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部屋と大寒と私

作者: 泥水

 突然眠りから覚め、暗闇の中で丸山重則は瞳を動かした。暗闇の中でも五十年近く過ごしている家の中では、枕元に置いた目覚まし時計や電話機、ペットボトルに入れた水などがうっすらと浮かび上がり、しっかりと確認できる。

 吹き付ける風によって、磨りガラスの窓が音を立て揺れる。布団の中にも風が迷い込んでしまったかのように、寒さが漂う。

 下半身がぶるぶると小刻みに震える。その時丸山は、自分が尿意で目覚めたことに気付いた。布団を捲り、体を起こすと足をベッドから出して、立ち上がる。

 数年前から、右足の膝が慢性的に疼くようになった。確かな原因は分からないが、七十五という年齢になれば、そのどれもが加齢という原因で納得できてしまう。

 それまでは床に布団を引いて寝ていたが、床から体を起こす際の膝への負担は大きく、しばらくしてベッドを購入した。

 部屋の明かりを点けると、時計に目をやる。まだ五時を過ぎたほどで、窓の外は暗闇のまま町は眠っている。

 廊下にでると、より寒さが丸山の体を襲う。冷気が針となり、関節に痛みを走らせる。特別、右膝の痛みはよく走った。

 トイレで用を足すと同時に眠気も覚め、丸山は関節の痛む体を引きずって、洗面台の前に立った。顔には皺が刻まれ、それに合った白い頭髪が乗っかっている。当の昔に人生の折り返し地点は過ぎ、もういつゴールを迎えても不思議ではない。これからはなんの変化もなく、終わりを迎えるだけ。悲観しているわけでもなく、丸山は当然の摂理としてそう思った。

 冷水で顔を洗うと、冷えが上から下まで広がり余計に関節が痛むが、冷水でなければ起きた気分になれない。

 暗い廊下を抜け寝室に戻ると、仏壇の前で手を合わせた。仏壇に置かれた写真に写る亡き妻は、いつまでも微笑みながら丸山を見つめてくれた。

 丸山がまだ膝を痛める前、妻は癌に罹り、そこからは思い出せないほど早くこの世を去った。余りの迅速さは、丸山に悲しみより驚きの感情のほうを与えたほどだ。

 妻に挨拶を終えるとベッドに腰を下ろし、リモコンでテレビの電源を入れた。もう年が明けて三週間ほど経つ。妻の死も、時の流れも、なにもかもが早く、丸山を置いてきぼりにしていく。

 ニュース番組では各地で雪が降り注ぎ、特に東北は大雪だと伝えていた。東北に嫁いだ一人娘の弘子を思い、受話器を手に取るが、現在の時間を思い出し、受話器を元に戻した。

 弘子ももうすぐ五十歳になる。東北に嫁いで二十年になるが、とうとう孫の顔は見ることができなかった。妻が亡くなってからはなかなか実家にも顔をださない。東北から丸山の住む中国地方との距離を考えれば、孫の顔を見せるという理由がない以上、簡単に帰ってこないのも納得がいく。

 東北では病気がちの旦那の両親と同居しており、旦那も一人っ子とくれば、そちらの世話で手一杯なのだろう。年金で不自由なく関節が痛いとぼやく程度の老人は、一人にしていても心配はない。

 玄関先で物音がした。丸山はまた関節を疼かせながら歩き、郵便受けから新聞を手に寝室へ戻った。途中台所に寄り、レンジで温めた紙パックの甘酒を枕元に置いた。

 新聞を目にするが、鼓動は大きな反応を示さず、平常のまま動き続けている。いくつかの事件や不祥事を見ても、七十五年間で見てきたものたちと比べれば、どれも陳腐で感情は動かない。

 毎日同じ様な変わりない一日の繰り返しだ。そう思いながら、丸山は新聞を読み終えた。

 いつもより早く目を覚ましても、結局はベッドの上で時間を過ごした。時々テレビをザッピングしては、新聞を読み直したりもした。だが何も起こらない。健康のために行っている散歩に出ようかと考えたが、頭の奥底から産声を上げた記憶に、散歩を遮られる。

 今日は週に二回のデイサービスの日だ。昼前には送迎の車がやってくる。今散歩でもして体力を使ってしまえば、デイサービスでの活動を満足に行えず、堪え性のない老人だと思われてしまう。今はゆっくりしておこうと、丸山は甘酒を口に含んだ。ひどく甘い香りが口から鼻に抜けていく。

 十一時を過ぎても、いっこうに呼び鈴は鳴らない。それに加え今日はひどく寒い。布団に包まって暖をとりたいが、それをしてしまうと体が眠ってしまい、デイサービスの活動が満足にできなくなる。

