武戴(うーだい)②
国には後継が必要不可欠だ。後宮はその後継を生み出すための場所。そこが機能していなければ国の行く末が危ぶまれる。今は武戴が健在で、しかもまだ年若いから後継がいなくてもすぐに困る状況ではない。しかし武戴に万が一のことが起こった場合に、今の状況では国が路頭に迷う。武戴の代になってからこの国は急速に発展し繁栄を続けている。急速に良くなるということは、急速に悪くなることも有り得る。武戴にもしものことがあったら後継のいないこの国はどうなってしまうのだろう。
そう考えて虎梁は心の中で苦笑する。
その、もしもを起こそうとしている自分にこの国の先行きを案じる権利はない。武戴を斃し、渓を再興することが己に課せられた運命なのだ。
武戴を斃す。それを思って虎梁の表情は曇る。
まず、今の自分の実力では武戴には到底敵わない。力量も経験も、まだ足元にも及ばないのに、どうして彼を斃すことができるだろうか。梨花はその時が近い、と飛に言ったようだが、何を以てしてその時が近いと言ったのだろうか。自分が将軍の地位に就いたことでもう準備が整ったと思い込んでいるのではないだろうか。
期待を以て向けられる彼らの眼差しを思い出し、虎梁は鬱々とした気持ちになった。
——果たして私に武戴様を討てるのだろうか……
力の差ではなく、それ以外に躊躇する理由があった。
あの惨劇の日からずっと聞かされ続けてきた。渓を、父を殺した武戴がどんなに悪辣な人間か。月雫石と王の力を我が物にするために攻め入ってきた陽の軍。その軍を指揮していたのが若き日の武戴だ。軍など持たない渓に武力で押し入り、己の傘下に入らないと見るや問答無用で切り殺したという。そんな残忍な人間を斃すのは正義であり、亡き同胞達の悲願である、と繰り返し聞かされてきた。
だが、将軍になって武戴のそばで接するようになって疑念が沸いた。本当にこの人物が渓を身勝手な理由で滅ぼした張本人なのか、と。
国の発展のため軍備や兵力の増強は怠らないが、それは他国を侵略するためではなく他国からの侵略に備えるため。軍の規律も厳しく改め、身勝手な理由で力を振るうことが無いよう徹底している。また他国に対しても交易を盛んに行い、陽の国は和平を主義に抱えて国を発展させている。これら全てが武戴の意向であり、決して力を行使して国を広げようとはしていない。周囲の者に対しても身分の貴賤を問わず対等に接し、皆から慕われているその姿は、かつて虎梁が繰り返し聞かされてきたその人の姿とはかけ離れたものだった。
王のそばにいると己の使命を見失いそうになる。なにか取り返しのつかない間違いをしているのではないか、とさえ思ってしまう。そんな自分が、果たして武戴に対し刃を向けることができるのだろうか。虎梁は自信を失っていた。
「後宮を閉じた理由か……」
虎梁の問いに武戴は軽く眉を上げる。手にした盃を一気に空にして、視線を暗闇に沈む燕寝へと向けた。
「後宮は不要な争いを生む。争いの火種は少ないに越したことはない」
空になった武戴の盃に虎梁はまた酒を注ぐ。
「後継がいないことも火種の一つになりましょう」
「俺は後継を自分の血筋にするつもりは一切無い。出自の如何を問わず、資質があるものを後継に指名する。そろそろ頃合いかとは思っていたところだ」
「頃合い……ですか」
いったい何の頃合いなのか、首を傾げる虎梁に、武戴は悪童のような笑みを見せる。
「将軍である其方が、国王主催の武道大会において、市井の面前で文句なしの勝利を挙げる。この国の将軍はこんなにも強く美しいのだ、と市井にお披露目ができたわけだ」
「それが何か関係が……?」
訝し気に問うと武戴はくつくつと喉の奥で笑う。
「そこで近日中に触れを出す。もし王に万が一のことがあった場合の後継に虎梁将軍を任ずる、と」
「おやめください!」
思いもよらぬ言葉に思わず声を上げてしまう虎梁。武戴は本気なのか冗談なのかわからない表情で笑っている。
