表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

タマは今日も少しだけ冒険するシリーズ

タマ、外の世界を知る

掲載日:2026/05/18

 タマは、春子の家で暮らしている猫。


 ふかふかの寝床があり、毎日きちんと餌が出て、水もいつも新しい。寒い日は毛布があり、暑い日は涼しい場所がある。


 春子はタマを見るたびに、


「タマちゃん、かわいいねえ」

 と言って頭を撫でた。

 けれど、タマはそれが少し不満だった。


 外へ出たことが、まったくないわけではない。春子が庭に出る時、少しだけついていったことはある。玄関先で日向ぼっこをしたこともあるし、窓の近くから外の匂いを嗅いだこともある。内緒でちょっと旅に出たこともある。


 だからタマは、外のことを少しは知っているつもりだった。


 風が気持ちいいこと。

 草の匂いがすること。

 鳥が目の前を飛んでいくこと。

 塀の向こうに、知らない世界が続いていること。


 けれど、春子はいつもすぐにタマを家へ戻した。


「タマちゃん、危ないからね」

 そう言って、抱き上げる。


 タマはそのたびに思っていた。

 危ない、危ないと人間は言う。

 だが、本当にそんなに危ないのだろうか。


 外を歩く猫たちは、みんな堂々としている。塀の上を渡り、屋根の上を歩き、好きな場所へ行っている。


 自分だって、きっとできる。

 タマはそう思っていた。


 ある日の昼下がり。

 春子が餌皿にごはんを入れてくれた。


「はい、タマちゃん。今日は好きなおやつよ」


 好きなおやつだった。タマは一瞬だけ外への不満を忘れ、夢中で食べた。


 うまい。

 とても、うまい。

 しかし、顔を上げた時だった。

 窓際に、細い隙間が空いていた。

 ほんの少し。


 けれど、猫一匹が通るには十分だった。

 タマの耳がぴんと立った。

 今だ。


 タマは餌皿を見た。

 まだ少し残っている。


 窓を見た。

 自由がある。


 餌皿を見た。

 うまい。


 窓を見た。

 自由。


 悩んだ末、タマは餌を二口だけ急いで食べた。自由も大事だが、腹ごしらえも大事である。


 そしてタマは、音を立てないように窓へ近づいた。


「にゃ……」

 こんな毎日から、抜け出してやる。


 タマは体を細くして、するりと外へ出た。


 外の空気は、知っているようで、知らないものだった。


 庭先で嗅いだ時よりもずっと匂いが濃い。草の匂い、土の匂い、知らない猫の匂い、車の匂い、人間の靴の匂い。


 タマは胸を張った。

 やはり外はいい。

 家の中より、ずっと広い。


 タマは庭を抜け、塀の下をくぐり、路地へ出た。


 その瞬間だった。


「ワン!」

「にゃっ!?」

 大きな犬の声がした。


 近くの家の庭から、犬が勢いよくこちらへ飛び出しかけたのだ。鎖につながれていたので届きはしなかったが、タマにはそんなことを確かめている余裕などなかった。


 タマは全力で走った。

 尻尾が膨らみ、足が勝手に動く。


 塀の隙間に飛び込み、植木鉢を倒し、ようやく細い路地裏まで逃げ込んだ。


「はあ、はあ……」

 タマは振り返った。


 犬はもう追ってこない。

 だが、心臓はまだばくばくしていた。

 外は、思っていたより騒がしい。

 そして、思っていたより追いかけられる。


 タマは少しだけ毛づくろいをして、何事もなかったような顔をした。


 たまたま驚いただけだ。

 自分は、別に怖がっていない。


 そう思った直後、今度は頭上から黒い影が降ってきた。


「カアッ!」

「にゃああっ!」

 カラスだった。


 カラスはタマの近くに落ちていた何かを狙っただけかもしれない。けれどタマには、自分が狙われたようにしか見えなかった。


