昂太の「上昇志向」
〈蟻の道生ごみより垂る甘き汁 涙次〉
【ⅰ】
やつぱり、と云ふか何と云ふか、「翁」は近所の惡ガキたちの格好の揶揄ひ相手になつた。惡ガキたちは、齡を取る事の眞相に思ひ及びもつかず、それがまるで畸異な事のやうに處理するからである。
「やい爺イ。僕の子分になれ」ある子が云つた。近所では見掛けない子だ。この「開發センター」周邊は主に中流(言葉の綾としてのものでなく、本当に中くらゐの月給取り)の家が立ち並んでゐる。こゝら邊で見ない、と云ふ事は、彼が金持ちの子であるか、それとも貧乏人の子であるが、どちらかを差してゐる。カンテラが見るに、近頃の子供は、着てゐる衣服で金持ちとも貧乏人ともつかない。カンテラ、テオを呼び出し、彼の後を着けさせた。
【ⅱ】
その結果、だうやら彼は貧乏人の倅である事が判明した。貧乏人出身でありながら、人に「子分になれ」とは、一種、天晴なものを感じさせる。カンテラは彼に接近した。
「うちのお爺ちやんを苛めないで慾しいなあ」突然、侍姿の、異装の男が話し掛けて來たので、彼はびつくりしたやうだ。「をぢさん、カンテラさん?」‐「さうだよ」‐「僕は強くなりたいんだよ。カンテラさんは天下無双なんだろ? 僕に剣術を教へて慾しい」
益々以て天晴である。だが、カネを積むつて事の重要さに、この子は早くに目醒めた方がいゝ。貧乏人の處世とはさう云ふものだ。
「坊主、俺から剣術を學ぶなんて10年早いと思へ。カネなくば、俺は教へんよ」。惡ガキ、惡ガキらしくなく、悄然としてゐる。「カネ? 嗚呼カネさへあればなあ」カンテラこゝで機轉を働かせた。「うちの事務所で働く、さうさな、食器洗い、靴磨き、何でもいゝ。出來る事をやつてみたらだうだ」‐惡ガキ「それで剣術、教へてくれるの?」‐「おうともさ。お前が強くなる手助けをしてやるよ」
【ⅲ】
昂太、と云ふその子は、野方にやつて來て住み込みでカンテラ事務所の雜用を片付ける職務に就いた。丁度、牧野が「開發センター管理者」に出世(笑)してしまつた為に、空席となつてゐたポストである。昂太は、だうやらかう云ふ住み込みばたらきの経験が、前にもあつたやうだ。「強くなりたい」と云ふのも郁子なる哉。底辺の苦勞を既に舐めてしまつてゐる。
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〈これ刺身これ刺身ツマこれ薬味ひとつづゝ取り説明せよと 平手みき〉
【ⅳ】
カンテラは、傳・鉄燦の脇差しを昂太に手渡した。「これで、カンテラさんを突いてみな」。勿論、カンテラには隙がない。ふと躱すか、それとも「白刃取り」の要領で、脇差しを取り上げてしまふか。昂太、後ろから... いやそんなの卑怯だ。と云ふ一頻りの葛藤があつたらしい。「お前さんはてんで駄目だな」カンテラ、さう決め付ける。「この場合、後ろから、つて云ふのは、大事な作戰なんだ。それを實行出來ぬ、弱い心がお前を支配してゐる」‐「ぢやあ」とばかりに、後ろから攻めてみたが、脊後に目が付いてゐるかの如く、カンテラに脇差しを躱されてしまふ。
「おつしよさん。駄目だ。何も打つ手、なしだよ」カンテラ莞爾と笑つた。「そんなら、剣ぢやない、他の道を行け。何も得物は剣ばかりでないのが、この世の有難さだよ」‐「それつて鎖鎌とかゝい?」‐「さう受け取つたのなら、まだお前は甘いよ。要は自立した人間に勝る者はない、つて俺は云ひたかつたんだけどな」
【ⅴ】
結局、昂太は學校に復學(今までサボつてゐたのだ)、勉學の分野で何か見付けてみやうと、努力を開始した。カンテラ、(でもこの子、魔道に墜ちる確率は、50%と云つたところだな。余りに、仕合せを望む氣持ちが強い。それは、この子にとつてのレゾン・デートルなんだらうが...)
じろさんが見てゐた。カンテラ「じろさん、いたのかい? 氣配を消してゐたゞらう?」じ「あゝ。失禮ながら、さうさせて貰つてゐた。世には何で上下と云ふ物があるんだらうな」‐「天は人の上に人を作つた」‐「昂太は俺が預かるよ。學校に行きながら、もしご家庭から薄謝でも頂けるやうだつたら、『古式拳法』、稽古を付けてみる」‐「だうも、暴れ者になつた彼の姿が目に浮かぶんだが」‐「さうなつたら、俺が殺すよ」じろさんの口から「殺す」と云ふ強い言葉が出て來るのを、カンテラは初めて聞いた。
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〈何もかもタルき夏なり髭生ふる 涙次〉
結局、昂太はじろさんの「古式拳法」道場から逃げ出した。彼には、武道のセンスはなかつたのだ。
【ⅵ】
數年後、昂太は立派な【魔】となり、カンテラ・じろさんの前に立ち塞がる。並べて、不平等を起源としてゐるこの世のお蔭なのだ。その時、じろさんが彼を「殺す」事が出來たのかについては、傳はつてゐない。
お仕舞ひ。