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図書室ではお静かに

作者:

 三日前に梅雨入り宣言がされてから、雨は糸のように細く降り続けていた。


 湿気が肌にまとわりつくようだったが、気温が低いためかそれほど不快ではなく、山の冷たい霧が肌を覆っているようだった。室内でもじっとしていると肌寒く、制服からのびるむき出しの腕は寒さを感じて粟立った。聡子は鞄からカーディガンを引っ張り出すと、読みかけの本を置いていそいそと着込んだ。その動きでずれた眼鏡を戻すと、ついでに強張った身体を伸ばして窓の外を見た。降り続く雨は、柔らかに屋根を叩き、音は図書室に優しく響いた。ベランダのパンジーは恵みを得て深い紫に変わり、葉の緑も潤ってしっとりとしていた。耳をすまさなくても聞こえる雨音は眠気を誘われて思わず聡子は欠伸をした。

こんな雨の日は嫌いではなかった。


 図書委員である聡子は、木曜の昼休みは貸出、返却の当番に当たっていた。

今日は雨だというのに珍しく少なく、返却に来た生徒が二、三人と、座って読む生徒が入れ替わりで何人か来た程度で、今室内には誰も居なかった。テストも終わって、図書室に来ることもないと思っているのか誰も来ない。いつもは何やかんやで落ち着いて本を読み進める時間が取れるほど、生徒の訪れる間隔が開くことはなかったが、今日は読みたかった短編集の一編を読み終える程に暇だった。

残りは家で読もうかと考えていると、遠くで生徒の喧騒が僅かに聞こえた。それに比べて図書室はあまりにも静かで、様々な音が真綿にくるまれたようだった。


 昼食を食べた後の静けさは眠気を手繰り寄せる。心地よい気だるさから聡子は知らない間に目を閉じた。喧騒は相変わらず遠く、微睡みの中で子守唄のようだったが、何故か徐々に近づいているように感じていると突然乱暴に扉が開き、誰かが猛烈な勢いで飛び込んできた。聡子が目を白黒させている間に、誰かは彼女が座っているカウンター裏に素早く身を潜ませた。明るく染めた髪が目についた。



「誰も来てないって言って!」



一体何なんだと、事情が飲み込めない内に柔道で鍛えられた大柄な身体を揺すって現れたのは、生活指導の大河内だった。



「おお寺前か!溝口見なかったか!派手に頭染めた野郎なんだがな!」



しっかりはっきり喋る大きな声を間近で聞いて聡子は思わず耳を塞いだ。

ちらりとカウンターの下を見ると、先程飛び込んできた人間は男子だったようで、大きく横に首を振っているところを見ると、どうやら彼が溝口らしい。

聡子は小さくため息をついた。



「先生もうちょっと小さい声でお願いします、図書室です。あと溝口とは誰ですか、私は知らないです」

「そうか!それはすまんかったな!全くあいつはどこへ行ったんだ!寺前見つけたら先生に教えてくれ!」

「先生、だから私知らないんですが」



全く困ったもんだ!と最後まで大きい声で喋りながら大河内はまた身体を揺すって出ていった。

図書室に誰も居なかったから良かったものの、生徒が居たら間違いなく全員から睨まれていたなと思いながら、聡子は背中を見送った。


そうしてまた先程の静けさが戻ってくると、聡子はカウンター下に声を掛けた。



「先生行っちゃったけど」



足下でごそごそと動く気配と、大きく何かぶつける音がした。

痛そうに頭を押さえて出てきたので、あの音は頭を打った音らしい。白熱灯に照らされた髪は思っていた以上に明るい茶色だった。その割に髪が痛んでおらず、少し綺麗だと思った。立ち上がった彼は聡子が座って見ているからだろうか、背が高く見えた。



「いやぁありがとね。センセイいい人なんだけどさ〜、ちょっと捕まるとお説教長いから逃げたらすげぇ勢いで追いかけてきてさ!こっちもびっくりしてこうなっちゃったんだけど…」



へらりと笑いながら喋っていた溝口が聡子を見下ろすと、ひっと小さく溢した。

失礼な奴だなと聡子は感じたが、とりあえず言いたいことを言ってしまえと口を開いた。



「まず、図書室に走って来ない。ましてや飛び込んで来ないこと。後私はあなたのことを知らないから知らないと言っただけで、お礼をいうことはない。以上。私が言いたいのはそれだけ。分かったら返事」



