たった一人の綺想曲
何か飲み物買ってくる、と言ってカスミは席を立った。樋渡君も何か飲む? とこちらを振り向いて訊ねてきたけれど、今は何も口にしたくなかった。
テーブルに一人取り残される。もしかしたら、カスミは猶予をくれたのだろうか。三年越しの真実を俺が咀嚼し、理解するための猶予を。
カスミが語ってくれた真実を受け止めて、俺はどんな答えを出すべきなのだろう。どんな反応を示すべきなんだろう。そうやって、安易に最適解を導こうとする自分が情けなかった。
きっと、正しい答えなど存在しないのだろう。カスミの想いを受け止めて大団円を迎えるには、あまりに時間が経ちすぎていた。本来ならば、カスミも掘り起こすつもりのない記憶だったはずだ。それを俺は、ほとんど強引に語らせた。陽のあたらない暗がりで眠っていた猫を、わざわざ日向に引きずり出すようにして。
カスミは、自分を奮いたたせて真実を語っていた。俺はカスミに応える必要があると思った。たとえその動機が、独りよがりな自尊心に拠って立つ衝動によるものであったとしても。
先輩の顔を思い浮かべる。俺が傷つけてしまった先輩。イメージとして頭の中に浮かび上がった先輩は、笑顔だった。他でもない自分自身が傷つけ、遠ざけてしまった笑顔。
嘘ではない、と誰にでもなく言い聞かせる。何が? 何に対して、俺は潔白を証明しようとしている? それすらわからない。もしかしたら、己の愚かさゆえに手放したものを、もう一度拾い集めることで、その正体が掴めるのかもしれない。
トレーに飲み物を二つ乗せたカスミが戻ってくる。まさか飲み比べでもするつもりなのかと思ったけれど、当然違った。カスミは片方を俺の手元に置いた。
「コーラ」
本当は飲みたいんじゃないかなと思って、とカスミは遠慮がちに付け足した。語るべきことを語った反動なのか、今の彼女はうつむきがちで、どことなく視線が定まらないように見えた。俺はカスミの心境の変化を想像しようとしたけれど、思い至るものは何もなかった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「あのさ」
「うん」
「俺……」
喉が狭まる感覚がした。それは口にするべきではない、と、本能が訴えかけているのかもしれない。誠実さに欠けている、と。しかし、そんな訴えに耳を貸せそうにもなかった。
「好きな人がいるんだ」
「うん」
「お前の次に好きになった人」
「うん」
「俺、ずっとお前のことが好きだった。多分、いなくなってからもずっと」
カスミからの相槌が途切れる。俺は構わず続ける。
「ずっと考えないようにしてた。思い出したら辛くなるから。だから、絶対に思い出さないように蓋してた。でもさ、それで、忘れられたわけじゃないんだよ。思い出してるわけじゃないんだけど、思考の一部を持ってかれてる状態っていうかさ。表立ってないだけで、しっかり思い出してるんだ。そんな状態が、ずっと続いてた。でもさ、」
「もういい」
唐突に、カスミが声をあげた。
「わかったわよ。樋渡君の言いたいこと」
唇をつんと上に向けて、カスミはつまらなさそうな顔をしていた。記憶の引き出しを探ってみても、彼女のこんな表情に覚えはなかった。三年間、という時間のせいでどこか麻痺しているけれど、俺がカスミと過ごした時間というのは、たったの三ヶ月だ。空白の期間の方が、ずっと長い。もしかしたら、彼女は頻繁にこのようなつまらなさそうな顔を見せていたのかもしれない。
「ねえ、これだけは言っておくけれど、私は別に、三年越しにあの日の続きを再現するために君をここに呼び出したわけじゃないの。さすがにそこまでロマンチストではないつもりよ」
今度は俺が閉口する番だった。やはり、俺が告げようとした事実は独りよがりの傲慢なものだったのかもしれない。
「じゃあ、どういう――」
どういうつもりだったんだよ。そう訊ねようとしたときだった。俺は、カスミの背後に信じられない人の姿を見た。
「……レイ」
先輩が立っていた。カスミの背後から、ソファ側の席に座る俺を見下ろすように。今にも消えてしまいそうなほどにその存在感は希薄だった。
「樋渡君?」
カスミが訝しげに俺を呼び、次いで視線の先を追うように後ろを振り返る。黄色いポロシャツ姿の先輩を認め、もう一度俺を見やった。
「樋渡君の知り合い?」
カスミは、強い意志を感じさせる目つきで俺を射抜いていた。気圧されるように視線を逸らしてしまう。すると、カスミは唐突に立ち上がり、先輩と相対する。
「初めまして。樋渡君のお知り合いですか?」
カスミの表情は見えない。俺は嫌な予感がした。彼女を止めないといけない、と思った。しかし、立ち上がろうとしても、身体が動かなかった。
「わ、私は……」
先輩は、自分の口元あたりから見上げてくるカスミに対して、可哀想なくらいに萎縮していた。俺は、このとき初めて、先輩が有名な洋菓子屋の紙袋を手にしていることに気づいた。その中には、見覚えのある数学のワークブックが入っていた。そして、俺がそのワークブックに目を奪われている間に、カスミは耳を疑うようなことを口にした。
「私、樋渡君とお付き合いしています」
立ち上がるどころか、何かを口にすることすらできなかった。先輩は、小さく口を開いたまま、弱々しい視線を自分の前にいる存在に向けて立ちつくしていた。