夢のような景色
俺たちは、それぞれ注文したメニューを黙々と食していった。沈黙は周囲の喧騒が埋めてくれた。ハンバーガーを咀嚼し、ポテトを摘みながら、俺は昨日までのカスミのことを思う。目の前に存在している彼女が、俺の知らない三年間をどう歩んできたのか。
きっと、本人に訊けば大抵の質問には答えてくれるだろう。そうしないのは、怖いからなのかもしれない。俺が想像する三年間と、カスミが実際に過ごした三年間には、大きな差があるような気がした。その差を知ってしまうのが、少しだけ怖かった。俺は俺なりに、カスミの理想像とでもいうべきものを抱えていた。
「――まだ聴いてるの?」
「え?」
顔を上げると、カスミと視線が合う。何か訊ねられたようだけれど、最初に何を言ったのかを聞きとれなかった。
「RCサクセションとミッシェル・ガン・エレファントは、まだ聴いてるの?」
そのグループの名前が誰かの口から放たれるのを耳にしたのは、三年ぶりだった。今日の俺は、何かにつけ三年前のことを思い出している。
「もう聴いてない」
そう答えると、彼女は目を見開いて心底意外そうな顔をした。
「そうなんだ」
「うん」
「どうして聴かなくなったの?」
どうして、と言われても。俺は上手い言葉が見つからず、ごまかすかのようにフライドポテトを二本摘んで口に含んだ。
「他の歌を聴くようになったから」
彼らの歌を聴かなくなった理由。それを考えると、やはりシンプルな答えに行き着いた。大きな転換期や物語性もない。音楽に対する嗜好が変わったという、ただそれだけのことだった。
「他の歌って、洋楽? 邦楽?」
「両方」
「ふうん」
面白くない、と言いたげにカスミは唇を僅かにとがらせ、ジンジャーエールの入ったカップを手にとった。そして、中味が入っていないことに気づいたのか、さらにもう少しだけ唇を尖らせてカップをトレーの上に戻した。そんな彼女の何気ない所作が、俺の目を惹きつけた。
「じゃあ最近聴きはじめたアーティストは?」
紙ナプキンで指先や唇を拭きながら、そうカスミは訊ねてきた。まさか音楽の話題がここまで引っ張られるとは思わなかった。
「アーティスト単位で音楽を聴くことって、少なくなったかもしれない」
「そうなんだ。でもわかるかも」
カスミはテーブルに両肘をついて指を組み、そこに顔を載せた。眼鏡の奥から、さりげない上目遣いで俺を見ている。
「アーティストの出す作品を全面的に受容しているとね、やっぱり少なからず、自分が定めた指針のようなものが磨り減っていく気がするの」
俺は返事をすることが出来なかった。けれど、カスミの言いたいことはわかった。だってそれは――。
「そういう風な窮屈な気持ちで接してると、きっと素敵な音楽も心に響かなくなるんじゃないかしら」
どんな音楽を聴いているの、とカスミは改めて俺に訊ねた。少し昔の洋楽、と俺は答えた。
「少し昔って、ドアーズとか、その辺?」
「そこまで古くない」
スマホに入っていた音楽のプレイリストを見せると、カスミは「あ、これ知ってる」と呟いた。ジャミロクワイが九十年代に出した歌だった。
「最近の邦楽もあるのね。しかもアイドルの歌」
「友達がCDをくれたんだよ。もう聴かないからって」
「中学生の樋渡君だったら、絶対受け取ってないでしょうね」
「かもな」
俺たちは自然と笑顔になっていた。ハンバーガーもフライドポテトもなくなってしまったけれど、今ではもう間を埋めるものは何も必要ないと思った。
カスミの方は何を聴いているのか訊ねてみた。すると、やはり今でもポール・アンカを聴いているようだった。彼女に言わせると、ポール・アンカはすべての歌を何も考えないで受容できる、貴重なアーティストらしい。
「そういえば、樋渡君にも貸したことあったわよね」
「そうだっけ」
カスミからポール・アンカのCDを借りたことは、もちろん覚えていた。俺がお返しにRCサクセションを貸そうとして、やんわり断られたことも。どうして白々しくとぼけてしまったのか、自分でもわからない。わからないけれど、今の俺はフライドポテトを必要としていなかった。
それから俺たちは、当たり障りのない話をした。この町にできた、カスミの知らない施設や店のこと。最近リリースされたスマホのゲームのこと。学校の成績のこと。そして、カスミが過ごした、雪が降る港町のこと。
「雪が降っている夜にね、オレンジ色の街灯の下で、ライトアップされた灯台の写真を撮ったことがあるの。それがもう、夢みたいに綺麗で」
僅かに目を細めて、カスミは今は遠い港町の夜を追想しているようだった。オレンジ色の街灯、夜の雪、光る灯台。彼女の語る何もかもが、俺の想像の向こう側にあった。
時は、たしかに流れている。
俺が知りえない三年間は、空白ではない。カスミが、一生懸命に生きた、誰にもその価値の測れない三年間なのだ。彼女が語る夢のような景色の中に、俺は彼女が語ろうとしなかった――けれど確実に存在している――真実を見た。それは、とても不思議な感覚だった。
「なあ」
ためらいは、嘘のように消えていた。俺は彼女の眼鏡の向こうにあの日を重ねながら、自分でも信じられないくらいに穏やかな声で続けた。
「どうして、何も言わずに行っちゃったんだ」
カスミの表情が、少しだけ柔らかくなった。