溝口はぶんぶんと首がとれるかというぐらい縦に振った。

よし、と納得したものの、若干怒気を含んだ自分の言葉を恥ずかしく感じて、確かにあの先生いい人だけど話は長いかな、と弁解するように同意をこぼすと、時計を見て、まだ時間があることを確認した。あのどたばたで眠気も覚めたので、もう一編くらい読めるかもしれないと、聡子は本を開いて読み始めた。


 しかしいつまでも隣に立ち尽くしたまま動かない気配に、思わず見上げるように顔を見ると、溝口は丸い、焦げ茶色の瞳で聡子を見ていた。



「先生行ったし帰ったら」

「うん、いや、その」



もごもごと口ごもる溝口を見ていると、聡子の小学生の弟が言いたいことが言えずに黙っているのにそっくりで、思わず彼女は笑った。



「えっ、何で笑うの!」

「ごめん、弟にそっくりで思わず笑っちゃった。なんか言いたいことあるんでしょう」

「えっ、いや、その、えっとさ…もうちょっとここ居ていいかな〜っと思って…今出ていくとセンセイにまた見つかりそうだから、もちょっとここ居たいんだよね…」



怒られといてなんだけど、と眉を八の字に下げる溝口は何とも情けない顔で、それを見て聡子は吹き出した。



「いいよ。というか図書室だし居るのは自由だよ。静かにしてたらね」

「そうか!そうだよなっていうか、また笑った!何で笑うの!」

「図書室ではお静かに。あんまりにも情けない顔してたからだよ。予鈴まで後10分くらいあるから本取ってきたら」



うえ〜っと言う溝口はずるずると聡子の隣の椅子をカウンター前に持ってくると背もたれを腕に抱えて顎を乗せた。聡子とはカウンターを挟んでちょうど向き合う形になった。



「俺あんま読めないんだよ〜本。頭悪いし眠たくなるし」

「じゃあこれから読んでみる?児童書なんだけど、あんまり長くないし、今軽く見てみたら」



聡子が読み終えて鞄に入れっぱなしにしていた文庫本サイズの本を差し出すと、拗ねるように口を尖らせていた溝口はぱらぱらと眺めて、ふとある所に目を止めて読み出した。二、三ページ読むと止まらないのかじっと読み続けていた。その様子を見ると聡子もまた本の世界に戻っていった。

雨の音が本棚に染み込むように感じるほどに静かになった。雨はまだ弱く屋根を叩き、紙をめくる音が時折響くだけで、図書室は再び真綿の繭に包まれた。



「…面白いかも」



ぽつりと呟いた溝口の言葉に、聡子も読んでいた本から顔を上げた。



「面白いでしょ」



聡子は内容を思い出してそおっと笑った。溝口はぽかっと呆けたような顔をした。



「それ貸すよ。私もう読んじゃったし」

「えっ、いや、…借りる!返すのまた来週、この日でいいよな!?」

「うん、いいよ。また来週ね」



溝口に渡した本に掛かる、布で出来た生成色のブックカバーは彼が握りしめた場所に柔らかな皺が寄った。


 予鈴が鳴ると、聡子は担当の教師から図書室の戸締まりを任されていたので席を立った。

溝口も慌てて立つと、聡子の前に立ち塞がるようになった。聡子は身長が160cmあるが思わず見上げるほどに、溝口は大きかった。180cmはあるかもしれない。溝口は細身で、座っていると余り大きく感じていなかったので、聡子は改めて意外に思った。



「俺!溝口健太!二年!その、よろしく…えっと」

「寺前聡子。私も二年」



よろしく、と聡子が言うと、彼はにかっと笑った。聡子は喜ぶ犬を見ている時の微笑ましい気持ちになって、つられるように微笑んだ。



「それじゃあ私図書室閉めるから」

「お、おう。じゃあか、借りてく」

「うん、またね」



またな!と言って健太は走って図書室から出ていった。来週もまたお説教から始めないといけないのだろうか、と聡子は彼の背中を見送って思った。しかし、健太のあの人懐っこい犬のような笑顔を思い出すとどうにも笑いが込み上げてきて、鍵を閉めながら思わず一人で笑ってしまった。

 きっと彼は今度も静かにすることは出来なさそうなので、来週も雨が降ればいい、と聡子は思った。

 

 

 書いている内に健太君がおばかさんになっていってびっくりしました。

聡子さんは怒った時ヤンキーばりに見上げていました。ちなみに彼女の愛用眼鏡は細めのシルバーフレームです。

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