夏魁(しゃくい)①
三日後の深夜。少し欠けた月明りの下、虎梁は馬を走らせていた。飛から伝えられた、梨花との待ち合わせの場所へ向かうために。人目に付かないよう城を抜け出し、夜目の利く種類の馬を走らせて半刻ほど。馬を休ませるために街道沿いの小川の辺で一旦止まることにした。
馬に水を飲ませ河原の岩に腰を掛けた。辺りは静まり返り虫の音さえ聞こえない深夜。人里離れた街道の夜の闇を照らすのは頼りない月明りのみ。だが虎梁にはそれで充分だった。幼いころから恐ろしく夜目が利き、月明りさえあれば十分に行動ができた。こんな夜中に、明かりも持たずに行動しているのは自分くらいのものだろう。そう独り言ちて馬が水を飲むのを眺める。小川のせせらぎと時折馬の尻尾が揺れる音。それ以外の音が聞こえるはずがない闇の中で、虎梁の耳が別の音を拾った。
じゃり、と小石を踏む音がして咄嗟にその場から飛びのく。鈍い音がして、たった今まで自分が座っていた岩の傍に大きな石の塊が落ちているのが見えた。物音に驚いた馬が嘶きその場から駆け出した。その様子を傍目に、虎梁は刀を抜いて臨戦態勢を取り、辺りに視線を巡らす。誰かいる。辺りの様子に意識を集中していると、ふと背後に人の気配を感じ、咄嗟に振り替える。同時に刃が降ってきて、手にした刀でそれを受け止めた。
「……っ、何者だ!」
黒づくめの衣装に身を包んだ男だった。刃越しに見えるその顔はどこか見覚えがあるような気がした。光の乏しい中でその人物の表情はうまく伺い知れないが、こちらを見据える瞳には、不思議なことに害意が無かった。
受け止めた刃を薙ぎ払い、虎梁は男と距離を取る。
「何者だ?」
もう一度問うと男はふっと笑った。
「流石は禁軍左軍将軍だ。良い腕をしている」
自分の身許を知っている相手に虎梁の警戒心が高まった。刀を構え、いつでも攻撃できる体勢を取る。しかし男はそんな虎梁を見て手にした刀を鞘に納めた。
「お前の腕を試しただけだ。戦う気はない」
そう言われても虎梁は警戒を解かない。男は明かりも何も持っていない。普通の人であれば、明かりなしに闇の中こんなに動けるはずがない。相手も相当夜目が利く。
誰かの刺客か。城を出た時に誰にも見られないよう細心の注意を払ったが、どこかで付けられていたのか。いや、それでもこの半刻の間誰かに付けられている感覚は無かった。付けられている気配を感じさせずにここまで来たのであれば、相当な手練れだ。
虎梁は刀を握る手に力を込め、男を睨む。
「私が誰だか知っていて襲っておきながら戦う気はないだと。どういうつもりだ」
男はやれやれ、といったように両手を軽く上げて、害意が無いことを示してきた。
「だからお前の腕を試しただけだと言っただろう。お前、殷石に目を付けられているぞ」
「なんだと?」
男の口から出てきた名前に眉を顰める。何故、殷石の名前がこの男から出てくる。
「お前を将軍の座から引きずりおろすために、何か弱みを握ってこいとの依頼でな」
その言葉で虎梁は男の正体を察した。
「……情報屋の夏魁か」
「将軍殿に知られているとは光栄だな」
そう言って夏魁は笑った。
殷石お抱えの情報屋。どんな情報でも彼にかかれば分からないことはない、という凄腕の持ち主だという噂だ。直接姿を見たことは無かったが、この男が夏魁か。
年齢不詳な優男を前にして、虎梁は手にした刀を構えなおす。
この男が夏魁で自分の情報を探っているのなら、どこまで知られているのか確認する必要がある。そしてそれが知られてはならない情報であれば、此処で確実に仕留めておく必要がある。