 また逃げた。

 今度は物置の下に潜り込んだ。


 タマは暗い隙間の中で、じっと息をひそめた。


 外の世界は広い。


 広いが、広いぶんだけ、何が来るか分からない。しばらくして、タマは物置の下からそっと出た。


 すると、塀の上にやせた三毛猫が座っていた。


「あんた、見ない顔だね」

 三毛猫は片目を細めてタマを見た。


「旅の者だ」

「家から出てきたんだろ」


「……なぜ分かる」

「毛並みがよすぎる。それに、逃げ方が派手すぎる」


 タマは少しむっとした。


「外へ出たことくらいある」

「ほんの庭先だけだろ」


「……少しは道も見たことがある」

「見たことがあるのと、歩くのは違うよ」

 三毛猫は軽く尻尾を揺らした。


「外はね、好きに歩ける。でも、好きに食べられるわけじゃない。寝る場所も自分で探す。犬に追われることもあるし、カラスにからかわれることもある」


「今、両方あった」

「早いね」

 三毛猫は少し笑った。


「雨の日はもっと大変だよ。体は冷えるし、隠れる場所は取り合いになる。腹が減っても、誰かが皿に入れてくれるわけじゃない」


 タマは黙った。

 その時、空が少し暗くなった。

 ぽつり、と鼻先に水が落ちた。


 雨だった。

 三毛猫は慣れた様子で屋根の下へ走っていく。 タマも慌てて後を追おうとしたが、道を間違えた。


 雨はすぐに強くなった。

 タマの毛は濡れ、足は冷たくなり、腹も空いてきた。


 さっき残した餌のことを思い出す。

 あれは、まだ皿にあった。

 好きなやつだった。


 タマは震えながら、知らない軒下に身を寄せた。


 外の世界は素晴らしかった。


 風も、匂いも、草の感触も、塀の向こうの景色も、たしかに家の中では味わえないものだった。


 でも、外で生きていくのは大変だった。

 犬に追われる。

 カラスに驚かされる。

 雨に濡れる。


 食べ物も寝床も、自分で探さなければならない。


 タマは初めて思った。春子の家は、牢獄ではなかったのかもしれない。


 あれは、帰る場所だったのかもしれない。雨が少し弱まった頃、タマは家へ向かった。


 道は分かる。

 匂いも覚えている。


 濡れた体で庭に戻ると、窓はもう閉まっていた。

 タマは途方に暮れた。


「にゃあ……」

 小さく鳴く。

 すると、家の中から足音がした。


「タマ?」

 春子の声だった。

 窓が開く。

 春子は濡れたタマを見て、目を丸くした。


「タマちゃん! どこ行ってたの!」

 怒られると思った。


 けれど春子は、すぐにタオルを持ってきて、タマを包んだ。


「もう、心配したんだから」

 その声は少し震えていた。


 タマは、タオルの中でじっとしていた。

 春子の手は、やっぱり温かかった。


 体を拭かれ、寝床へ連れていかれ、新しい餌を出される。


 タマは餌皿を見た。

 いつものごはん。


 だが、今日は少し違って見えた。

 ただ出てくるものではない。

 春子が用意してくれるものだった。

 タマは静かに食べた。


 うまい。

 とても、うまい。


 食べ終えると、タマはいつもの寝床に丸くなった。


 外の世界は素晴らしかった。

 またいつか、少しだけ見てみたいとも思う。


 けれど、外で生きていくのは大変だ。

 犬も、猫も、鳥も、みんなそれぞれの場所で必死に生きている。


 自分はずいぶん恵まれている。


 タマは、そんなことを思いながら目を閉じた。春子がそっと毛布をかける。


「おやすみ、タマちゃん」

「にゃあ」

 小さく返事をして、タマは眠った。


 広い世界を少しだけ知った猫は、その夜、いつもの寝床が前より少しだけ柔らかいことに気づいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