あなたと私が記号でなくなる日
饕餮様主催『大人の制服萌え企画』に参加させていただきました。
県庁所在地M市から北へ一直線に伸びたローカル線。
全区間単線。そして非電化。運行本数は一時間に一本程度で、朝夕だけ二本に増える。
ほとんどの駅が無人駅。
私が生まれてから何度も廃線の噂が立つけれど、M市への通勤通学客に加えて観光客の利用もそこそこ多いので、どうにか廃線にならずにすんでいる。
そんな路線が私の通勤の足だ。
通勤に車を使う人も多いけれど、私は電車通勤が好きだ。
ずっと気を張って車の運転をするより、始発駅から終点までの約一時間二十分をのんびり過ごすほうがずっと楽。寝不足ならひと眠りできるし、本が読みたければじっくり読める。
幸い、私の家は駅に近いし、会社もまた駅から近いのだから、時間さえ気をつければ特に不便は感じない。
むしろ、断り切れない飲み会を早めに切り上げるいい口実にもなるんだから、ありがたい。
六時二十二分発、M駅行き。
私はいつもその電車に乗る。
ラッシュには少し早い時間で、この始発駅から乗り込むのはいつも十人程度。
駅舎は木造平屋建てで、私が小さい頃から変わらない。
近代的な駅よりもこういう古めかしい駅舎のほうが観光客に受けが良いようで、立て替えの噂は聞いたことがない。観光客にとってはノスタルジックな気持ちになれて良いのかもしれないけれど、さて、この駅舎で働く側の感想はどうなんだろうか? なんてシニカルな疑問が湧いてくる。
いつも通り、駅舎の開け放たれた扉をくぐる。
入って右手が小さな待合。壁に沿うようにベンチが置かれている。その中心でだるまストーブが赤々と焚かれ、上に置かれたヤカンがしゅんしゅんと小気味よい音を立てながら湯気を吐いている。
短い間とは言え外を歩いて冷えた頬が、暖かい空気に触れて緩んだ。
そろそろこのストーブも仕舞われることだろう。
東京よりも半月程度遅れて春がやって来るこの地にも、そろそろ春の気配が見え隠れしているのだから。
反対側。私の左側には券売窓口。
今日の担当は中年の駅員さんのようだ。眠気を感じさせないさっぱりした顔でニコニコと人の好さそうな笑みを浮かべて、窓口に座っている。いつものように「おはようございます」と挨拶を交わす。
そのまま真っ直ぐ進めば改札。数年前やっと導入された自動改札が二台。そして有人改札には若い駅員さんがひとり立っている。
「おはようございます!」
私が口を開く前に、爽やかな声がかかった。
秋の人事異動でこの駅にやってきた新人さんだ。
爽やかな声に相応しい、爽やかな容貌。歳はきっと同じぐらいか、少し上。チャコールグレーの制服がよく似合う。
清々しい笑顔につられて、私も知らぬ間に微笑んでいた。
「おはようございます」
挨拶を返しながら、定期を改札機にかざして通る。いつもどおり、ホームの先頭車両方向に向かおうとした私の背に再び声がかかった。
「あ、あの!」
何か落としたかな? なんて思いながら足を止めて、振り向いた。有人改札の新人さんが、身を乗り出している。
「私、なにか落としました?」
「いえ。そういうわけでは……」
目深に被った制帽の奥、切れ長の目が迷うように彷徨っている。
何だろう? 小首を傾げながら彼の次の言葉を待つ。けれど、彼は少し逡巡したあと、首を小さく横に振った。まるで諦めたように。
「すみません。何でもありません。お忙しいところお引止めして、申し訳ありませんでした」
制帽のつばを指で押さえながら、彼は小さく頭を下げた。
一体何なの? と最初は訝しんだけれど、少しバツが悪そうな、恥ずかしそうな顔で目を伏せる彼を見たら、なんだか可愛らしいという気持ちのほうが勝って思わず頬が緩んだ。
「何でもないなら良かったです」
彼ははにかんだように小さく笑って、もう一度「すみませんでした」と頭を下げた。
時間にしてほんの一、二分。
でも、私が彼と挨拶以外の言葉を交わしたのは、これが初めてだった。
たまに電車を利用するうちの母が「新しい駅員さんカッコいいわね。近所でもちょっと噂よ~」なんて浮かれた事を言ってたなぁ。なんてことをホームを歩きながら思い出した。
若くて爽やかで親切な駅員さん。ここは話題の少ない田舎だもん、そりゃあ噂にもなるよね。
でも。
そんな噂の人なのに、私はまだ名前すら知らない。気が付いてちょっと驚いた。