虎梁の纏う殺気に気付かないのか、気づいていて素知らぬふりをしているのか、夏魁は涼しい顔をしてそばの岩に腰かけた。
「禁軍将軍、虎梁。生まれてすぐに隣国寧の汪趙という町の孤児院前に預けられ以降、その孤児院で十五になるまで育つ。十五で軍に入隊して今に至る、と」
夏魁の口から出た経歴は、虎梁が軍に入る際に偽造したものだ。誰に調べられても不審な点が無いよう綿密に根回しをした身分だ。そこから自分の本当の経歴が明らかになることはないはずだ。
「軍に入隊後は頭角を現し、瞬く間に将軍の地位まで上り詰めた。身辺に疑わしきところなく、軍部の人間にしては清廉潔白で悪い噂を聞かない。まさに将軍としては非の打ち所がないというわけだ」
どんな敏腕な情報屋でもそこ止まりか、と内心息を吐いたところで夏魁がにやりと笑う。
「表向きはな」
「っ!」
何を知っているのだ、と動揺して刀を持つ手が震えた。そんな虎梁を真っすぐ見据えて夏魁は言葉を続けた。
「汪趙の孤児院には、確かに生まれてすぐに孤児院に預けられた虎梁という名前の少年がいた。だが、その少年はある時病に倒れて姿を見せなくなったという。そしてしばらくして再び姿を見せるようになったがまるで別人のようだったと。また、同じ時期に孤児院は人が増えたと。増えたのはとある国からの亡命者達だったという」
淡々と語る夏魁を虎梁は睨みつける。
「とある国というのは、十年程前に陽に対して戦を仕掛けて滅ぼされた、渓という国だな」
一瞬、夏魁がどこか痛々しげな表情を見せる。
「あの騒乱で渓の国民はほぼ皆殺し状態だったという。だが、幸運にも逃げ延びたものが幾らかいて汪趙へ逃れてきた。渓からの難民ということが知られると粛清がある、と危惧して身分を隠して逃れてきた者の中の一人。少し前に病で斃れた少年に成り代わり、虎梁として生きてきたのがお前だろう」
虎梁は何も言えなかった。沈黙は無言の肯定にしかならないことを分かっていたが、夏魁の語った内容は全て事実で、どうやってそこまで調べ上げたのか不思議でならなかった。
絶句している虎梁に夏魁が続ける。
「だが、この話にももう少し裏がある。亡命してきた者たちの中に渓の王族がいた。当時の王、月駿には双子の娘がいて、姉は騒乱に巻き込まれて命を落としたが、妹は生き延びた」
彼の口から語られる言葉に、全身から血の気が引くような気がした。
公式には、渓は王家の血筋が絶えたため滅んだことになっている。虎梁が次期王位継承者であることを知っているのは、あの日共に戦火から逃れた僅かな同志たちだけ。それ以外は誰も虎梁の正体を知らないはず。だとすると、同志の誰かが情報を漏らしたとしか考えられない。誰かが裏切って情報を流しているのか。もしそれが事実だとしたら、自分は何のために今まで己を偽り生きてきたのだろうか。
普段は重荷となって虎梁の心を縛り付けている同志の期待が、急速に不安の種に変わってゆく。
「……何故……そこまで知っている」
どうやって知ったのだ、と思わず訊いていた。それほどに、夏魁の語った情報は全てが事実で、当事者以外知りえない情報だったからだ。
夏魁はしばし無言で虎梁を見つめる。真っすぐ見つめてくる瞳が、やはりどこか見覚えがある気がしてならない。ややして夏魁は口を開いた。
「十年も経てばやはり分からなくなるか、月潤」
あまりの衝撃に、思わず手にした刀を落としてしまった。
「どうして……」
あの日捨てたはずの本当の名前を知っているのか。それと同時に、月潤と呼びかけるその声を虎梁は知っていた。温かく包み込むような声音のその持ち主は、遠い記憶の中に確かにいた。
「にいさま……」