雲
ワンピースの裾を丁寧に直しながら、カスミは俺の向かいの椅子に腰掛けた。こういうとき、席を変わってでも女の子にはソファに座ってもらったほうがいいのだろうか。目の前にいる彼女を直視できないまま、そんなことを考える。
「何か頼んだのか?」
「ううん。まだなの」
先に樋渡君の顔を見ておきたくて。
ごく自然な笑みを浮かべて、カスミはそう言った。彼女の言葉を、俺は不自然に深読みすることなく受け止めることができた。
何の予告もなく俺の目の前から消えてしまったあのときには、どうやっても知ることのできなかった、彼女の胸の内。三年の時を経て、騒がしいハンバーガーショップでその断片を見た気がした。
「全然変わってないな」
だから、ついさっきまでまとわりついていた得体の知れない緊張はほとんど消え去っていた。三年前の、彼女と一緒に過ごしていたときの感覚が、静かに蘇っていく気がした。
「そうかな」
「すぐにわかった」
さっきよりもう少しだけ笑みを深めて、カスミは俺に倣うように肘をテーブルについた。黒目がちな双眸が、眼鏡の奥で細まっていた。
「樋渡君は、ちょっと変わったわ」
「そうかな」
「うん。でも、すぐにわかった」
それ、何? とカスミが訊いた。コーラ、と俺は答えて、ストローに口をつけた。飲みたいと思ってそうしたのではなく、間を埋めるように手が勝手に動いた。そんな自分の無意識的な行動が、少しだけ恥ずかしかった。
「何か頼んできたら」
「そうね」
カスミは隣の空いていた椅子に置いていた黒いレザーのトートバッグから、やはり黒いレザーの長財布を取り出した。俺は、中学生のときに彼女がどんな財布を使っていたのか、思い出そうとした。けれど、頭を占拠しているのは、二人ですごした時間というどこまでもマクロな事実だった。思い出と呼べるようなエピソードは、細かい網の目の向こうにひと塊りとなって存在していた。
レジカウンターに向かうカスミの後ろ姿を眺める。あの頃より、少し細くなっただろうか。しかし俺が抱いた印象は当時との比較というより、端的な事実のような気がした。事実、俺の知っているどの女の子よりも、カスミは小柄だった。
数分後、カスミはトレーにハンバーガーとサラダとジンジャーエールを載せて戻ってきた。
「樋渡君、コーラだけでいいの?」
「ああ」
「ふうん」
ハンバーガーの包装紙を取り、小さく口を開けて食べ進めていくカスミ。その姿を見ていると、最後に彼女と過ごした日にもこのハンバーガーショップで昼食をとったことを思い出した。
「ねえ」
「うん?」
「どうして何も訊かないの?」
彼女がその質問をぶつけてきた意味を、俺は適切に理解できなかった。
「よく、電話番号覚えてたよな」
俺の言葉に、カスミはハンバーガーを口元に持っていこうとしていた手を止めた。そして、小さな歯を覗かせて笑った。彼女のツボにはまったときの笑い方だった。
「ごめんなさい。最初にそこを指摘されると思わなかったから」
そう言って、改めてハンバーガーを口に含む。俺はほとんどなくなりかけのコーラを啜るようにして飲んだ。
「忘れるわけないでしょ」
ハンバーガーをトレーに置いて、口元を紙ナプキンで拭いながら、カスミは囁くような声で言った。
「樋渡君からもらったあのメモ、何回も何回も読み返した。だから、頭に刻み込まれていたのよ。たぶん、一生忘れられない」
メモ。俺が自分の電話番号とLINEのIDを殴り書きして手渡したそれは、新学期になると俺の机の中に入っていた。カスミが唯一、俺に残してくれたもの。
「自分の記憶には絶対の自信があったけれど、それでもちょっとだけドキドキしたのよ。誰か知らない人が出たらどうしよう、って」
カスミは下りてきそうな髪の毛を耳にかけながら、プラスチック製の白いフォークでドレッシングのかかったレタスを器用に掬い上げ、食していく。
「なあ」
「うん?」
どうして、昨日の夜に電話なんてしてきたんだ。
俺はそう訊きたかったし、訊くべきだとも思った。それに他にもまだ、彼女に訊ねるべきことはいくらでもあった。この三年間、ずっと考えてきたことだ。
「やっぱ何でもない」
逸る気持ちとは裏腹に、決心がつかなかった。カスミが、今はまだ訊ねられることを拒んでいるように思えた。正確に言うと、核心に触れてほしいという気持ちはあるのかもしれない。けれど、訊ねられた内容に対する答えを、彼女自身がまだ用意できていないような気がした。『どうして何も訊かないの?』というあの問いかけは、あるいはカスミにとっても賭けのようなものだったのかもしれない。
「何か頼んできたら?」
「え?」
カスミは食べ終えたハンバーガーの包装紙を綺麗に四つ折りにしながら、口元だけで微かに笑っていた。
「さっきから、私の手元ばかり見てるわよ」
そうやって指摘されてようやく、俺は自分が空腹であることに気づいた。思えば、昨日の夜から何も食べていなかった。
レジカウンター前は、俺が来たときよりも明らかに混雑していて、二つあるレジにはどちらも五人ほどの先客が並んでいた。順番が回ってくると、特に何も考えないでハンバーガーとフライドポテト、そしてもう一度コーラを頼んだ。
テーブルに戻ると、カスミはジンジャーエールのストローに口をつけていた。俺と目が合うと、カップを置いて、人差し指で眼鏡の位置を微調整した。
「樋渡君、どこの高校に通ってるの」
俺はポテトを摘みながら、自分が通っている校名を伝えた。
「すごい。そこって偏差値高いところじゃない。よく入れたね」
「死ぬほど受験勉強したからな」
三年前の俺は、カスミが転校してしまったことによって空いた穴を埋めるように、受験勉強に時間を費やしていた。もちろんそんなこと、目の前の彼女には言えるはずがなかった。
「私も、こっちで進学するならそこに行きたかったの」
「そうなのか」
もしもカスミがあのとき、転校していなかったら。不思議なことに、そんな未来を想像したことは一度もなかった。カスミが消えたその瞬間から、彼女は俺の中ですでに取り返しのつかないほどに失われた存在だった。だから、俺は長い時間をかけて、彼女のいない日々を憂い、心から悲しんだ。脇目も振らず、粛々と。
けれど、こうしてカスミと向かい合っている今となっては、消えてしまった彼女を想った日々があったという事実を、うまく思い出すことができなくなっていた。