「そんなお触れを出したら、別の意味で火種が燃え上がります。殷石殿が黙っていないでしょう」
「黙っていないだろうな」
「それが分かっているのなら何故……」
「では其方は殷石が俺の後継に相応しいと思うか?」
「思いません!」
即答する虎梁を面白そうに武戴は見ている。
「殷石殿は武人としては力量があり、素晴らしい部分もありますが人としては……」
言い淀む虎梁に武戴は声をあげて笑った。
「その通りだ。殷石は為人に些か問題がある。だがそんな殷石が、其方が来るまで軍の最高位にいたのだ」
唐突に真摯な声音になり武戴は言う。
「この国は慢性的な役者不足だ。先王の時代に不毛な権力争いが頻発し、貴重な人材が数多く失われた。俺が王になってからは、表面的には安定しているように見えるが、内実はそうではない。殷石のように、水面下で足の引っ張り合いをして、有能な人材を屠ろうとする輩が権力の座にまだ数多くいる。俺はそんな状況を変えたいと思っている。そしてその一端を其方に担ってほしいと思っている」
「私に……そんな大役は……」
無理だ、と言おうとする前に武戴が手を上げて言葉を遮る。
「其方ならできる。伏魔殿となっている軍の中で、己の力でここまで上り詰めた実力もさることながら、他者を貶めることをしない器量を持ち合わせている。人の上に立つにはそういった実力と器量が必要なのだ」
武戴は真っすぐ虎梁を見つめる。力強い真摯な眼差しに、虎梁は心の奥を暴かれるような気がして僅かに身じろいだ。
虎梁がここまでのし上がってきたのは他でもない、一族のため。陽の国のためではなく渓を再興するため、陽を討つためにここまでのし上がってきたのだ。そしてそれは畢竟、目の前のこの王を弑することが目的。この国から主たる武戴を奪うためにのし上がってきた。だが王と接するうちに仇討ちの決意は揺らぎ、今の自分がこの地位にいるべきではないとさえ思っている。そんな内情を武戴は知らない。
知られたら……武戴はどうするのだろう、と思った。
真っすぐ射抜くように向けられる眼差しから逃れるように、僅かに目を伏せた。
「武戴様は……私を買いかぶりすぎです」
心の動揺を悟られぬよう、自嘲するようにそう言って少しだけ笑う。
「武戴様のお役に立てるのなら、この身は粉骨砕身してでも捧げますが、後継に指名するのはお止めくださいませ。そう思っていただけただけで身に余る光栄です」
そう言って、気持ちを落ち着かせるように手の中の盃を空にして息を吐く。
空を仰ぐと薄く掃いたような雲の隙間から煌々と輝く月がその姿を覗かせている。隣でまだ虎梁に視線を向けている王はどんな表情をしているのだろうか。気にはなるが眼差しを合わせるのが忍びなくて視線は宙を彷徨った。
「俺の後継は嫌か?」
静かな声がして虎梁は視線を武戴へ戻した。先ほどの射抜くような眼差しではなく、苦笑したような表情の王がいた。
「嫌とかそういう問題ではなく、私には荷が重すぎるのですよ。軍に入って八年、将軍になってそんなに日も経っていない若造をいきなり後継に、と言ったところで、すんなり受け入れられるとは思えませんから」
そんなものか?と首を傾げる王に虎梁は苦笑する。
「一般的な感覚ではそういうものです。武戴様はこうしておそばで接することも多く、私の為人を分かったうえでのお言葉でしょうが、市井の民や、軍部内であっても日常的に接することが無い立場の人々はそうは思わないものです。少なくとも、私が将軍として今後数年で何か大きな功績でも立てれば話は別ですが、当分出番はなさそうなので難しいですね」
そう言って笑うと武戴も毒気を抜かれた表情で「それは残念だ」と軽く笑った。
月を肴に取り留めのない話に花を咲かせていると「そうだ」と何かを思い出したように武戴が懐から何かを取り出した。絹の布に包まれた細長いものがその手に握られている。当たり前のように手渡されて虎梁は首を傾げる。
「これは?」