『新しい駅員さん』と言えば通じてしまうし、名前を知りたいと思うほどの興味を、今まで私は抱いてなかったわけだ。挨拶のついでに彼のネームプレートに視線を走らせる、そんなほんのわずかな動作さえ惜しむほどに。
彼は駅員。私は通勤客。それ以外の何者でもない。
お互いそこにその役割で存在するだけの、ただの記号。
そう割り切る自分がなんだか薄情な気がしてきた。
今度顔を合わせたら、ネームプレート確かめてみようかな。
毎日利用していれば、定位置と言うのも自然と決まるもの。
私は迷いなくホームの端へ向かう。先頭車両の、一番後ろのドア。それが私の定位置だ。
バッグの外ポケットから携帯を取り出して時間を確かめれば、六時十五分。
もうそろそろ車両基地から列車がホームに入って来る時間だ。
進行方向と逆側に目を向ければ、駅から少し離れた場所にある車両基地が朝霧にけぶっている。
基地も駅もしんと静まり返っているけれど、一台の列車のライトが霧に滲んでいるのが見えた。もうすぐあれがホームに入って来るんだろう。そうすれば、重く唸るディーゼルエンジンの音やホームに流れるアナウンスで、この駅も一時的に騒がしくなる。
それが待ち遠しいような、そうでないような。
そんなことを考えながら、乗車位置マークが描かれた位置で立ち止まる。
「あれ?」
思わず独り言を呟いたのは、ここ数日、見るのを楽しみにしていた『あるもの』がきれいさっぱりなくなっていたからだ。
「なくなってる……」
いつも私が立つ場所のすぐ近く。真っ黒いアスファルトに走ったひび割れに、菫が芽吹いているのを発見したのは数日前のことだった。花壇からこぼれた種が偶然芽吹いたものなのだろう。
そこだけ早く春が来ているようで、見つけてからと言うものその菫を観察するのが朝の密かな楽しみになっていた。
昨日の朝見た時には蕾はまだ固くて、花の色さえ見当もつかず、咲くのはまだ少し先だと思った。
「抜かれちゃったのかなぁ」
まぁ、こんなとこに生えていたら雑草扱いで引っこ抜かれちゃっても仕方ない。
どんな色の花が咲くのか、見届けられなかったことは残念だけれど。
『間もなく一番線に、M行き列車が到着いたします。危険ですので、白線の内側に下がってお待ちください』
ノイズ交じりのアナウンスが、唐突に静寂を破った。
少しこもっているけれど、あの『新しく来た駅員さん』の声だ。
我に返った私は、慌てて一歩下がった。下がらなくても白線の内側ではあるんだけど、走って来る列車に近いのはちょっと怖い。どうせこの位置から乗り込むのは私一人だし、多少うろうろしたって誰にも迷惑はかからないんだから。
それから数日後の夕方。
唐突に消えてしまった朝のささやかな楽しみのことはもう記憶の片隅に追いやられ、そして、新しく来た駅員さんの名前を確かめる機会はまだ来ず。
急激に暖かくなり始めた陽気のせいで持て余した厚手のコートを腕にかけ、私は二番線ホームに降りた。
遠く山の稜線を見れば、もう日は沈み切っていたけれど、でも空にはまだ少し明るさが残っている。だいぶ日が長くなったなぁ、と感慨にふけりつつ、他の乗客と同様に陸橋へ向かう。二番線のホームには改札がないから、この陸橋を渡って一番線側へ行かなきゃいけない。
ラッシュを嫌って朝は早めに出ているけど、帰りは早く家に帰りたいし、時間をずらすなんてしない。なので、ちょうど帰宅ラッシュの時間だ。
陸橋の階段を上る客はみんな、一日が終わった安堵と早く家に帰りたいという焦りの入り混じった顔をしている。私もきっと彼らと同じ顔をしているんだろう。
会話を交わす人はまばらで、靴音だけが大きく響く。それが余計に人を急がせる気がする。
陸橋を渡り終えて、改札をくぐり、駅を出る。駅前のロータリーには家族を迎えに来た人の車が行列を作っている。
次々と迎えの車に乗り込む人を横目に歩道を歩き出す。
「あの! すみません!!」
後ろから男性の声が聞こえた。けれど、まさか私が呼ばれたとは思わなくて、そのまま歩いていたら。
小走りの足音が近づいてきた。
誰かが私の横をすり抜けた、と思ったら、その誰かが私の前に立ちはだかった。
だいぶ急いだみたいで、肩が呼吸に合わせて上下している。
「良かった……間に合った!」
満面の笑みでそんな独り言を言う。
「あの、何か……」
「急に呼び止めてすみません。あの、あなたに見せたいものがあって……その、良かったら、なんですけど、ちょっと待っていてもらえますか?」
「見せたいもの、ですか?」
一体、何なんだろう?
