タマ、外の世界を知る
タマは、春子の家で暮らしている猫。
ふかふかの寝床があり、毎日きちんと餌が出て、水もいつも新しい。寒い日は毛布があり、暑い日は涼しい場所がある。
春子はタマを見るたびに、
「タマちゃん、かわいいねえ」
と言って頭を撫でた。
けれど、タマはそれが少し不満だった。
外へ出たことが、まったくないわけではない。春子が庭に出る時、少しだけついていったことはある。玄関先で日向ぼっこをしたこともあるし、窓の近くから外の匂いを嗅いだこともある。内緒でちょっと旅に出たこともある。
だからタマは、外のことを少しは知っているつもりだった。
風が気持ちいいこと。
草の匂いがすること。
鳥が目の前を飛んでいくこと。
塀の向こうに、知らない世界が続いていること。
けれど、春子はいつもすぐにタマを家へ戻した。
「タマちゃん、危ないからね」
そう言って、抱き上げる。
タマはそのたびに思っていた。
危ない、危ないと人間は言う。
だが、本当にそんなに危ないのだろうか。
外を歩く猫たちは、みんな堂々としている。塀の上を渡り、屋根の上を歩き、好きな場所へ行っている。
自分だって、きっとできる。
タマはそう思っていた。
ある日の昼下がり。
春子が餌皿にごはんを入れてくれた。
「はい、タマちゃん。今日は好きなおやつよ」
好きなおやつだった。タマは一瞬だけ外への不満を忘れ、夢中で食べた。
うまい。
とても、うまい。
しかし、顔を上げた時だった。
窓際に、細い隙間が空いていた。
ほんの少し。
けれど、猫一匹が通るには十分だった。
タマの耳がぴんと立った。
今だ。
タマは餌皿を見た。
まだ少し残っている。
窓を見た。
自由がある。
餌皿を見た。
うまい。
窓を見た。
自由。
悩んだ末、タマは餌を二口だけ急いで食べた。自由も大事だが、腹ごしらえも大事である。
そしてタマは、音を立てないように窓へ近づいた。
「にゃ……」
こんな毎日から、抜け出してやる。
タマは体を細くして、するりと外へ出た。
外の空気は、知っているようで、知らないものだった。
庭先で嗅いだ時よりもずっと匂いが濃い。草の匂い、土の匂い、知らない猫の匂い、車の匂い、人間の靴の匂い。
タマは胸を張った。
やはり外はいい。
家の中より、ずっと広い。
タマは庭を抜け、塀の下をくぐり、路地へ出た。
その瞬間だった。
「ワン!」
「にゃっ!?」
大きな犬の声がした。
近くの家の庭から、犬が勢いよくこちらへ飛び出しかけたのだ。鎖につながれていたので届きはしなかったが、タマにはそんなことを確かめている余裕などなかった。
タマは全力で走った。
尻尾が膨らみ、足が勝手に動く。
塀の隙間に飛び込み、植木鉢を倒し、ようやく細い路地裏まで逃げ込んだ。
「はあ、はあ……」
タマは振り返った。
犬はもう追ってこない。
だが、心臓はまだばくばくしていた。
外は、思っていたより騒がしい。
そして、思っていたより追いかけられる。
タマは少しだけ毛づくろいをして、何事もなかったような顔をした。
たまたま驚いただけだ。
自分は、別に怖がっていない。
そう思った直後、今度は頭上から黒い影が降ってきた。
「カアッ!」
「にゃああっ!」
カラスだった。
カラスはタマの近くに落ちていた何かを狙っただけかもしれない。けれどタマには、自分が狙われたようにしか見えなかった。
また逃げた。
今度は物置の下に潜り込んだ。
タマは暗い隙間の中で、じっと息をひそめた。
外の世界は広い。
広いが、広いぶんだけ、何が来るか分からない。しばらくして、タマは物置の下からそっと出た。
すると、塀の上にやせた三毛猫が座っていた。
「あんた、見ない顔だね」
三毛猫は片目を細めてタマを見た。
「旅の者だ」
「家から出てきたんだろ」
「……なぜ分かる」
「毛並みがよすぎる。それに、逃げ方が派手すぎる」
タマは少しむっとした。
「外へ出たことくらいある」
「ほんの庭先だけだろ」
「……少しは道も見たことがある」
「見たことがあるのと、歩くのは違うよ」
三毛猫は軽く尻尾を揺らした。
「外はね、好きに歩ける。でも、好きに食べられるわけじゃない。寝る場所も自分で探す。犬に追われることもあるし、カラスにからかわれることもある」
「今、両方あった」
「早いね」
三毛猫は少し笑った。
「雨の日はもっと大変だよ。体は冷えるし、隠れる場所は取り合いになる。腹が減っても、誰かが皿に入れてくれるわけじゃない」
タマは黙った。
その時、空が少し暗くなった。
ぽつり、と鼻先に水が落ちた。
雨だった。
三毛猫は慣れた様子で屋根の下へ走っていく。 タマも慌てて後を追おうとしたが、道を間違えた。
雨はすぐに強くなった。
タマの毛は濡れ、足は冷たくなり、腹も空いてきた。
さっき残した餌のことを思い出す。
あれは、まだ皿にあった。
好きなやつだった。
タマは震えながら、知らない軒下に身を寄せた。
外の世界は素晴らしかった。
風も、匂いも、草の感触も、塀の向こうの景色も、たしかに家の中では味わえないものだった。
でも、外で生きていくのは大変だった。
犬に追われる。
カラスに驚かされる。
雨に濡れる。
食べ物も寝床も、自分で探さなければならない。
タマは初めて思った。春子の家は、牢獄ではなかったのかもしれない。
あれは、帰る場所だったのかもしれない。雨が少し弱まった頃、タマは家へ向かった。
道は分かる。
匂いも覚えている。
濡れた体で庭に戻ると、窓はもう閉まっていた。
タマは途方に暮れた。
「にゃあ……」
小さく鳴く。
すると、家の中から足音がした。
「タマ?」
春子の声だった。
窓が開く。
春子は濡れたタマを見て、目を丸くした。
「タマちゃん! どこ行ってたの!」
怒られると思った。
けれど春子は、すぐにタオルを持ってきて、タマを包んだ。
「もう、心配したんだから」
その声は少し震えていた。
タマは、タオルの中でじっとしていた。
春子の手は、やっぱり温かかった。
体を拭かれ、寝床へ連れていかれ、新しい餌を出される。
タマは餌皿を見た。
いつものごはん。
だが、今日は少し違って見えた。
ただ出てくるものではない。
春子が用意してくれるものだった。
タマは静かに食べた。
うまい。
とても、うまい。
食べ終えると、タマはいつもの寝床に丸くなった。
外の世界は素晴らしかった。
またいつか、少しだけ見てみたいとも思う。
けれど、外で生きていくのは大変だ。
犬も、猫も、鳥も、みんなそれぞれの場所で必死に生きている。
自分はずいぶん恵まれている。
タマは、そんなことを思いながら目を閉じた。春子がそっと毛布をかける。
「おやすみ、タマちゃん」
「にゃあ」
小さく返事をして、タマは眠った。
広い世界を少しだけ知った猫は、その夜、いつもの寝床が前より少しだけ柔らかいことに気づいた。