「城下で舶来品を商う商家より献上されたものだ。元はどこかの豪商の持ち物だったらしいが、事業に失敗して借金の形に取られたものが取引で回ってきたそうだ。見事な逸品だから献上したいと申し出があってな」
開けてみよ、と促されて包みを開いた虎梁はその中身を見て目を見張った。
「……っ」
驚愕の声が漏れそうになり、寸でのところで声を飲み込んだ。
月明りの下で白く不思議な光沢を放つそれは、とろりとした質感の石に細かい彫刻で月夜の渓谷の情景が彫られた美しい横笛だった。そしてその笛に虎梁は見覚えがあった。
月の光で輝く石はこの世に一つしかない。月雫石。
そしてその石で作られた笛は、あの日父と共に失われたはずの「翔霞」だった。
思いもよらぬものとの再会に虎梁は激しく動揺していた。心の蔵が早鐘のように鳴り、翔霞を握る手にはじっとりと汗が滲む。
何故、これが此処に……、と手の中の宝笛を凝視する。
あの惨劇の後、焦土と化した故郷で虎梁達とて翔霞の行方を探さなかったわけではない。翔霞は渓の王であることを証明する宝笛。一族の再興のためにも必ず見つけ出す必要があった。しかし全てが焼け落ち瓦礫に埋もれた故国の中で、小さな笛を見つけ出すことは困難を極めた。大がかりな捜索ができるはずもなく、月日と共に瓦礫の山は草木に覆われ捜索の手を阻み、遂に見つけることは出来なかった。その翔霞が何故此処に。
「……なんと美しい笛でしょう」
己が内の動揺を悟られまいと平静を装ってそう呟く。しかし声が微かに震えるのを抑えることは出来なかった。笛の美しさに感銘を受けたのだと思ってくれれば良いのだが。
「月雫石という宝玉で作られた笛だそうだ。宝庫の品の一つに、と献上されたものだが其方に受け取ってほしい」
「そんな高価なものを私が受け取るわけにはまいりません」
即座に受け取りを辞退する虎梁に武戴は笑う。
「楽器はそれを奏でるものがいてこそ価値がある。宝庫に眠らせておいては笛が可哀そうだ。なに、武道大会の功を労っての品だと思ってくれればいい」
「既に素晴らしい刀を頂いております」
「頑固だな」と武戴は苦笑した。「俺が其方にもらって欲しいのだ。其方には刀よりも笛が似合う」
優しい声でそう言われて、虎梁は手の中の笛に視線を落とす。月の光を受けて輝く美しい宝笛。この宝笛の正体を知ったら武戴はどう思うだろうか。自分が滅ぼした国の王を示す証なのだと知ったら。そう考えると素直に頷くことが出来ず口を噤んでしまった。
翔霞はただの笛ではない。いや、普通の人が手にすればただの美しい笛に過ぎない。しかし、渓の王族が手にすることでその真意を発揮する。渓の王族は一様に水を操る能力を有している。その中でも際立った力の持ち主が翔霞を手にすれば、ありとあらゆる液体を自在に操ることが出来るようになる代物だ。どんな液体でも、それが例え人の血液であっても、だ。そんな恐ろしい代物だからこそ、渓の宝笛として伝えられてきた。それを今、自分が手にしている。
そんな虎梁の姿に戸惑っていると思ったのか、武戴が口を開いた。
「一曲吹いてくれないか。久しぶりに其方の笛が聞きたい」
これまでも武戴の前では何度か笛を披露している。ここで固辞してしまえば不審に思われてしまうかもしれない。そう思い、手の中の宝笛を握りしめて息を吐いた。
「久しぶりですから腕が鈍っているかもしれません」
「構わぬ」
握りしめた宝笛は掌の熱で少し温もりを帯びている。表面に施された彫刻が描く情景は、かつての故郷の光景であることを虎梁は知っている。二度と手にすることは出来ないと思っていた父の、故国の形見に思いを馳せて、唇を歌口へ寄せた。
少し硬く切ない音色が辺りに響く。奏でるのは幼いころに母がよく歌ってくれた子守唄。故国への思いを音色に乗せて虎梁は笛を吹いた。
風もない月空の下。酒で満たされた盃のその水面に、響く笛の音色に合わせ小さく波紋が浮き出るのを見て武戴は微かに笑った。