真相
カスミは穏やかな微笑を浮かべたまま何も言わず、ゆっくりと瞬きをした。そしてそっとまぶたを閉じる。曇りのない綺麗な一対のレンズの向こうで、細い睫毛が誠実さの象徴のようにまっすぐこちらへ伸びている。
カスミとの別れ。それを今日まで誰にも語ることはなかった。思い出したくなかったから。省みたくなかったから。できることなら、彼女と過ごした日々、そして彼女の存在そのものを、なかったことにして記憶から消したいとすら思っていた。
中学二年の夏休み前。あの日、俺たちはセミの鳴き声の降るなかで、お互いの抱える想いを言葉にした。そして、薄く触れるだけのキスをした。それは俺にとって、初めてのキスだった。俺とカスミの二人で過ごす未来は続くものだと、なんの疑いもなく確信していた。
しかし彼女は、何も告げずに消えてしまった。そうするという予告や、示唆すらなく突然に。俺には現実を受け止めるという選択肢しかなかった。
どうしてカスミは一言の説明もなく転校してしまったのか。その疑問は永遠に解かれることのないまま、やがて形骸化していくのだろうと思っていた。事実、時が経つにつれて俺のなかでカスミの存在は、徐々にではあるものの薄まっていきつつあった。能動的にそうしたのではなく、心が本能的に防衛機制を働かせたのだ。
「やっと、訊いてくれたね」
きっとそれは、彼女のひとり言だったのだろう。吐息に混じった副産物のようなそのささやきを、この騒がしいハンバーガーショップの中で俺の耳が拾うことができたのは、多分小さな奇跡だ。
「樋渡君」
両肘をテーブルから離して居住まいを正しながら、カスミは俺を呼んだ。
「ん」
「何も言わずに転校しちゃってごめんね」
「……ん」
昨夜にカスミと会うことが決まったとき、俺は、ずっと心の隅のほうに放置されていたその疑問を探し当て、ひっぱり出した。被っていた埃を払ったりしながら、この疑問をハンバーガーショップにまで持ち出すか否かを考えた。そして、カスミに委ねようと決めたのだ。
だから、埃が落ちた疑問を彼女に手渡すことで、俺の目的はほとんど達成されたようなものだった。だから、カスミがどんな答えを用意していたとしても、それに対する返事を俺は持ちあわせてはいなかった。きっと、俺の目的は、解決ではなく共有だったのだろう。
「きっと、樋渡君は傷ついたよね」
喉を鳴らすことすらできなかった。カスミの言うとおり、俺は傷ついていたからだ。
「でもね、あのとき、私も少なからず傷ついていたのよ」
「え?」
予想だにしない言葉だった。
「ああ、違うの。それってなにも樋渡君との関わりのなかで、というわけではなくてね」
ごく個人的なこと、と前置きして、カスミはゆっくりと話を続けた。
三年前の年始のころから、カスミの両親は別居状態にあった。そして、カスミに相談も経過の報告もないまま離婚は成立し、夏休みに入って間もなく、彼女は母親の故郷である日本海側の港町に引っ越した。それらの事実を、カスミは淡々と口にした。
今耳にした内容はすべて、俺の知らなかった情報だった。進級してクラスが変わったころには、カスミの家には父親がいなかったようだ。当時、カスミは家庭内に不和があることなどおくびにも出していなかったように思う。
「私が転校した理由は、まあそういうわけなの」
ショッキングな事実は、しかし前置きに過ぎない。まだ、俺の質問に対する答えは返ってきていなかった。
「今は」
それでも、俺は思わず口を挟んでしまう。
「今は、どうしてるんだ」
割って入る形で問いかけたにも関わらず、カスミは口元を緩めた。もしかすると、俺が近況を訊ねてくるのを、ずっと待っていたのかもしれない。
「母一人子一人で慎ましく……ってわけでもなくてね。お母さんの実家が、けっこう大きな和菓子のお店なの。おかげでお父さんがいなくても特に苦労らしい苦労もなくやってる。あっちでは何人か友人もできたし、部活もアルバイトもあるから、それなりに忙しいのよ」
部活は文芸部で、バイト先は地元の個人経営の書店らしい。いかにもカスミらしい選択だ。
「こっちに戻ってきたのは、お父さんに会うためなの。面会交流ってやつね」
話、逸れちゃったわね。カスミは腰を上げて、ワンピースの裾を直した。俺たちとそう歳の変わらない女性の店員がやってきて、「トレーをお下げいたします」と一言断ってから、二人分のトレーを両手で持っていってしまった。俺たちは、何も乗っていないテーブルを挟んで向かい合っている。
「樋渡君」
再び、俺を呼ぶ。
「私、本当に君のことが好きだった」
「……うん」
「私たち、何度席替えしても隣同士だったよね? 私には、そのことがとても嬉しかったわ。ずっと君の隣に座っていたいって、それだけがあのときの私の望みだった。でも、わかっちゃったの。樋渡君も、同じように私のことを好きでいてくれてるんだって。そうしたら、望みは変わってしまった。私一人で完結する望みではなくなってしまった。そのことが、とても怖かった。どうしても両親の姿を私と樋渡君に重ねてしまうから。飛躍しすぎた、馬鹿げた話だって思うかもしれない。でも、あのときの私は、本気でそう考えていたのよ」
カスミの表情は、いたって穏やかなものだった。自身のことではなく、誰かから伝え聞いた他人の過去を語っているようにすら思えた。
「席が離れてからは、君を避けるように試みたわ。でも、君はまったく気にせずに話しかけてきた。勉強を教えてくれと迫ってきた。かなり正直に言うとね、君に苛立ちすら覚えたのよ。いっそ私の気持ちを誇張して伝えて、二度と近づかないで、って宣言しようともした。――でも、できなかった。いくらマイナスなことを考えていても、私はやっぱり樋渡君が好きだった。それはもう、私の中で認めざるを得ない事実になっていたわ」
そんなときだった。カスミの両親の離婚が成立したのは。カスミが、この町を離れると決まったのは。
「最初に聞いたとき、正直に言うとほっとしたの。冷戦状態だった二人に気を揉むことももうないんだって思うと、いっそ清々しい気分だった。でも、その次に考えたのが樋渡君のことだった。お父さんとお母さんと同じように、私たちも離れ離れになるんだって」
膝に置かれていたカスミの手が上がり、何かを探すようにテーブルを小さく彷徨った後、また降ろされた。過去を語るためのよすがを必要としているその姿が、少しだけ痛々しく俺の目に映り始める。
「私が採るべき選択というのはまず間違いなく、樋渡君に事実を告げることだった。今までありがとう。楽しかった。さようなら。それだけ。私は終業式のあと、君にここに誘われたときに、本当にそれだけ口にするつもりだったの。……でも、言えなかった」
そうだ。彼女はあの日、こう言った。忘れられるはずがない。
『私、樋渡君のこと、好きよ』
きっと今、カスミも同じ場面を追想しているのだろう。俺にはそのことがはっきりとわかった。
「どうして正直に気持ちを打ち明けてしまったのか、今でもわからない。でも、口にしたときには私の心も決まっていたわ。ハッピーエンドが存在しないのなら、それに準ずる幕引きをってね」
カスミは、もう一度両肘をテーブルについた。そして指を組み、その上に顎を乗せ、まっすぐ俺を見据えた。
「樋渡君に、ずっと私のことを覚えていてほしかった。たとえそのせいで樋渡君が傷ついてもいいって思えた。どんな手段を使ってでも、君の記憶に私という存在を刻みつけたかったの」
それが、カスミの答えだった。