない気がした。
「今の私の言動が支離滅裂なものに感じるなら、それは君のせいよ。私だって、できることなら平和的に旧交をあたためたかった。それなのに、あんな無神経な態度をとられると、取り繕おうって気も失せちゃうわよ」
カスミにここまで言われても、自分を省みるということが今の俺にはできなかった。
「ごめん。今日は帰らせてもらうね」
あの人のこと、追いかけたら?
席を立ってこちらに背中を見せながら、カスミは最後にそう言った。俺は、何も答えられずに去りゆく背中を見ていた。
一人になってしまった。俺とカスミのドリンクが並んだテーブルを眺めながら、自分の元を去っていった二人を想った。しかし、どこに行き着くこともなかった。先輩を追いかけるべきなのか、カスミを追いかけるべきなのか、あるいは誰も追いかけるべきではないのか。並べられた選択肢はシンプルなものだ。しかし、そもそも選択肢が存在すること自体がおかしいはずではないのか。
最初から、決まっているはずだろう。
わかっている。わかっているのに。
気持ちは変わらないはずだ。そう信じようとしても、行動に移そうとしても――途方もない無力感が身体を支配していた。