眉根を寄せて訝しんだ私に、彼は慌てたように付け加えた。
「あ、俺、怪しい者じゃないです。ここの駅で働いてる伊藤って言います!」
制服着てるし、たまに見かけるし、怪しい人から声をかけられて不審に思ってるわけじゃないんだけどな。どう誤解したのか、彼はすごい勢いで自己紹介をしてくれた。
ので、図らずも、ネームプレートを確認する前に彼の名前を知ってしまった。
「伊藤さん?」
「あ、は、はいっ」
上ずった返事に、私は思わず噴き出した。
私なんか相手に緊張しすぎだよ、伊藤さん!
「そんなに固くならないでください」
「でも、急に知らない奴からこんなこと言われて、驚いたでしょう? ほんと、すみません!」
頬を赤くして困っている顔が可愛い。
「いいえ。大丈夫ですよ。そんなに気にしないでください。あの、それで、その見せたいものって何ですか?」
水を向けると彼はハッとしたように目を見開いた。
「ここでは寒いでしょうから、駅の待合で待っていていただけますか?」
「あ、分かりました。じゃあ、私、待ってますね」
電車の暖房に火照った体はまだそんなに寒さを訴えていないけれど、好意を無にするのも申し訳ないので、私は彼の勧めに従う事にした。
「お願いします。俺、急いで取ってきます!」
顔を輝かせた伊藤さんは小走りで駅の通用口へ戻って行った。
その姿を見送って、私も駅へ戻る。なんとなくくすぐったい気持ちなのはどうしてだろう。
次の下り列車が来るのは三十分後。上りも出たばかりで次は一時間後。
そんな駅の待合には誰もいなくて、私はベンチの端っこに腰を下ろした。
どのくらい待てばいいのかな? と思った途端、目の前に影が差す。見上げれば、チャコールグレイの制服の伊藤さんが植木鉢を両手に抱えていた。
土で汚れるのを防ぐためか、白手袋はしていない。慌てて脱いで突っ込んだのか、ジャケットのポケットの端から、手袋の白い指先がはみ出している。
先輩駅員さんや駅長さんに見つかったら「だらしない!」なんて注意を受けるかもしれないその姿。でも私にとっては微笑ましい。
「お待たせしました!」
「私に見せたいものって、その植木鉢ですか?」
私は笑いながら立ち上がった。
何が植えられているんだろう? とのぞき込めば……
「あー! これって……」
「そうです。ホームに生えていた菫です。ここ最近、あなたはよくしゃがみ込んでこれを見てたでしょう?」
いつの間にかいなくなってしまった菫が、ちょこんと植えられていた。ちゃんと根付いたみたいで葉は青々してるし、心なしかのびのびしているようにも見える。
「伊藤さんが植え替えてくれたんですか?」
「あんなとこに生えてたら踏まれそうで可哀想だから……」
まさかこの菫と再会できるとか思ってなかった。あの時はまだ固かった蕾も少しほころんで、白い花弁がちろりと顔をのぞかせている。
「優しいんですね」
「え!? いや、あの、その! そ、そんなことは!」
慌てる彼を見上げて、そう言えば……とこの前、急に呼び止められたことを思い出した。あの朝、もしかして彼はこのことを教えてくれようとしたの?
「この前、私に声をかけてくれたのって、もしかしてこのこと……?」
「あ、あの時はすみませんでした! 朝の忙しい時に声かけちゃって」
いえいえ。改札入っちゃえば電車が来るまでは暇なんだけどな。
「遠慮しないで言ってくださればよかったのに」
と笑うと、彼は困ったように目を泳がせた。
「いや、その……。あなたのこと見てたってバレたら気味悪がられるんじゃないかと……あっ!!」
失言に気が付いたように、彼は片手で口を覆った。
「え?」
私を見てた? それはどういう……
「あ、決して疚しい気持ちとかそう言うのはなくてですね、その……。ああ、なんて言ったら良いのかな。俺、こういう説明が苦手で……。その、あなたがしゃがみこんでるのを見て具合が悪いんじゃないかと心配になったことがあって、それ以来、ずっと気になってて。迷惑ですよね、すみません」
私がしゃがみこんでたから、それを心配してくれてた?