 痺れを切らした丸山は甘酒を飲みきると、受話器を手に取り、デイサービスを行っている診療所に電話を掛けた。数回コール音がした後、快活な若い男性の声が耳に届いた。

「はい診療所です。」

「お世話になってます丸山ですけど、デイサービスの送迎が来ないんですが。」

少々の間があり、快活な声は衰えぬまま続いた。

「丸山さんお世話になってます。今日は水曜日なので、丸山さんのデイサービスは明日ですよ。」

 壁に掛けたカレンダーに目をやり、週二回のデイサービスの日である月曜日と木曜日に『デイ』とメモしてあるのを確認する。そして今日の曜日を思い出す。

 一月二十日の今日は水曜日であり、呆けが始まったかという不安と共に、おかしな時間に目覚めた時から、どうも頭が完全に冴えないでいる。もう一度冷水でも浴びようか思った。

「どうもすいません、明日はお願いします。」

「はい、明日はしっかり送迎に向かいますのでお願いします。」

 通話を終えると、静けさに敏感になってしまい、突然消えた予定によって孤独を強く感じた。

 昼食もデイサービスで済ませる予定であり、家には大した食事も用意していない。散歩がてら買い物に出掛けようとも思ったが、窓ガラスが揺れる風の強さを思うと、膝が疼き、出掛ける気分にもなれない。

 台所でシンクの引き出しを手探りで窺うと、いつ購入したか記憶していないカップ麺と数個の蜜柑を見つけた。皮が必要以上に柔らかく、少し力をこめるだけでぶちゅりと音をたてて潰れてしまいそうだ。

寝室でカップ麺を啜り、蜜柑に手を伸ばす。蜜柑の尻に親指を突き刺し、優しく剥いていく。皮と実の間には僅かな空間があり、実も白みが強く、果肉を感じられない。

蜜柑を口に放り込み奥歯でかじると、なんとも気の抜けた甘味のない汁が口に広がる。丸山は思わず掌に吐き出し、そのままゴミ箱に投げ捨てた。

 蜜柑の味は残念だったが、カップ麺を食べ満腹になると、眠気が襲ってきた。時刻は一三時前。本当はそれほど眠気などなかったのかもしれない。しかし、予定のないまま午後を迎えることが異常に寂しく感じ、夢の中に逃げたかったのかもしれない。

 布団に潜ると寒さが軽減され、孤独を打ち消すような安堵感に包まれる。そのまま丸山は、窓ガラスが揺れる音を聞きながら眠りについた。

 高い呼び鈴の音が不意に耳に響き、丸山は目を覚ました。たちまち冷気が体を襲い、揺れる窓ガラスがうるさい。

 時計の針は短針も長針も、それどころか秒針さえも六の辺りを指している。今が朝なのか夜なのか迷ったが、全身を走る寒さに、まだ大寒の一日は続いていると思った。

 膝を擦りながらベッドから降り、玄関へと向かう。

「はいはい、どちら様ですか。」

 玄関を開錠し、扉を開ける。部屋の中を漂う以上の、生きた冷たい風が流れ込む。

「お世話になってます。丸山さん宛てに郵便です。」

 暗がりに立つ配達員が、玄関の明りによって照らされる。肩や頭に乗った白い物体に思わず目が向いてしまう。配達員の後ろに広がる道には、薄っすらと雪が積もり、空からは白い粒が風に乗って流れている。

 玄関の明りや外灯の光によって、雪は温もりを含んでいるかのような輝きをもち、七十五歳にになった丸山の鼓動を激しくさせる。

 久しく目にしていなかった雪の輝きに、瞳の奥までが照らされる。

「今日は大変ですよ、雪が積もっちゃって運転もドキドキです。こちらにサインお願いします。」

 サインをして郵便物を受け取ると、配達員はしっかりと玄関を閉めて次の配達へと向かう。丸山は微かに扉を開き、しばらく雪を眺めた。いつもと違う日。生活に変化をもたらす雪は、いつまでも降り注いだ。

 寝室に戻り弘子からの郵便物を開くと、まず手紙が出てきた。

『旦那のお母さんが育てたので食べてください。今年のお正月は帰れなかったので、五月の連休には帰ります。それまで元気でね。』

 顔を綻ばせ手紙を読み終えると、もう一つの郵便物を取り出した。濃い橙色をした肉付きの良い蜜柑は、酸味と甘味を混ぜた香りを漂わせている。

 さっそく一つ皮を剥き、口に運ぶ。一口噛むと、果肉の一粒ずつが口の中に広がる。

 外では雪が降り注ぎ、口の中では蜜柑の粒が弾ける。

 大寒の一日はまだまだ続く。久しぶりに夜更かしでもしてみるかと丸山はほくそ笑んだが、明日はデイサービスがあるから程々にしようと、もう一つ蜜柑の皮を剥きだした。

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[気になる点] 誤字の指摘です。 第11段落:〜癌に『×掛かる⚪︎罹る』 第14段落:〜簡単に『×帰られない⚪︎帰れない』 第17段落:〜『感情はなにも動かない』について、『なにも』は主格であると考え…
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