ああ。そうか。そうだよね。
周りから見たら、具合が悪くて座り込んだようにも見えちゃうよね!
やだ。恥ずかしい。そのことに今はじめて気がついた!!
「やだ。私こそ紛らわしいことして、ごめんなさい!」
そうだよね。利用客にトラブルが起きてないか気を配るのは当たり前だよね。ちょっと期待してしまったことも含めて、とんでもなく恥ずかしい!
頬がとんでもなく熱いので、今の私は真っ赤な顔をしてるんだろう。そう思うと余計いたたまれない。
「謝らないでください。具合が悪いんじゃないってことはすぐ分かったし。──あ、この菫、花が咲いたら窓口のところに飾っていいって言われてるので、良かったら見てやってください」
伊藤さんは爽やかな笑顔でそう言うと、カウンターの方を指差して。
そのままの姿勢でビキッと音がしそうなほど固まった。
何だろうと思って彼の指し示す方向に目を向けて──私もビキッと固まった。
ガラス張りになった窓口の向こう。
駅員さんたちが五人ほどひしめき合っている。
「ちょ! な、なに見てんすか!」
「何やってんだ、伊藤! じれったいなぁ。もうちょっとビシッと行け! ビシッと!!」
柔和系オジサマ駅員さんがぐぐっと拳を握って、のたまう。
「そうだぞ! 弱腰でどうする! シャキッとしなさい!」
オジサマ駅員さんに同調するのは、ロマンスグレーな髪も素敵な初老の紳士。
うむ、と頷く姿に威厳が満ちている。
帽子に赤いラインが入っているからきっと偉い人だ。と予測したら、真っ赤になった伊藤さんが
「駅長まで何やってんですか!!」
と怒鳴ったので、予想通り偉い人だったみたいだ。
「もう! 俺のことは良いから仕事してください、仕事!!」
「お前だって勤務中だろうが! 何だよ、可愛い後輩のために時間作ってやった俺たちに対して、ちょーっと冷てぇんじゃねーの?」
と野次が飛べば、みんながそうだそうだと頷く。
「俺は休憩時間なんです!」
言い返す伊藤さんの声はちょっと弱い。
この駅の人たちってみんな面白い。思ったら笑いが止まらなくなった。
お腹を抱えて笑いながら、こういうの良いなあなんて思う。
「申し訳ありません。みんなヒマなもんで、つい……」
「気にしないでください。みなさん面白い方たちですね」
「ええ。まぁ」
彼は照れたように首筋を掻いた。
それから小さな沈黙が落ちた。けれど、それは暖かい余韻を持って流れる。
私は彼の持つ植木鉢に手を伸ばし、菫の葉にそっと触れた。
「この花が咲くの、楽しみにしてますね」
「はい! いつでも見に来てください」
「ありがとうございます。お仕事の邪魔しても悪いので、私はこれで。──じゃ、また明日」
笑いかけると、彼は嬉しそうに笑った。
「はい。じゃあ、また明日」
と敬礼する彼に、私は軽く会釈をして別れた。
けれど、駅を一歩出て足を止めた。大事なことを忘れていたから。
私は踵を返すと伊藤さんの前へ引き返した。
「どうしました?」
不思議そうに首を軽く傾げる彼をじっと見上げた。
「私、宮本って言います。宮本実希。よろしくね、伊藤さん。じゃ、今度こそ本当に帰ります。さようなら」
彼の返事は聞かず、小走りで駆けだした。
駅を出るともう辺りに人影はなく、ただ外灯だけが煌々と照っている。
うら寂しい風景と裏腹に私の心は明るく弾んでいた。
上気した頬を冷たい夜風が撫でていくのが心地いい。
ドキドキする胸を片手で押さえながら、さっきのことをもう一度思い浮かべる。
「伊藤さん、かぁ。下の名前は何て言うんだろう?」
今度、聞いてみよう。
それから。
どさくさ紛れに告げた私の名前。覚えてくれていると良いな。
それは、彼と私がただの『記号』ではなくなった日。